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第212話 始まりの村へ

翌朝。


 フェルトハイムの空には、薄い雲が広がっていた。


 雨が降るほどではない。


 だが、遠くの山々には白い靄がかかっている。


 レオは家の前で馬の荷を確認していた。


 食料。


 水。


 雨具。


 簡単な薬。


 予備の縄。


 必要最低限にしたつもりだったが、それでも荷物はそれなりの量になった。


「レオ」


 背後から声を掛けられる。


 振り返ると、ミレイが立っていた。


「また増えてない?」


「何がです」


「荷物」


「必要なものだけです」


「昨日より袋が一つ増えてる」


「途中で何があるか分かりませんから」


「そうやって最後には家ごと持っていきそう」


「さすがに家は運べません」


「そういう問題じゃないよ」


 ミレイが呆れたように笑う。


 ほんの少し前まで、地下採石場で人質にされていた。


 それを考えれば、こうして普通に言葉を交わせること自体がありがたかった。


 だが。


 今回向かう先にも、何が待っているかは分からない。


 辺境の村。


 ミレイが薬師見習いとして三年間働いた、マリアの工房。


 そして。


 工房の奥に保管されていた、銀の鳥が入った古い箱。


   ◇ ◇ ◇


 今回、村へ向かうのは五人だった。


 レオ。


 ミレイ。


 ガレス。


 リアム。


 そしてヴィクター。


「本当に私も同行するのですか」


 ヴィクターが尋ねる。


「はい」


 レオは迷わず答えた。


「マリアさんの過去が白鴉計画や監察局に関係しているなら、あなたの記憶が役に立つかもしれません」


「それだけですか」


「どういう意味です」


「私をフェルトハイムへ残しておくのが不安なのでは?」


 レオは少し考えた。


「それもあります」


「否定しないのですね」


「嘘をつく理由がありません」


 ヴィクターが苦笑する。


「分かりました」


「むしろ、その方が安心します」


 ガレスが横から言う。


「お前も随分慣れたな」


「何にです?」


「レオの遠慮のない言い方に」


「最初はもっと柔らかかった気がします」


「今でも十分柔らかいつもりですが」


「お前は黙って荷物を確認してろ」


 ガレスに言われ、レオは素直に馬へ向き直った。


   ◇ ◇ ◇


 ルナとソラはフェルトハイムへ残る。


 今回はロイドだけではなく、自警団から交代で護衛を出すことになっていた。


 レオの家の周囲。


 子供たちが外へ出る場合。


 食料を運び込む者。


 すべて確認する。


 やりすぎかもしれない。


 だが、一度家族を奪われた以上、同じ失敗を繰り返すつもりはなかった。


「父さま」


 ルナがレオの外套を引っ張る。


「はい」


「本当にすぐ帰ってくる?」


「できるだけ早く帰ります」


「できるだけじゃなくて」


「……帰ってきます」


「絶対?」


「絶対です」


 ルナはしばらくレオを見上げていた。


 やがて小さく頷く。


「じゃあ、これ」


 差し出したのは、小さな木片だった。


 そこには炭で簡単な絵が描かれている。


 大きな家。


 その前に並ぶ人影。


「これは?」


「帰ってきたところ」


 レオは人影を数えた。


 一、二、三、四、五。


 今回出発する人数と同じ。


「五人全員?」


「うん」


「誰もいなくなったら駄目」


 レオは木片を大切に受け取った。


「分かりました」


「約束します」


 ミレイもルナを抱き締める。


「ソラをお願いね」


「私が守る」


「頼りにしてる」


 ルナは胸を張った。


 その隣で、ソラは事情も分からないまま、ミレイの服を握っている。


「おかあしゃん」


「すぐ帰ってくるからね」


 ミレイが頭を撫でる。


 ソラは不満そうだったが、ロイドの妻に抱き上げられると、そちらへ顔を埋めた。


 レオは二人の姿を目へ焼きつける。


 今度こそ。


 必ず戻る。


   ◇ ◇ ◇


 五人はフェルトハイムを出発した。


 辺境の村までは遠い。


 レオが初めてミレイと出会った森も、フェルトハイムの近くにあるわけではない。


