第211話 白紙の帳簿
部屋の空気が重く沈んでいた。
机の上には、王都から届いたグレイストーンの報告書が置かれている。
そこに記されていた名前は、一つ。
――ミレイ。
レオは何度読み返しても、その文字が変わることはなかった。
「どういうことだ」
ガレスが低く言う。
「三十四年前と十七年前の記録を狙って襲われた王宮の封印庫に、どうしてミレイさんの名前がある」
「分かりません」
リアムも険しい表情を浮かべていた。
「ですが、偶然とは考えにくいでしょう」
奪われたのは、三十四年前と十七年前の機密文書。
そして一冊だけ、持ち去られずに残された帳簿。
中身はすべて白紙。
ただし、最後の頁にだけ「ミレイ」という名が書かれていた。
あまりにも不自然だった。
「ミレイを疑わせたいのかもしれない」
レオが静かに言った。
ガレスが振り返る。
「お前、本気でそう思ってるのか」
「ミレイが怪しいと言っているわけではありません」
「むしろ逆です」
レオは報告書を机へ戻した。
「ここまで露骨に名前を残す理由を考えるべきです」
「私たちがミレイを疑うように仕向ける」
「それも、白鴉計画を引き継いだ者たちが使ってきたやり方です」
「見えている証拠ほど疑え、か」
リアムが言う。
「はい」
だが、それだけで片づけることもできなかった。
なぜミレイなのか。
レオの家族だからというだけなら、ルナやソラの名でもよかったはずだ。
わざわざミレイ一人だけを記した。
そこには理由がある。
◇ ◇ ◇
「本人に聞くか?」
ガレスが寝室の方を見る。
ミレイと子供たちは、ようやく眠ったところだった。
地下採石場で人質にされ、火災の中から脱出し、フェルトハイムへ戻ったばかりだ。
レオは首を横に振った。
「朝まで待ちます」
「いいのか」
「今聞いたところで、本人が知らなければ答えは出ません」
「それより、帳簿そのものを詳しく調べてもらいます」
レオは紙を取り出した。
「グレイストーン卿への返事を書きます」
「何を確認させる?」
「帳簿そのものの年代」
「いつ封印庫へ入れられたものなのか」
「最後の頁に名前が書かれた時期」
「それから、保管記録です」
「誰が封印庫へ持ち込んだか、か」
「はい」
リアムが苦笑した。
「記録が残っていれば、ですが」
「消されていたとしても、それも情報になります」
レオは筆を取った。
◇ ◇ ◇
返書を書き終えた頃。
外でガレスと共に見張りをしていたヴィクターが戻ってきた。
先ほどより顔色は落ち着いている。
「大丈夫ですか」
レオが尋ねる。
「はい」
「声は?」
「今は聞こえません」
ヴィクターは机の上の報告書へ視線を向けた。
「何か分かったのですか」
ガレスが簡単に説明する。
封印庫。
白紙の帳簿。
ミレイの名前。
その名を聞いた瞬間、ヴィクターの表情が変わった。
「どうしました」
「いえ……」
「何か心当たりが?」
ヴィクターは記憶を辿るように目を閉じた。
「ミレイという名前そのものではありません」
「ですが、三か月ほど前」
「オーウェンから、奇妙な話を聞いたことがあります」
「どんな?」
「王宮の封印庫には、『未来のための名前』が保管されている、と」
全員が黙る。
「未来のための名前?」
ガレスが眉を寄せた。
「私も意味が分からず聞き返しました」
ヴィクターは続ける。
「するとオーウェンは笑って」
「『まだ存在しない人物でも、先に記録の中へ名前を置くことはできる』と言いました」
リアムが険しい顔になる。
「未来を予言するという意味でしょうか」
「違うと思います」
ヴィクターは首を振った。
「その後、こうも言いました」
「『名前が先にあれば、人はその名前に合う者を後から探し始める』と」
レオは黙った。
記録が人物を記すのではない。
先に記録を作り。
後から、それに当てはまる人間を選ぶ。
白鴉計画なら、あり得る。
「では、帳簿の『ミレイ』も」
ガレスが言う。
「今のミレイさんを指しているとは限らない?」
「はい」
レオは頷いた。
「同じ名の別人」
「あるいは、人名ですらない可能性があります」
