第210話 燃え残った一枚
地下採石場を出た頃には、すっかり夜が深くなっていた。
井戸から一人ずつ地上へ上がる。
最初にガレス。
続いてダグ。
リアム。
ヴィクター。
そのあとをミレイがソラを抱いて上がり、レオはルナを背負ったまま最後に縄を掴んだ。
地上へ出た瞬間。
冷たい夜風が頬を撫でる。
地下に籠もっていた煙と石粉の匂いが、一気に薄れていった。
「父さま」
背中のルナが、小さな声で呼んだ。
「はい」
「もう、あそこには戻らない?」
レオは一瞬だけ答えに詰まった。
子供へ、大丈夫だと簡単に言ってしまいたかった。
だが今は、安易な言葉を使いたくなかった。
「戻らなくて済むようにします」
「……うん」
ルナはレオの首へ腕を回した。
その力が少しだけ強くなる。
◇ ◇ ◇
石工区の外では、ロイドが率いる自警団が待っていた。
旧水車小屋へ残していた連絡を受け、救出された人質たちの保護に向かっていたのだ。
「レオ!」
ロイドが駆け寄る。
その視線がミレイたちへ向かう。
「無事だったか」
「はい」
「ほかの人質も地下から出しています」
「ダグの家族も?」
「無事です」
ダグは妻と娘のもとへ駆けていった。
離れた場所で、三人が抱き合う。
ロイドはその姿を確認してから、大きく息を吐いた。
「良かった」
「本当に」
だが、すぐに表情を引き締める。
「地下の連中は?」
「一部は拘束しました」
ガレスが答えた。
「脅されて協力していた者が多い」
「中心にいた灰色の外套は逃げた」
「オーウェンの可能性があります」
ヴィクターが言う。
ロイドが眉を寄せた。
「誰だ、それは」
「王宮侍従です」
レオが答えた。
「白鴉計画を引き継いだ者たちと関係している可能性があります」
「可能性、か」
「まだ本人だと断定できません」
ロイドは少し意外そうな顔をした。
「ここまでやられても?」
「ここまでやられたからこそです」
レオは答えた。
「敵は、私たちに誰かを犯人だと思わせることを何度も利用してきました」
「次も同じかもしれません」
「証拠を確かめるまで、決めつけません」
ロイドは短く頷いた。
「分かった」
◇ ◇ ◇
フェルトハイムへ戻る道。
ミレイはレオの隣を歩いていた。
ソラは眠っている。
疲れ切ったのだろう。
母親の胸へ顔を埋め、小さな寝息を立てていた。
「レオ」
「はい」
「手紙のこと……」
ミレイが俯く。
「ごめんなさい」
「謝らないでください」
「でも、私が信じなかったら」
「無理です」
レオは即座に言った。
ミレイが顔を上げる。
「私とミレイしか知らない話が書かれていた」
「筆跡も似せてあった」
「私が同じ手紙を受け取っても、迷ったと思います」
「でも……」
「それに」
レオは少しだけ笑った。
「ミレイは、一人で行かなかったでしょう」
「自警団の人たちについてきてもらった」
「罠かもしれないと思っていたからです」
ミレイは黙った。
「間違えたのではありません」
「騙した人間が悪いんです」
しばらくして、ミレイが小さく息を吐いた。
「レオ、少し変わったね」
「そうですか?」
「昔なら」
ミレイの口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「全部自分のせいだって言ってたと思う」
レオは返事をしなかった。
図星だった。
少し前の自分なら。
家族が連れ去られたのは、自分が王都へ行ったから。
敵に狙われたのは、自分が王子だから。
もっと早く戻れば。
もっと警戒していれば。
そんなふうに、自分一人で背負い込もうとしていたかもしれない。
「仲間に怒られましたから」
「ガレスさん?」
「主に」
前を歩いていたガレスが振り返る。
「聞こえてるぞ」
「褒めています」
「どこがだ」
ミレイが、久しぶりに声を立てて笑った。
◇ ◇ ◇
フェルトハイムへ戻ると、街の門前には多くの住民が集まっていた。
救出された人々の姿を見て、歓声が上がる。
抱き合う家族。
泣きながら名前を呼ぶ者。
自警団員へ礼を言う者。
少し前まで互いを疑い、偽の命令で街から逃げ出そうとしていた人々が、今は誰かの無事を心から喜んでいる。
レオはその光景を見つめた。
白鴉計画を引き継いだ者たちは、人間が簡単に疑い、騙されることを証明したかったのかもしれない。
だが。
同じ人間は、誰かを心配し、助け合うこともできる。
それもまた事実だった。
「レオ様!」
一人の自警団員が駆けてくる。
「北門外の馬車を調べました」
「どうでした」
「爆発物ではありませんでした」
ガレスが眉をひそめる。
「では、何が仕掛けてあった」
「煙です」
「煙?」
「荷台の箱の中に、火をつけると大量の煙が出る薬剤が入っていました」
リアムが考え込む。
「住民が馬車を動かす」
「仕掛けが作動する」
「煙で混乱させる」