 王都からもフェルトハイムからも離れた、街道の端にある小さな村。


 だからこそ、かつてレオは王宮から離れた視察の途中であの地域へ入り、そこで一人になった末、森で倒れていた。


 そしてミレイに助けられた。


 あの日がなければ。


 今の自分はない。


「久しぶりですね」


 レオが言う。


「村?」


「はい」


「私は、かなり久しぶりです」


「私も」


 ミレイは馬上から遠くを見る。


「マリアおばあさん、元気かな」


「手紙を書けるくらいですから、大丈夫でしょう」


「でも、怒ってそう」


「なぜです?」


「ずっと顔を見せてないから」


「怒られますか」


「絶対怒られる」


 ミレイは苦い顔をした。


「『薬師見習いが何年も工房を空けてどうする!』とか言われそう」


「まだ見習いなのですか」


「……どうなんだろう」


「三年間やっても薬草を間違えていたのでしょう」


「レオ」


「はい」


「帰る前に喧嘩する?」


「すみません」


 後ろからガレスの笑い声が聞こえた。


   ◇ ◇ ◇


 午前中は何も起こらなかった。


 街道を行き交う商人。


 荷車。


 旅人。


 農村から市場へ向かう人々。


 どこにでもある光景だ。


 それでも全員が警戒を解かなかった。


「尾行は?」


 レオが尋ねる。


「今のところ見当たりません」


 リアムが答える。


「後方も同じです」


 ガレスが言う。


「静かすぎるな」


 ヴィクターが呟いた。


「それ、昨日も言っていましたね」


「ええ」


 ヴィクターは苦笑した。


「白鴉計画を引き継いだ者たちと関わってから、何も起きないことまで疑うようになりました」


「それも相手の狙いかもしれません」


 リアムが言う。


「常に疑わせる」


「何もなくても、何かあると思わせる」


「それだけで判断力は削られます」


「なら、普通に進みましょう」


 レオが言った。


「何か見つけてから考えます」


「何もなければ、それでいい」


 疑うことと。


 怯えることは違う。


 それを忘れてはいけない。


   ◇ ◇ ◇


 昼過ぎ。


 一行は小さな宿場へ到着した。


 ここで馬を休ませ、水と食料を補給する。


 レオたちが宿の前へ入ると、主人が何度もこちらを見ていた。


 やがて意を決したように近づいてくる。


「あの……」


「どうしました」


「失礼ですが、レオ様でしょうか」


 全員の表情が変わった。


「そうですが」


「お預かりしているものがあります」


 ガレスがすぐ剣の柄へ手を置く。


「誰からだ」


「分かりません」


「昨日、旅人らしい男が置いていったんです」


「レオ様がここへ来たら渡してくれ、と」


 予想されていた。


 フェルトハイムを出ることも。


 この宿場を通ることも。


「どんな男でした」


 リアムが尋ねる。


「灰色の外套でした」


 レオたちは顔を見合わせた。


「顔は?」


「深く帽子をかぶっていて」


「よく見えませんでした」


「声は?」


「普通の男の声だったと思います」


 宿の主人が奥から持ってきたのは、小さな木箱だった。


「触らないでください」


 リアムが受け取る前に外側を確認する。


 糸。


 針。


 不自然な穴。


 目に見える仕掛けはない。


 地面へ置き、さらに慎重に調べる。


「開けても大丈夫だと思います」


「お願いします」


 リアムがゆっくり蓋を開ける。


 中に入っていたのは。


 一枚の古い布。


 そして、小さな銀色の徽章だった。


 翼を広げた鳥。


 ミレイが息を呑む。


「似てる……」


「マリアさんの工房で見たものに?」


「うん」


 ミレイは近づいて確認する。


「でも、同じものかは分からない」


「昔、一瞬見ただけだから」


「触らないでください」


「分かってる」


 リアムが布越しに徽章を持ち上げる。


 裏側には文字も番号もない。


「白鴉計画の徽章と同じですか」


 ヴィクターが尋ねる。


「形は似ています」


 リアムが答える。


「ですが、これだけで同じ組織のものとは判断できません」


 箱の底には紙が一枚入っていた。


