第214話 地下保管室
フェルトハイムへ戻る道中、誰も昨日ほど多くは話さなかった。
目的が明確になったからだ。
旧石工区。
地下採石場。
そのさらに奥にあるという、十七年前の監察局の保管室。
そして、そこへすでに何者かが入った可能性を示す一枚の紙。
**保管室は開いた。**
**残っているものを、先に見つけてみろ。**
挑発。
あるいは誘導。
どちらにしても、無視できる内容ではなかった。
「本当に、その印は監察局のものなんですね」
馬上でリアムが尋ねた。
「ああ」
マリアが答える。
「少なくとも、私が使っていた時代のものと同じだ」
「複製は可能ですか」
「形だけならね」
「でも羽の根元に入った二本の溝は、分類ごとに位置が違う」
「今回のものは?」
「私が扱っていた資料区分と同じだ」
レオがマリアを見る。
「つまり、あなたが持っていた印章を使った可能性がある?」
「私のはここにある」
マリアは荷物の中から銀の鳥を取り出した。
「じゃあ、同じ区分を扱っていた別の人間?」
ミレイが尋ねる。
「可能性はある」
「何人くらいいたの?」
「当時で六人」
「そのうち、今も生きていると確認できるのは?」
マリアは少し考える。
「私とハンス」
「他は?」
「死んだと聞いた者が二人」
「消息不明が二人」
ガレスが眉をひそめる。
「また死んだと思われてた奴が生きてた、なんて話じゃないだろうな」
「知らないから消息不明と言ってるんだよ」
マリアが睨む。
「勝手に死人にするんじゃない」
「それならいい」
「何がいいんだい」
ガレスは答えず前を向いた。
◇ ◇ ◇
夕刻前。
一行はフェルトハイムへ戻った。
南門で待っていたロイドが、マリアを見て首を傾げる。
「誰だ?」
「村の薬師です」
レオが答える。
「それだけじゃ説明が足りない顔をしてるぞ」
「昔、監察局にいたそうです」
「……薬師が?」
「昔の話だよ」
マリアが不機嫌そうに言う。
「今は薬師だ」
ロイドは何か言いたそうだったが、結局やめた。
「地下の方は?」
レオが尋ねる。
「立入禁止にしてある」
「火もほとんど消えた」
「ただし、一部で崩落が続いてる」
「誰か入った形跡は?」
「俺たちが封鎖してからはない」
「封鎖前は?」
「分からん」
当然だった。
レオたちが地下採石場から脱出した直後は、人質救助と消火で混乱していた。
その間に誰かが別の入口から入った可能性はある。
「北門の外の馬車は?」
「処理した」
「煙を出す薬剤以外、特に変わったものはなかった」
「街の中は?」
「今のところ落ち着いてる」
「偽の命令書も新しくは出てない」
「それは助かります」
「ただ」
ロイドの表情が少し曇る。
「お前がいない間に、一人消えた」
レオの顔が変わる。
「誰です」
「自警団の文書係」
「エイブラム?」
「ああ」
「息子を人質にされてた男です」
リアムが言う。
「いつ?」
「昨夜」
「見張りを一人つけていた」
「だが朝には、窓が開いていて本人はいなかった」
「逃げたのか」
ガレスが尋ねる。
「分からん」
「争った跡は?」
「ない」
「置き手紙も?」
「何も」
レオは少し考えた。
逃亡。
誘拐。
自発的な行動。
まだどれとも決められない。
「息子さんは?」
「まだ見つかってない」
「なら、誰かから新しい指示を受けた可能性があります」
リアムが言う。
「保管室と関係があるかもしれません」
「まず地下へ行きましょう」
レオは決めた。
◇ ◇ ◇
旧石工区には、まだ火災の跡が生々しく残っていた。
黒く焦げた梁。
崩れた足場。
石粉と煤の混ざった床。
人質が集められていた切り出し場は、ほぼそのままだった。
だが、さらに奥。