「その隙に何かするつもりだったのでしょう」
「誘拐か、別の偽情報を流すか」
レオが言う。
「住民を殺すための仕掛けではなかった」
ロイドが腕を組む。
「あいつらは本当に、人間を動かすことばかり考えてるな」
◇ ◇ ◇
その夜。
レオの家には久しぶりに灯りが戻った。
ミレイはソラを寝かせ、ルナも隣の寝台で眠っている。
子供たちは疲労のため、すぐ眠りについた。
レオは扉の外にガレスと自警団員を配置した。
家の周囲にも見張りを置く。
「ここまでしなくても……」
ミレイが苦笑する。
「します」
「今夜くらい安心して眠ってください」
「レオは?」
「少し調べることがあります」
「また寝ないつもり?」
「……少しは寝ます」
「今、間があった」
ミレイに睨まれ、レオは目を逸らした。
「必ず寝ます」
「本当に?」
「ガレスにも見張られていますから」
扉の向こうから声がする。
「聞こえてるぞ」
「便利ですね」
「何がだ!」
ミレイがまた小さく笑った。
その笑顔を見られただけでも、帰ってきた意味があったとレオは思った。
◇ ◇ ◇
居間には、地下から持ち出した物が並べられていた。
持ち出せたものは多くない。
実験場は炎に包まれたため、ほとんどの帳簿や偽造文書が焼けてしまった。
それでもリアムは、逃げる直前に机から数枚の紙を掴んでいた。
「確認できるのはこの六枚です」
レオ。
リアム。
ヴィクター。
そしてガレス。
四人が机を囲む。
「まずこれ」
リアムが一枚目を広げる。
フェルトハイムの住民名簿。
名前の横に記号が書かれている。
丸。
三角。
黒線。
王宮でミアが見つけた帳簿と似た分類方法だ。
「意味も同じでしょうか」
ヴィクターが尋ねる。
「可能性は高いです」
赤い丸は重要監視対象。
三角は協力者候補。
黒線は排除対象。
以前オルドリックが説明した分類。
「ミレイさんは?」
ガレスが尋ねる。
リアムが指を滑らせる。
「あります」
――ミレイ。
横には、赤い丸。
「ルナとソラは?」
「名前はありません」
レオは少しだけ安堵した。
子供まで個別の監視対象として記録されていたわけではない。
「ロイド団長は三角です」
「協力者候補?」
ガレスが鼻を鳴らす。
「あの男が従うとは思えん」
「だから候補なのでしょう」
リアムは次を見る。
「ダグは黒線」
「排除対象か」
「ですが実際には、家族を人質に取って利用された」
「分類も絶対ではない」
レオが言った。
「途中で変更されている可能性があります」
◇ ◇ ◇
二枚目。
偽の命令を流す順序が書かれていた。
一。
王子反逆の噂。
二。
王子名義の避難命令。
三。
街道封鎖。
四。
住民を北門へ集中。
五。
王子帰還。
六。
住民の反応観察。
「五番目」
レオが目を細めた。
「私が帰還することが、最初から予定に含まれています」
ガレスが紙を奪うように見る。
「王都からフェルトハイムへ戻ると読まれていた?」
「家族の名を書いた手紙を送っています」
リアムが答える。
「戻る可能性は高いと考えていたのでしょう」
「ですが、確定事項のように書かれています」
ヴィクターが言った。
「レオ様が王都を出たことを、すぐ知らせる者がいた?」
全員が黙る。
王都側に情報を送る協力者がいる。
それ自体は予想していた。
問題は、その速さだ。
「私たちが王都を出てから、フェルトハイムへ到着するまで一日半ほど」
レオが言う。
「その間に準備しただけなら可能です」
「でも、家族についての監視記録は何か月分もあった」
「計画自体は前から準備されていた」
リアムが結論づける。
「王都で何が起きても利用できるように」
◇ ◇ ◇
三枚目。
ほとんど焼けていた。
残っているのは端だけ。
**……王子が家族を選んだ場合――**
その下は黒く焦げて読めない。
「続きがあった」
ガレスが悔しそうに言う。
「はい」
「家族を選ばなかった場合についても書かれていた可能性があります」
「どちらを選んでも、その後の行動まで計画していた」
レオは焼けた紙を見つめた。
家族を選んだ場合。
自分は実際にフェルトハイムへ来た。
では敵は、次に何をする予定なのか。
◇ ◇ ◇
「四枚目を」
リアムが紙を広げた。
王都の地図だった。
奇妙なのは、フェルトハイムの地下から出てきた資料なのに、王宮周辺が詳しく描かれていることだ。
数か所に印。
王宮宝物庫。
第三書庫。
国王居住棟。
そして――。
「グランツ卿の屋敷」
レオが呟く。
第204話で、国王を一時避難させる候補として挙げた場所。
実際には、セドリック王は王宮へ戻った。
だが敵はグランツの屋敷にも目をつけていた。
「ここにも印があります」
ヴィクターが指差す。
王都南区の古書店。
情報屋のセドリック――いや、以前レオが接触した古書店主の店。
「セドリックという名は国王と重なる」