 そこには短く、


 **村へ行く必要はない。**


 **銀の鳥について知りたいなら、答えは北にある。**


 と書かれていた。


 簡単な地図も添えられている。


 宿場から北へ伸びる脇道。


「行きません」


 レオは即答した。


 ガレスが少し笑う。


「今回は早いな」


「マリアさん本人から、村へ来るよう手紙を受け取っています」


「目的地を変える理由がありません」


「でも」


 ミレイが徽章を見る。


「これを置いた人は、マリアおばあさんが銀の鳥について知ってることまで分かってる」


「そうですね」


「つまり、私たちが村へ向かう理由も知ってる」


「その可能性は高いです」


「なら、村にも何か」


「あるでしょう」


 レオは否定しなかった。


「だから急ぎます」


 徽章と手紙だけ回収し、木箱は宿場の主人へ預ける。


 何かあった場合に備え、誰がいつ置いていったのかも記録してもらった。


 そして一行は、北へ向かわず。


 予定通り辺境の村への道を進んだ。


   ◇ ◇ ◇


 夕方。


 街道を外れ、細い地方道へ入る。


 ここから先は人通りが減る。


 森。


 畑。


 小さな集落。


 見覚えのある景色が、少しずつ増えていく。


「懐かしい」


 ミレイが呟いた。


「覚えていますか」


「もちろん」


「あの先を曲がったところに、小さな橋がある」


 しばらく進む。


 本当に橋が現れた。


「その次は?」


 レオが尋ねる。


「坂」


 坂があった。


「その次は?」


「分かれ道」


 分かれ道。


「左ですか」


「右」


「覚えているものですね」


「何年住んでたと思ってるの」


「私は何度か迷いました」


「レオは村の人じゃないでしょ」


 そんな会話をしながら進んでいた時。


 ガレスが突然、手を上げた。


「止まれ」


 全員が馬を止める。


 前方。


 小さな橋の手前に、一人の老人が立っていた。


 杖をついている。


 こちらを待っているようにも見える。


「知っていますか」


 レオがミレイへ尋ねる。


「ううん」


 ミレイは目を凝らす。


「村の人じゃないと思う」


 ガレスが先頭へ出る。


「道を通りたい」


「少し脇へ寄ってもらえるか」


 老人は動かなかった。


 代わりに顔を上げる。


「ミレイ」


 名前を呼んだ。


 ミレイの身体が強張る。


「私を知ってるんですか?」


「名前だけは」


 老人は答えた。


「お前自身を知っているわけではない」


 以前のような曖昧な言い方ではない。


 ミレイと昔から面識があるわけではなさそうだ。


「あなたは誰です」


 レオが尋ねる。


「ハンス・ベルガー」


「昔、マリアと仕事をしていた」


 ミレイが目を見開く。


「マリアおばあさんと?」


「ああ」


「薬師なんですか」


「違う」


 ハンスは首を横に振った。


「マリアが薬師だけではなかった頃の仕事だ」


 空気が変わった。


「監察局ですか」


 リアムが尋ねる。


 老人はすぐには答えない。


 やがて。


「その名を知っているなら、もうかなり深いところまで来ているようだな」


「否定はしないのですね」


「する意味もない」


 ハンスは外套の内側へ手を入れた。


 ガレスが剣を半分抜く。


「ゆっくりだ」


「分かっている」


 老人が取り出したのは武器ではなかった。


 銀色の徽章。


 翼を広げた鳥。


 宿場の木箱に入っていたものとよく似ている。


「また銀の鳥」


 ミレイが呟く。


「これが監察局の徽章なのですか」


 レオが尋ねる。


「違う」


 ハンスは即答した。


 全員が意外そうに老人を見る。


「では何です」


「監察局が使った印の一つではある」


「だが、所属を示す徽章ではない」


「どういうことです」


「監察局には、表に出せない情報を扱う者たちがいた」


「その者たちが、資料の分類に使っていた印だ」


「鳥そのものに、何か意味が?」


「ある」


 ハンスは自分の徽章を見た。


「だが、それはマリアから聞け」


 ガレスが眉をひそめる。


「なら何のために出てきた」


「忠告だ」