「何らかの呼称や符号?」
「それも調べる必要があります」
レオはグレイストーン宛ての返書へ追記した。
――過去の文書に「ミレイ」という語が存在しないか確認してほしい。
◇ ◇ ◇
翌朝。
レオはほとんど眠れなかった。
居間へ入ると、ミレイがすでに起きていた。
ルナとソラはまだ眠っている。
「おはよう」
「おはようございます」
ミレイがじっとレオを見る。
「寝た?」
「少しは」
「嘘」
「……少しだけです」
ミレイはため息をついた。
「何かあったんでしょ」
「どうして分かるんです」
「顔」
「そんなに出ていますか」
「レオって、私に言いにくいことがある時、いつもより丁寧になるから」
「普段から丁寧にしているつもりですが」
「今日はもっと丁寧」
レオは観念して椅子へ座った。
「王都から連絡が来ました」
「うん」
「王宮の封印庫が襲われた件です」
ミレイも表情を引き締める。
「何か分かったの?」
「奪われたのは、三十四年前と十七年前の機密文書でした」
「でも、一冊だけ残された帳簿があったそうです」
「中は全部白紙」
「ただ、最後の頁に名前が一つだけ書かれていた」
「誰の?」
レオは一瞬ためらった。
そして答える。
「ミレイです」
沈黙。
ミレイは何度か瞬きをした。
「……私?」
「今のところ、そうとは断定できません」
「同じ名前の別人かもしれない」
「人名ではない可能性もあります」
「でも、ミレイって書いてあったの?」
「はい」
ミレイは椅子へ座る。
「私、王宮なんてレオに会うまで全然関係なかったよ」
「分かっています」
「三十四年前なんて、もちろん生まれてないし」
「はい」
「十七年前だって、まだ子供だったし……」
そこでミレイの言葉が止まった。
「どうしました?」
レオが尋ねる。
「ううん」
「ただ、十七年前って聞いて……少し思い出しただけ」
「何を?」
ミレイは首を傾げながら記憶を探った。
「マリアおばあさんの工房に、古い箱があったの」
レオの目が細くなる。
「箱?」
「うん」
「私が薬師見習いとして工房へ通い始めて、まだそんなに経ってない頃」
「奥の棚を掃除してたことがあって」
「その時、棚の一番上に古い木箱が置かれてた」
「普段は布が掛けられていて、気づかなかったんだけど」
レオは黙って聞く。
「その日だけ、箱の蓋が少し開いてたの」
「中を見たのですか」
「ほんの少しだけ」
「勝手に開けたわけじゃないよ」
ミレイは慌てて付け足した。
「分かっています」
「中に何が?」
「古い紙が何枚か」
「それと、小さい銀色のもの」
「形を覚えていますか」
ミレイは目を閉じた。
「鳥……だったと思う」
ガレスとリアムが顔を見合わせる。
「翼を広げた鳥ですか」
リアムが尋ねる。
「たぶん」
「でも、今ここで見た白い鳥の印と同じかって言われたら分からない」
「かなり昔だし」
「その箱のことを、マリアさんに尋ねたのですか」
レオが聞く。
「うん」
「すごく怒られた?」
ガレスが聞くと、ミレイは首を横に振った。
「逆」
「急に黙った」
マリアは普段、ミレイが薬草を取り違えれば遠慮なく叱る。
だが、その箱の時だけは違った。
「『あれは昔の仕事に関係するものだから、触らなくていい』って」
「それだけ?」
「うん」
「私も、その頃は薬草を覚えるので精いっぱいだったし」
ミレイは少し恥ずかしそうに笑う。
「箱のことなんて、すぐ忘れてた」
「今まで思い出さなかったのも、そのせいです」
レオは考え込んだ。
マリアは、ただの村の薬師。
少なくとも、これまでレオたちが知っていた限りでは。
ミレイの師匠であり、工房の主。
ミレイを育てた人物ではない。
それでも、その工房に監察局を思わせる銀の鳥があった。
「関係があるかは、まだ分かりません」
レオが言う。
「箱の中の鳥が同じ印とは限りません」
「ですが、確認する価値はあります」
ミレイが頷く。
「マリアおばあさんに聞く?」
「まず手紙を送ります」
「詳しくは書かない方がいいでしょう」
「途中で読まれる可能性があります」