観察官がいた「最後の実験場」は、かなり崩れている。
燃えた木材が積み重なり、天井の一部も落ちていた。
「ここを通るのか?」
ガレスが尋ねる。
「違う」
マリアは周囲を見る。
「保管室はもっと南だ」
「運搬路の途中」
「では、こちらです」
ダグから聞いていた地下構造を思い出し、レオが右の通路へ向かう。
川へ続く古い運搬路。
ミレイたちが移送された方向でもある。
「この先ですか」
「ああ」
マリアは壁を見ながら歩く。
「十七年前とかなり変わってる」
「補強材も増えてる」
「敵が使うために手を入れたんでしょう」
リアムが答えた。
床には火災後の足跡も残っている。
救助に入った自警団。
敵。
レオたち。
複数の跡が重なり、誰のものか判別しにくい。
「そこで止まって」
マリアが突然言った。
通路の左壁。
一見すると普通の石積みだ。
だがマリアは一つずつ石を確認していく。
「十七年前は、ここに目印があった」
「どんな?」
ミレイが尋ねる。
「三つの傷」
マリアが指差した。
煤を布で拭う。
そこに現れたのは、小さな横傷が三本。
「残ってた」
「これが入口ですか」
レオが壁を観察する。
扉の継ぎ目は見えない。
「仕掛けは?」
ガレスが尋ねた。
「当時は、この石を押して」
マリアが一つの石へ手を掛ける。
レオが即座に止めた。
「待ってください」
「何だい」
「敵が先に入った可能性があります」
「仕掛けを変えられているかもしれません」
マリアは一瞬黙った。
「……正しい」
「リアム」
「確認します」
リアムが壁の下部へランタンを近づける。
細い糸。
油。
新しい金属。
そうしたものは見当たらない。
石の隙間も確認する。
「少なくとも外側に追加された罠はありません」
「では」
マリアが石を押す。
最初は動かない。
さらに力を込める。
ゴッ。
低い音。
壁の奥で何かが外れる。
石壁の一部が、ゆっくり内側へ沈んだ。
隙間から冷たい空気が流れてくる。
「本当にあった……」
ミレイが呟く。
「入るよ」
マリアが先へ進もうとする。
「私が先です」
ガレスが前へ出た。
「年寄りを盾にする気か」
「盾にしないためです」
「なら最初からそう言いな」
ガレスは剣を抜き、暗い通路へ入る。
◇ ◇ ◇
隠し通路は短かった。
十歩ほど進んだ先に、小さな石室がある。
広さは普通の部屋ほど。
天井は低い。
壁には棚。
床には木箱。
かつては三つあったという資料箱。
だが。
「……二つしかない」
マリアが言った。
棚の前には、古い木箱が二つ。
一つ分、明らかに空いている。
床の埃にも、最近まで箱が置かれていた跡が残っていた。
「持ち去られています」
リアムが屈み込む。
「いつ頃?」
「正確には分かりません」
「ただ、箱の跡の内側だけ埃が薄い」
「最近です」
「やはり敵が先に入った」
レオが部屋を見回す。
「残った二箱は?」
「待ちな」
マリアが止める。
「封を確認する」
木箱の蓋には、銀色の蝋。
そこへ鳥の印が押されている。
「一つ目は」
マリアが覗き込む。
「私が運んだ時の封だ」
「もう一つは?」
顔が険しくなる。
「違う」
「開けられてますか」
「一度封を切って、別の蝋で閉じ直してる」
ガレスが舌打ちした。
「中身を入れ替えたか」
「可能性がある」
「では、まず未開封の方から」
レオが言う。
マリアは頷いた。
◇ ◇ ◇
最初の箱。
十七年前の封を、マリア自身が割る。
蓋を開けると、古い紙の匂いが立ち上った。
中には帳簿。
報告書。
何冊もの薄い冊子。
リアムが一冊ずつ確認していく。
「白鴉計画関連……」
「これも」
「これもです」
マリアが眉を寄せる。
「私が見た資料と同じだ」