「何について?」


「今、お前たちが持っている銀の鳥」


 ハンスがレオたちの荷物へ目を向ける。


 宿場で回収した徽章。


「なぜ持っていると分かるのです」


「置いた者を見たからだ」


「誰です」


「知らん」


「追わなかったのですか」


「追った」


「見失った」


 ハンスは悔しそうに答えた。


「だが、あれは私たちが昔使っていたものではない」


「偽物?」


「形だけ真似たものだ」


「何が違うのです」


 リアムがすぐ尋ねる。


「裏側だ」


「本物には小さな溝がある」


「羽の根元に二本」


 リアムが宿場で回収した徽章を布越しに取り出す。


 確認する。


「ありません」


「なら偽物だ」


 ハンスは言った。


「誰かがお前たちを、別の場所へ誘導するために作ったものだろう」


「やはり北へ行かなくて正解でしたね」


 ミレイが言う。


「はい」


 レオは頷いた。


「ハンスさん」


「あなたは、なぜ私たちを待っていたのです」


「マリアに頼まれた」


「マリアさんに?」


「村の外を見ていてくれとな」


「見知らぬ者が近づいたら知らせろ、と」


 レオの表情が変わる。


「すでに誰か来ましたか」


「二人」


「いつです」


「今朝」


「灰色の外套を着ていた」


「村へ?」


「入れていない」


「村の手前で私を見て、引き返した」


「今どこに?」


「分からん」


「だから急げ」


 ハンスは道を空けた。


「マリアは工房にいる」


「お前たちが来るのを待っている」


 ミレイが尋ねる。


「マリアおばあさんは無事なんですね?」


「ああ」


「今のところはな」


 その一言で、全員の緊張が増した。


「一緒に来ないのですか」


 レオが尋ねる。


「私はここを見張る」


「連中が戻るかもしれん」


「それと」


 ハンスはヴィクターを見た。


 その視線だけが、少し長く止まる。


「その男」


 ヴィクターが身体を強張らせる。


「私ですか」


「声を聞くことがあるだろう」


 ヴィクターの顔色が変わった。


「なぜ、それを」


「マリアから聞いたのですか」


 レオが尋ねる。


「違う」


「昔、同じ症状を訴えた者を知っている」


「誰です」


「それも、村へ行ってから話す」


「あなたが話すのでは?」


「私一人の記憶では足りん」


 ハンスは言った。


「マリアと照らし合わせなければ、また間違った話をお前たちへ渡すことになる」


 その言葉に、レオはわずかに目を見開いた。


 断定しない。


 自分の記憶だけを真実として押しつけない。


 少なくとも、これまで遭遇した白鴉計画の関係者とは違う。


「分かりました」


「村へ向かいます」


「そうしろ」


 レオたちは再び馬を進めた。


 ハンスの横を通り過ぎる。


 その時。


「王子」


 呼び止められた。


 レオが振り返る。


「一つだけ」


「何です」


「マリアを、ミレイの過去と結びつけすぎるな」


 レオの表情が変わる。


「どういう意味です」


「あいつが隠しているのは、主に自分の過去だ」


「ミレイを育てたわけでも」


「幼い頃から見守っていたわけでもない」


「ミレイと知り合ったのは、あの娘が工房へ薬師見習いとして来てからだ」


 ミレイも黙って聞いている。


「では、白紙の帳簿にミレイの名前があったことと、マリアさんは」


「関係があるかもしれん」


「ないかもしれん」


 ハンスは答えた。


「そこを勝手に一つへ繋げるな」


「事実だけを聞け」


 レオはゆっくり頷いた。


「覚えておきます」


   ◇ ◇ ◇


 そこから村までは、それほど遠くなかった。


 陽が山の向こうへ傾き始めた頃。


 見覚えのある家々が見えてくる。


「あ……」


 ミレイが小さく声を漏らした。


 辺境の村。


 かつて暮らしていた場所。


 何度も歩いた道。


 小さな広場。


 古い井戸。


 畑。


 大きく変わってはいない。


 ただ。


 レオにとっては、何もかもが懐かしかった。


 ここへ来たから。


 ミレイと出会った。


 森で助けられ。


 何度も会い。


 少しずつ、自分の仮面を外すことができた。