「じゃあ、私が書こうか」
「お願いします」
「何て?」
レオは少し考えた。
「『昔、工房で見た銀の鳥について聞きたい』と」
「それだけでマリアさんには通じるでしょう」
ミレイは頷いた。
◇ ◇ ◇
午前。
ロイドが、一人の男を連れてレオの家へ来た。
「捕まえた」
男は三十代ほど。
両手を縛られ、青ざめた顔をしている。
「誰です」
「自警団の文書係、エイブラム」
ロイドが答える。
「偽の命令書に使われた、自警団の印へ触れられる人間だ」
「印章を盗んだのですか」
レオが尋ねる。
「違います!」
エイブラムはすぐ否定した。
「では、なぜ拘束されているのです」
「昨夜、文書庫へ忍び込んだところを見張りが見つけた」
ロイドが言う。
「それから、印章の保管箱の中にこいつの髪が落ちていた」
エイブラムは俯いた。
「何をしていたのです」
「……手紙を探していました」
「誰からの?」
答えない。
ガレスが一歩前へ出る。
レオが手で止めた。
「家族を人質にされていますか」
エイブラムの肩が震えた。
ダグと同じ反応だった。
「息子です」
ようやく男が答える。
「三日前から帰ってこない」
「その夜、手紙が届いた」
「息子を返してほしければ、自警団の印章を一晩だけ貸せって」
「誰に渡したのです」
「直接は会っていません」
「南倉庫の裏に、箱を置く場所が指定されていた」
「そこへ印章を入れた」
「翌朝には?」
「戻っていました」
「だから、誰にも気づかれないと思った」
「ですが偽造文書が出た」
エイブラムは顔を歪める。
「俺が悪い」
「でも、息子を……」
「今は責任を決める時ではありません」
レオが言った。
「息子さんを探すためにも、知っていることを全部話してください」
エイブラムは頷いた。
「昨日、もう一通手紙が来ました」
「何と?」
「印章のことを誰にも話すな」
「黙っていれば、今夜息子を返す」
「その手紙は?」
「自分で隠していました」
「ですが、今朝見たらなくなっていた」
「なくなった?」
「代わりに、別の紙が入っていたんです」
「どこに?」
「自警団の文書庫」
「誰かが私の隠した手紙を持ち出して、文書庫へ置いた」
「その隣に新しい紙があった」
リアムが尋ねる。
「何が書いてありました」
「名前です」
「誰の?」
エイブラムは答えるのを躊躇した。
「……マリア」
ミレイの表情が変わった。
「マリアおばあさん?」
「姓は書かれていません」
「ただ、その下に」
エイブラムは続けた。
「『辺境の村』と」
全員が黙った。
◇ ◇ ◇
「敵はマリアさんのことも知っている」
リアムが言う。
「それだけではありません」
レオは考えながら答えた。
「私たちが銀の鳥についてマリアさんへ確認する可能性も、予測されているかもしれません」
「まだ手紙を書いてもいないのに?」
ミレイが尋ねる。
「敵が私たちの会話を聞いたという意味ではありません」
「ミレイの過去を調べれば、薬師見習いとしてマリアさんの工房へ通っていたことは簡単に分かる」
「そして、あの箱を敵側も知っているなら」
「いつかマリアさんへ辿り着くことは予測できます」
「手紙は送らない方がいいか?」
ガレスが言う。
「はい」
レオは頷いた。
「こちらから動きを知らせる必要はありません」
「直接行く?」
ミレイが尋ねた。
「その前にフェルトハイムの安全を整えます」
「また留守を狙われるわけにはいきません」
「でも、行くんだよね」
「はい」
レオは迷わなかった。
「マリアさんに直接確認します」
◇ ◇ ◇
その時。
外から馬の蹄の音が聞こえた。
一騎。
かなり急いでいる。
見張りの自警団員が声を上げた。
「伝令です!」
レオたちは外へ出る。
泥にまみれた男が馬から降りた。
「フェルトハイムのレオ様は!」
「私です」
「辺境の村から、急ぎの手紙を預かっています」
ミレイが息を呑む。
「誰からです」
「マリアという薬師の方です」
偶然とは思えないタイミングだった。
レオはすぐには手を出さない。
「あなたはどこでこれを受け取りました」