「MIREIは?」
ミレイが尋ねる。
「探します」
全員で紙を確認する。
やがてリアムが一冊の冊子を止めた。
「ありました」
表紙。
**白鴉計画・段階分類補足**
ページをめくる。
最初には、複数の段階名。
監視。
情報収集。
疑念形成。
認識誘導。
証言補強。
そして。
**MIREI――現実整合。**
「やはり」
レオが言う。
人名ではない。
「意味が書いてあります」
リアムが読み進める。
そこには簡潔な説明。
対象者へ植えつけた認識を固定するため。
周囲の記録。
証言。
生活環境。
人間関係。
これらを矛盾しない形へ調整する。
「つまり」
ミレイが言う。
「本人だけじゃなく、その人の周りまで嘘に合わせる?」
「はい」
リアムが答える。
「そうすれば、対象者は自分の記憶を疑っても、周囲すべてが同じ答えを返す」
「逃げ場がなくなる」
ヴィクターの顔が青ざめた。
「私にやろうとしていたことです」
「おそらく」
オーウェンの問い。
記憶が抜けたという思い込み。
国王へ刃を向けたという状況。
周囲の証言まで揃えば。
ヴィクターは、自分を完全に危険な人間だと信じ込んでいたかもしれない。
◇ ◇ ◇
「白紙の帳簿の意味も少し見えてきました」
レオが言った。
「中身が白紙だったのは」
「何も決まっていないから?」
ミレイが尋ねる。
「逆かもしれません」
リアムが答える。
「現実整合段階では、必要に応じて後から記録を作る」
「最初は白紙」
「対象者に与えたい現実に合わせ、内容を書き足す」
「だから最後の頁だけにMIREIと」
「この帳簿はMIREI段階用だという目印だった?」
「可能性は高いです」
マリアが腕を組む。
「なら、ミレイの名前と同じだったのは偶然かい」
全員がミレイを見る。
「……私に聞かれても」
「そうですよね」
レオはすぐ視線を戻した。
「今の段階では偶然と考えるべきです」
「証拠がありません」
「助かる」
ミレイが小さく笑った。
「毎回私の出生の秘密になるの、疲れるから」
「今回はしません」
「今回は?」
「今後も、証拠がなければしません」
「ならよし」
◇ ◇ ◇
冊子の後半には、さらに重要な記述があった。
**MIREI段階完了後、対象は自発的判断と外部誘導を区別できなくなる可能性あり。**
ガレスの表情が険しくなる。
「自分で決めたのか、誰かに決めさせられたのか分からなくなる?」
「そうです」
リアムが言う。
「白鴉計画が目指した最終形に近いのでしょう」
「今まで敵がやってきたこと、そのものですね」
レオは冊子を閉じる。
王都か家族か。
左か右か。
信じるか疑うか。
繰り返し選択を迫り。
その選択自体を信用できなくさせる。
「ですが、これで計画の仕組みはかなり分かりました」
「問題は」
ガレスが空いた箱の跡を見る。
「持ち去られた一箱だ」
「何が入っていた?」
マリアは首を振った。
「知らない」
「私が中を見なかった二箱のどちらかだ」
「残った開封済みの箱を確認しましょう」
◇ ◇ ◇
二箱目。
新しい蝋を慎重に割る。
蓋を開ける。
中には紙が少ない。
十数枚ほど。
「抜かれている」
マリアが即座に言った。
「本来はもっと入ってたはずだ」
「何が残っています」
リアムが一枚ずつ並べる。
ほとんどは連絡記録。
資料の移送先。
担当者名。
だが。
一枚だけ、紙質が違うものがあった。
「これは新しい」
レオが言う。
十七年前の紙ではない。
まだ白い。
そこには一文。
**第一資料は回収した。**
**第二資料は不要。**
**第三資料は、王子に読ませろ。**
「第三資料?」
ミレイが尋ねる。
「箱を番号で呼んでいる?」
マリアが箱を見る。