「帰ってきた……」


 ミレイが呟く。


 レオは彼女を見る。


「はい」


 村人たちもこちらへ気づき始めた。


「あれ……ミレイ?」


「ミレイじゃないか!」


「戻ってきたのか!」


 懐かしい声が飛ぶ。


 ミレイが少し困ったように笑う。


「ただいま」


 何人かが近づこうとしたが。


 その中から一人の女性が飛び出してきた。


「ミレイ!」


「セリーヌ?」


 ミレイが目を丸くする。


 村娘のセリーヌだった。


 昔と変わらず勢いよく駆け寄ってくる。


「本当にミレイ!?」


「うん」


「それに――」


 セリーヌの視線がレオへ移る。


 動きが止まった。


「レ、レオン様……!」


「お久しぶりです」


「ほ、本物……」


 かつて王子の視察だけで大騒ぎしていた彼女の反応に、ミレイが苦笑する。


「そこも変わってないんだ」


「だってレオン様だよ!?」


「はいはい」


 ほんの一瞬。


 昔へ戻ったようだった。


 だがセリーヌは、すぐ真剣な表情になる。


「ミレイ」


「何?」


「マリアおばあさんのところへ行くんでしょ?」


「どうして分かったの」


「朝からずっと工房を閉めてる」


 ミレイの表情が変わる。


「閉めてる?」


「うん」


「誰も入れるなって」


「でも、ミレイが来たらすぐ通せって言ってた」


「マリアおばあさんが?」


「そう」


 セリーヌは少し不安そうに工房の方向を見る。


「何かあったのって聞いても」


「『昔の借金を返すだけだ』って」


「借金?」


「お金じゃないと思う」


「顔が、そんな感じじゃなかったから」


 レオたちは顔を見合わせた。


「行きましょう」


「うん」


   ◇ ◇ ◇


 工房は、記憶の中とほとんど変わっていなかった。


 古い木造の建物。


 窓辺に吊るされた乾燥薬草。


 扉の横には、少し傾いた看板。


 ミレイが三年間通った場所。


 そして。


 レオがまだ「レオ」とだけ名乗っていた頃。


 ミレイが何度も仕事の愚痴を話していた、その工房。


 扉には「本日休業」の札が掛けられている。


 ミレイが扉を叩く。


「マリアおばあさん」


 返事はない。


 もう一度。


「私。ミレイ」


 少し間があった。


 中から足音。


 ゆっくり近づいてくる。


 鍵が外された。


 扉が開く。


 そこに立っていたのは。


 白髪。


 皺の刻まれた顔。


 鋭い目。


 昔と変わらないマリアだった。


「遅い!」


 開口一番だった。


 ミレイが肩を跳ねさせる。


「ご、ごめんなさい」


「相変わらず返事だけは早いね!」


「久しぶりなのに最初がそれ!?」


「久しぶりだから何だい!」


「顔を見せない弟子を叱って何が悪い!」


「やっぱり怒られた……」


 ミレイが肩を落とす。


 レオは思わず笑いそうになった。


 マリアの視線がこちらへ向く。


「何笑ってるんだい、王子様」


「いえ」


「お久しぶりです」


「堅苦しい挨拶はいらないよ」


 マリアはレオを頭から足まで見る。


「少しは人間らしい顔になったじゃないか」


 レオが目を瞬く。


「昔は笑ってても、目だけ疲れてたからね」


「……覚えていたのですか」


「薬師を何年やってると思ってる」


 そしてマリアは、ガレスたちを見る。


「全員入んな」


「外で話す内容じゃない」


   ◇ ◇ ◇


 工房の中。


 懐かしい薬草の匂い。


 棚には瓶。


 乾燥した葉。


 すり鉢。


 秤。


 ミレイが使っていた作業台も残っている。


「懐かしい……」


 ミレイが呟く。


「感傷に浸るのは後だよ」


 マリアは工房の奥へ歩いていく。


「手紙を読んだね?」


「うん」


「銀の鳥のこと、教えて」


「その前に」


 マリアが振り返る。


「確認する」


 視線がレオへ。


「王宮の封印庫から、昔の文書が盗まれた」


 レオの表情が変わる。


「なぜ知っているのです」


「知らせが来た」


「誰から?」


「昔の知り合いだよ」


「ハンスさんですか」


「ハンスにも頼んだ」


「だが、別口だ」


 マリアは奥の棚へ手を伸ばす。