「村です」
「マリアさん本人から?」
「はい」
「私が出発するところへ直接来られました」
「何と?」
「必ずミレイさん本人へ届けてほしい、と」
リアムが封筒を確認する。
不自然な糸や仕掛けはない。
「ミレイ」
レオが渡す。
ミレイは封を切った。
中の紙には、マリアらしい力強い筆跡で短い文が記されていた。
**ミレイへ。**
**工房の奥にあった箱のことを覚えているなら、レオと一緒に村へ来なさい。**
ミレイの目が大きくなる。
まさに今、思い出したばかりの箱。
「どうして……」
読み進める。
**あの箱は、私の昔の仕事に関わるものだ。**
**お前を育てたとか、そんな大層な話ではない。**
**だが、今お前たちが追っているものと無関係でもない。**
レオとガレスが顔を見合わせる。
マリアは、自分がミレイの育ての親ではないことを当然の前提として書いている。
あくまで薬師の師匠。
それでも、過去に何かがあった。
最後には、こう記されていた。
**銀の鳥について知りたいなら、私の口から話す。**
**ただし、道中で同じ印を持つ者に会っても、信用するんじゃないよ。**
**昔から、あの鳥は一羽じゃなかった。**
ミレイは紙を下ろした。
「マリアおばあさん……知ってるんだ」
「少なくとも、銀の鳥については」
レオが答えた。
「そして、自分の過去と何らかの関係がある」
「私の過去じゃなくて?」
「今の手紙だけなら、そう読めます」
マリアは「私の昔の仕事」と書いている。
ミレイの出生について何か知っているとは、一言も書いていない。
「なら」
ミレイが立ち上がった。
「会いに行こう」
「はい」
「今度は、勝手に私の出生の秘密とか決めつけないでね」
レオは少し困ったように笑った。
「それは私ではなく、調べてみないと分からないことですが」
「分からないうちは、分からないってことにする」
「はい」
「それが一番です」
ガレスが腕を組む。
「ようやく、まともな手掛かりらしい手掛かりだな」
「その分、罠の可能性もあります」
リアムが言う。
「ですが、伝令の証言と筆跡」
「そして、ミレイさんしか知らない工房の箱について触れている」
「マリアさん本人が書いた可能性は高いです」
「出発は?」
ミレイが尋ねる。
レオは窓の外を見る。
フェルトハイム。
守るべき家族。
街。
そして遠い辺境の村。
「明朝です」
「それまでに街の警戒体制を整えます」
「ルナとソラは?」
「フェルトハイムへ残します」
「今回も?」
「今回こそ、です」
ミレイは少し迷ったが、やがて頷いた。
「うん」
子供たちまで連れていく理由はない。
今回の目的は、マリアが持つ過去の情報を聞くこと。
危険があるなら、大人だけで行くべきだ。
◇ ◇ ◇
夜。
ミレイは眠る前に、昔のことを思い返していた。
「私、本当に落ちこぼれだったなあ」
「突然どうしたのです」
「マリアおばあさんの工房」
「毎日のように怒られてた」
レオは懐かしく思う。
セージとタイムを間違え。
薬草の束を取り違え。
自分には薬師の才能がないと落ち込んでいた頃のミレイ。
「今も薬草の見分けは得意ではありませんね」
「そこは否定してよ」
「嘘はよくありません」
「レオ」
「すみません」
ミレイは頬を膨らませたが、すぐに笑った。
「マリアおばあさん、怖かったけど」
「嫌いじゃなかった」
「知っています」
「工房を辞めなかったのが証拠です」
「何回も辞めようと思ったよ?」
「三年続けたのでしょう」
「うん」
マリアは母親ではない。
家族でもない。
だがミレイにとって、長い間仕事を教えてくれた師匠だった。
だからこそ。
「隠してたことがあるなら」
ミレイは天井を見つめた。
「ちゃんと聞きたい」
「聞きましょう」
「一緒に」
レオは答えた。
翌朝。
二人は再び、始まりの村へ向かう。
そこに待つのは、ミレイ自身の出生の秘密とは限らない。
だが少なくとも。
監察局。
銀の鳥。
そして白鴉計画へと続く、マリアの過去。
その一端が、ようやく明らかになろうとしていた。