ガレスが呟きかけ、言葉を止めた。
レオも同じことを思った。
だが今は、名前の話ではない。
「私がアークライト家について情報を得た店です」
「敵は、そこまで把握していた」
レオが言う。
自分が誰と会い、何を調べたのか。
かなり早い段階から監視されていた。
◇ ◇ ◇
「五枚目は?」
レオが尋ねた。
リアムは少し迷ってから差し出す。
それは短い人物記録だった。
上部には、
**観察官候補**
と記されている。
その下に一人の名前。
――ヴィクター・ローレン。
ヴィクターの顔が強張った。
「私……?」
「続きがあります」
リアムが読む。
**対象は疑念への耐性が低い。**
**忠誠心が強く、それゆえ罪悪感による誘導が容易。**
**本人へ直接命令する必要なし。**
**自己疑念を育てれば、自発的に行動する。**
ヴィクターの顔から血の気が引いていく。
書かれているのは、まさに自分へ行われたことだった。
「観察官候補というのは」
ガレスが紙を見る。
「いずれ敵側へ取り込むつもりだったということか」
「おそらく」
リアムは答える。
「自分が操られていると知らないまま、他人を観察させる」
「それができれば、本人は敵に加担している自覚すら持たない」
ヴィクターが椅子から立ち上がった。
「少し、外の空気を」
「一人では行かせません」
レオも立つ。
「ガレス」
「俺がつく」
「すみません」
ヴィクターは俯いたまま、ガレスと外へ出ていった。
◇ ◇ ◇
残る最後の一枚。
リアムがそれを机へ置く。
「これが一番気になります」
半分ほど焦げた文書。
上部には日付。
三か月前。
ミレイたちへの本格的な監視が始まった頃と一致する。
そして文書の下部。
署名欄。
ほとんど焼失している。
だが、数文字だけ残っていた。
――オー……。
「オーウェン?」
リアムが言う。
レオはすぐには答えなかった。
あまりにも分かりやすい。
ヴィクターが観察官の声をオーウェンだと感じた直後。
今度は署名まで出てきた。
「見えている証拠ほど疑え」
レオが呟く。
「はい」
リアムも同意する。
「これだけではオーウェン本人の署名とは判断できません」
「オーウェンという別人かもしれない」
「名前を途中まで書いて、わざと燃え残るようにした可能性もある」
「ですが、無視もできません」
「もちろんです」
レオは紙を裏返した。
何かないか。
透かす。
端を見る。
焦げた部分を崩さないよう注意する。
すると。
「待ってください」
紙の裏面。
焦げた縁の近くに、小さな文字があった。
表からは見えない。
誰かが後から書き足したような細い字。
リアムがランタンを近づける。
そこには、こう記されていた。
**観察官は一人ではない。**
レオとリアムは顔を見合わせた。
「やはり」
オーウェンが観察官だったとしても。
それで終わりではない。
灰色の外套。
白い仮面。
同じ役割を持つ者が複数いる。
「それなら、ヴィクターが聞いた声がオーウェンに似ていたことも説明できます」
リアムが言う。
「本当にオーウェンだった場合も」
「別の観察官が、オーウェンの話し方を真似していた場合も」
「どちらもあり得ます」
◇ ◇ ◇
その時。
玄関の扉が叩かれた。
三回。
短く二回。
もう一度。
外にいるガレスが応じる。
「誰だ」
「ロイドだ!」
扉が開く。
ロイドが息を切らして入ってきた。
「何かありましたか」
レオが立ち上がる。
「王都から伝令が来た」
「父上は?」
「国王陛下は無事だ」
レオは息を吐いた。
「ですが?」
ロイドは一通の封書を差し出した。
「グレイストーン卿からだ」
レオは封を開く。
短い報告だった。
王宮封印庫から奪われた文書の内容が判明した。
すべてが持ち去られたわけではない。
狙われたのは、特定の年代の文書だけ。
三十四年前。
監察局が生まれるきっかけとなった、第二王子死亡事件に関する資料。
そして。
十七年前。
監察局が消滅した時期の王室記録。
「二つの時代だけ……」
リアムが呟く。
レオは続きを読む。
最後に、グレイストーンからの一文。
**さらに、封印庫から一冊だけ持ち去られなかった帳簿がある。**
**中身はすべて白紙だった。**
**ただし最終頁に、名前が一つ書かれていた。**
その下。
伝令文には、その名前が記されている。
レオは目を見開いた。
「そんな……」
「誰だ」
ロイドが尋ねる。
レオは紙を机へ置いた。
そこに書かれていた名。
それは。
**ミレイ。**
部屋の空気が凍りついた。
隣室では、その本人が子供たちと眠っている。
なぜ。
三十四年前と十七年前の王室機密が保管された封印庫に。
今を生きるミレイの名前が残されているのか。
レオはゆっくりと、寝室の扉を見つめた。
家族を狙った理由は。
単に、自分を動かすためだけではなかったのかもしれない。