 上段。


 布に包まれた古い木箱。


 ミレイが息を呑む。


「それ」


「ああ」


「お前が昔、勝手に覗きかけた箱だ」


「勝手にじゃないよ! 開いてたの!」


「覗いたのは同じだ」


「違うって!」


「そこは今どうでもいい」


 マリアが作業台へ箱を置く。


 鍵を開ける。


 蓋が上がった。


 中には古びた書類。


 数枚の紙。


 そして。


 銀色の鳥をかたどった小さな印。


 リアムが身を乗り出す。


「羽の根元に」


 二本の細い溝。


 ハンスが言っていた特徴。


「本物ですね」


「ああ」


 マリアが答える。


「少なくとも、私が昔使っていたものはね」


「マリアおばあさんが?」


 ミレイが驚く。


「使ってたの?」


「そうだ」


「薬師になる前にね」


 マリアは銀の鳥を手に取った。


「私は昔」


 少しだけ間を置く。


「王都で、監察局の仕事をしていた」


 工房が静まり返った。


「監察局……」


 ミレイが呟く。


「薬師じゃなかったの?」


「薬の知識は昔からあった」


「だから記録の検分や、毒物に関わる案件を担当していた」


「その後、監察局を離れて薬師になった」


「なぜ辞めたのです」


 レオが尋ねる。


 マリアの表情から、わずかに険が増す。


「辞めたんじゃない」


「監察局そのものが、なくなったんだよ」


 十七年前。


 王宮記録から監察局が消えた時期。


「では、十七年前まで?」


「そうだ」


「あなたは監察局にいた」


「ああ」


「銀の鳥は何を意味するのです」


 マリアは徽章を作業台へ置いた。


「秘密記録の分類印だ」


「鳥の向き」


「羽の溝」


「刻まれた線の数」


「それで資料の扱いを区別していた」


「白鴉計画とは?」


 リアムが尋ねる。


 マリアの目が細くなった。


「その名前をどこで知った」


「王都です」


 レオが答える。


「現在、その計画を利用している者たちを追っています」


「……やっぱりか」


 マリアが低く呟く。


「白鴉は、人の名前でも組織の名前でもありません」


「計画の名称です」


「分かってる」


 マリアは即答した。


「私たちが止められなかった計画だ」


 ミレイがマリアを見る。


「マリアおばあさんも関わってたの?」


「調べる側としてね」


「誰が始めたのです」


 レオが尋ねる。


 マリアは答えなかった。


 代わりに箱の中から、一枚の古い紙を取り出す。


「これを見な」


 作業台へ置かれた紙。


 かなり傷んでいる。


 そこには複数の名前が並んでいた。


 レオ。


 リアム。


 ガレス。


 ヴィクター。


 全員が覗き込む。


 どれも知らない名前だ。


 ただ一番上に。


 **白鴉計画・観察対象候補一覧**


 と書かれている。


「これが十七年前の資料ですか」


「ああ」


「では、この名前の人々は」


「当時、計画の対象になる可能性があった人間だ」


「今のミレイさんとは関係ない?」


 リアムが確認する。


「この紙についてはね」


 マリアは答えた。


 レオはすぐ尋ねる。


「では、王宮の白紙の帳簿に『ミレイ』と書かれていたことについて、何か知っていますか」


 マリアの動きが止まった。


 ほんの一瞬。


 だが。


 全員が気づいた。


「知っているのですね」


 レオが言う。


「……知っているとは言ってない」


「ですが、今までとは反応が違いました」


「王子様」


 マリアがレオを睨む。


「昔より面倒な男になったね」


「よく言われます」


「褒めてないよ」


 マリアは大きく息を吐いた。


 そして。


「『ミレイ』という名前そのものについてなら」


「一つだけ心当たりがある」


 ミレイが息を呑む。


「私?」


「お前じゃない」


 マリアははっきり答えた。


「少なくとも、私が知っている話はね」


 レオの表情が変わる。


「では何です」


「十七年前」


「監察局が消える直前」


「白鴉計画に関係する記録の中で、何度かその言葉を見た」


「人名として?」


「最初はそう思った」


「でも違った」


 マリアは古い紙をもう一枚取り出す。