古い箱の側面。
薄く数字が残っている。
今開けている箱は二。
未開封だった箱は三。
「第三資料は」
ガレスが先ほどの冊子を見る。
「未開封だった方か」
「そうなります」
「読ませろ、ということは」
リアムが言う。
「敵は、MIREI分類の説明を私たちに見つけさせたかった」
また誘導。
しかし。
「だからといって、内容が偽物とは限りません」
レオが言った。
「十七年前の封が残っていました」
「敵が中身を書き換えた可能性は低い」
「真実を見せたうえで、何かをさせたい?」
ヴィクターが尋ねる。
「おそらく」
「第一資料は何です」
レオがマリアを見る。
「分からない」
「ただ、箱一つ分」
「敵がわざわざ回収した」
「白鴉計画にとって最も重要な記録かもしれない」
◇ ◇ ◇
その時。
ガレスが部屋の入口を振り返った。
「誰かいる」
全員が動きを止める。
隠し通路の向こう。
微かな足音。
こちらへ近づいてくる。
レオは剣の柄へ手を掛けた。
ガレスが入口脇へ立つ。
リアムがランタンを下げる。
足音が止まった。
「誰だ」
ガレスが低く問う。
返事はない。
次の瞬間。
一枚の紙が、通路の暗闇から滑るように投げ込まれた。
ガレスは飛び出さない。
「追わないんですね」
ミレイが小声で言う。
「学習した」
ガレスが不機嫌そうに答える。
リアムが紙を確認する。
罠はない。
拾い上げる。
白い鳥の印。
今度は本物。
そして文章。
**MIREIを理解したなら、次は対象を見つけろ。**
その下。
名前ではない。
一つの番号が記されていた。
**対象番号・零一七。**
「零一七……」
ヴィクターが呟く。
さらに下。
短い一文。
**対象は、すでに王の隣にいる。**
レオの表情が変わった。
王。
セドリック国王。
その隣。
王宮にいる誰か。
「王都です」
リアムが言う。
「敵は、私たちを再び王都へ向かわせようとしている」
「誘導かもしれません」
レオは紙を見つめる。
「ですが」
対象番号。
MIREI段階。
王の隣。
無視もできない。
その時。
マリアが机代わりの木箱へ置かれた資料を見ていた。
「ちょっと待ちな」
「どうしました」
「対象番号」
マリアが未開封だった資料の冊子を開く。
後半。
小さな一覧表。
そこには、過去の試験対象番号が並んでいた。
零〇一。
零〇二。
零〇三。
そして。
零一七。
「あります」
リアムが息を呑む。
欄の横には、短い記載。
**対象番号017――王族近親者。**
さらに。
**試験中止。対象喪失。**
「十七年前の対象?」
ミレイが尋ねる。
「でも、対象喪失って」
「死んだとは書いてありません」
レオが答える。
「行方不明」
「移送」
「記録から消えた」
「いくつも考えられます」
マリアがさらに頁をめくる。
「ここだ」
対象番号017の補足。
名前の欄。
黒く塗り潰されている。
だが、その下に一つだけ読める記述があった。
**王位継承順位――当時第三位。**
部屋の空気が変わった。
「王族……」
ガレスが呟く。
十七年前。
王位継承順位第三位。
白鴉計画の対象。
記録上は喪失。
そして今。
**対象は、すでに王の隣にいる。**
レオは紙を強く握った。
もしこれが本当なら。
白鴉計画の対象は。
過去の人間ではない。
今も王宮にいる。
そして。
セドリック国王のすぐ近くにいる。
レオはすぐに顔を上げた。
「王都へ戻ります」
今度は。
敵に言われたからではない。
十七年前の記録。
対象番号017。
現在の情報。
複数の証拠が、同じ場所を示していた。
王宮へ。
王の隣へ。
白鴉計画が十七年前から追い続けた対象の正体を確かめるために。