 そこには、薄く消えかけた文字。


 その中の一行を指差した。


 **――最終段階移行時、MIREI分類を適用。**


「分類……」


 リアムが呟く。


「ミレイは人の名前ではなかった?」


「少なくとも、この資料ではね」


 マリアは答える。


「何を意味する分類なのです」


 レオが尋ねる。


「それを調べる前に、監察局は潰された」


「資料もほとんど消えた」


「だから私は知らない」


「では」


 レオは考える。


「白紙の帳簿に書かれていたミレイも」


「今のミレイではなく」


「この分類名を示していた可能性がある」


「そう考える方が自然だろうね」


 ミレイが胸を撫で下ろす。


「よかった……のかな」


「少なくとも」


 マリアはミレイを見る。


「今の時点で、お前の出生だの親だのを持ち出す理由はない」


「私もそんな話は知らない」


「そうなんだ」


「何だい」


「ちょっと安心した」


「勝手に壮大な秘密を背負うんじゃないよ」


「私が背負ったわけじゃないよ!」


 マリアが鼻を鳴らす。


 だが。


 レオは紙から目を離していなかった。


 MIREI分類。


 白紙の帳簿。


 白鴉計画。


 新しい繋がりが生まれた。


「マリアさん」


「何だい」


「MIREI分類が何を意味するのか」


「調べる方法はありますか」


 マリアは少し考えた。


「一つだけ」


「何です」


「監察局が消える直前」


「重要記録の一部を、王宮とは別の場所へ移した」


 ガレスが眉を上げる。


「どこへ」


「知らない」


「知らない?」


「移送先は分散されていた」


「担当者にも全部は知らされなかった」


「では、あなたが知っている場所は?」


 マリアは箱の底から、小さく折られた紙を取り出した。


 広げる。


 そこには地図の一部。


 そして、一つの地名。


 レオはその文字を読んだ。


「……フェルトハイム?」


 全員が固まった。


 つい昨日までいた街。


 マリアが頷く。


「私が担当した資料の一部は」


「十七年前」


「フェルトハイムへ送られた」


 ミレイが目を丸くする。


「じゃあ私たち」


「答えの近くから、わざわざここまで来たの?」


「そういうことになるね」


「先に言ってよ!」


「今来たばかりだろうが!」


「そうだけど!」


 ガレスが額を押さえる。


「勘弁してくれ」


 だがレオだけは、別のことを考えていた。


 フェルトハイム。


 白鴉計画を引き継いだ者たちは、あの街で大規模な実験を行った。


 偶然ではなかったのかもしれない。


 十七年前に。


 監察局の秘密記録が運び込まれた街。


 だからこそ。


 敵はフェルトハイムを選んだ。


「どこに保管したのです」


 レオが尋ねる。


 マリアの表情が曇る。


「それが問題なんだよ」


「当時の記録では」


「保管場所は一つしか書かれていない」


「どこです」


 マリアは地図の一点を指した。


 レオはそこを見る。


 そして。


 息を止めた。


 そこに記されていた場所は。


 **旧石工区・地下保管室。**


 つい先ほどまで。


 白鴉計画を引き継いだ者たちが、人質を集め。


 最後の実験場として利用していた地下採石場。


 あの場所だった。


 地下で起きた火災。


 焼け落ちた記録。


 逃げた観察官。


 すべてが偶然ではなかった。


「まさか……」


 リアムが呟く。


「敵が地下採石場を使っていた本当の目的は」


 レオはゆっくり顔を上げた。


「人質だけではなかった」


「十七年前に隠された、監察局の記録を探していた」


 そして。


 その記録の中に。


 MIREI分類の正体へ繋がるものが残されていた可能性がある。


 マリアの工房に、重い沈黙が落ちた。


 レオたちはようやく気づいた。


 フェルトハイムで始まった一連の事件は。


 レオを苦しめるためだけに起こされたものではなかった。


 敵は最初から。


 あの地下に眠る、十七年前の秘密を探していたのだ。


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