第209話 最後の実験場
通路の奥に、橙色の灯りが一つだけ揺れていた。冷えた岩壁から滲む水の匂いと、どこか焦げたような臭いが混じり合っている。その灯りの向こうから聞こえた言葉――白鴉計画の、最後の実験場で。レオは暗闇を睨んだ。足音を殺し、剣の柄に手を添えたまま、灯りの揺れる方角だけを見つめる。
「家族の姿を見せてください」
返事はない。代わりに、遠くで金属の扉が閉じる音が響いた。鈍く、重く、そして確実に何かを閉ざす音だった。ガレスが剣を握り直し、「追うぞ」と低く言う。だがリアムがそれを制した。「待ってください」。壁へランタンを近づけると、通路の両側には等間隔で小さな穴が開いているのが見える。古い採石場の換気口のようにも見えたが、高さが不自然だった。人の胸元ほどの位置に、まるで狙いを定めるように規則正しく並んでいる。
「仕掛けがあります」
「矢か?」
「可能性があります」
リアムは地面から石を拾い、通路の先へ投げた。石が床を転がるが、何も起こらない。さらに拳ほどの大きさの石を投げても、やはり変化はなかった。「体重で動く仕掛けではなさそうです」。それでもガレスが一歩踏み出そうとした瞬間、ヴィクターがその腕を強く掴んだ。
「待ってください。声が聞こえます」
全員が黙る。ルナの歌ではない。低い男の声だった。すぐ近くで囁いているようで、しかもヴィクターだけに聞こえているらしい。他の者には、水滴の落ちる音以外何も聞こえなかった。「何と言っている」とレオが尋ねると、「左を選べ、と」とヴィクターは苦しげに答えた。前方は一本道にしか見えなかったが、リアムが壁を丹念に調べると、右側の石組みに髪の毛ほど細い継ぎ目が見つかった。隠し扉だった。
「左へ進めと言う声が、右の扉を隠している?」
ダグが不安げに呟く。「声を信じさせて、正しい道から遠ざけるつもりかもしれません」とレオは応じ、ヴィクターへ目を向けた。「その声に、オーウェンらしい特徴はありますか」「分かりません」ヴィクターは額を押さえた。汗が一筋、頬を伝う。「以前よりも、自分の考えに近い声です。誰かに命じられているというより、まるで自分の頭の中から響いているような」「自分で左へ行きたいと思っているように聞こえる、ということですね」。レオは静かに、しかしはっきりと告げた。「なら、今は何も選ばないでください。声が示した道も、その反対の道も。証拠を確認してから決めます。焦りこそ、あの計画が最も欲しがっているものです」
ヴィクターは黙って頷いたが、その顔は青白かった。声はまだどこかで囁き続けているのかもしれない。誰にも聞こえないその声だけが、彼の耳の奥で疑いの種を蒔き続けている。レオはその様子を見て、あえて何も聞かなかった。今、問い詰めれば、ヴィクターはますます自分の感覚を信じられなくなる。必要なのは追及ではなく、時間だった。
「進みます」
レオは短く言った。リアムが先に立ち、壁を一枚一枚確かめながら、慎重に足を進めていく。誰も、灯りの揺れる方向からは目を離さなかった。
◇ ◇ ◇
リアムは隠し扉の周囲を、指先で一寸ずつなぞるように調べた。石壁の下に、靴で擦られた新しい跡がある。まだ土埃が固まりきっていない、ここ数日のものだ。扉の前には荷車の車輪跡もあったが、中央の通路には残っていない。「荷車は右へ入っています」。レオは頷いた。「家族も、そこへ運ばれた可能性が高い」「では右だな」とガレスが石扉へ手を掛けるが、びくともしない。ただの石ではなく、内側から留め金で固定されているようだった。
リアムは壁際の古い道具掛けへ目を向けた。錆びた槌、石を割るための鉄棒、用途の分からない鉤爪――その中に一本だけ、ほとんど埃の積もっていない柄がある。使われた痕跡だった。引くと、壁の奥でカチリと留め金が外れる音がし、石扉がわずかに軋みながら開いた。
「敵は、私たちが見つけられるようにしている」とヴィクターが呟く。「そうでしょうね」レオも否定しなかった。「ですが、見つけられる手掛かりがあるからといって、その先に進まない理由にはなりません。罠を見抜きながら進みます。立ち止まることこそ、向こうの思う壺です」
ガレスが扉を押すと、人一人が通れる隙間ができた。その向こうには、想像していたよりもさらに広い地下空間が広がっていた。元は石を切り出した巨大な採掘室だったのだろう。天井は見上げるほど高く、いくつもの木製足場が蜘蛛の巣のように組まれている。中央には円形に並べられた椅子があり、まるで誰かを裁くための場のようだった。その周囲を囲むように、何枚もの大きな布が吊られている。布には大きく文字が書かれていた。
**王子は王を捨てた。**
**レオは家族を囮にした。**
**フェルトハイムを襲ったのは王都の命令である。**
すべて偽りだった。だが、住民へ繰り返し見せれば、やがて事実として語られるようになる。それが恐ろしかった。「これが実験場……」リアムが息を呑む。声が微かに震えていた。「人々へ偽の情報を見せる場所です」
壁際には机がいくつも並んでいた。偽造された命令書の束、複数の印章、筆跡を練習した紙の山、住民ごとに分けられた記録――そしてレオの家族について書かれた帳面まであった。レオは震える手で一冊を開いた。ミレイの行動、ルナの友人の名前、ソラが泣く時間帯まで、日常の細かな情報が何か月分も記録されている。まるで一冊の日記のように、克明に。
「ずっと監視されていた」レオの声が低くなる。抑えているつもりでも、拳が白くなるほど震えていた。「家の中へ入った者だけではありません」リアムが帳面を確認しながら続けた。「近所で聞き込みをした記録、商人から得た買い物の情報、子供たちが話した内容まで集めています」「花畑の約束も、誰かに聞かれた?」ダグが尋ねる。レオは首を横に振った。「誰にも話していません」「なら、手紙か日記か」ガレスが机を探る。「ミレイさんが、どこかに書いていた可能性は?」「分かりません」レオは答えながら、胸の奥へ冷たいものが広がるのを感じた。大切な思い出まで、敵の材料にされていた。それを知っただけで、足元が崩れるような気がした。
机の奥には、さらに古い記録も積まれていた。日付を見ると、レオが生まれるよりずっと前のものもある。フェルトハイムだけではない。近隣のいくつもの町や村の名が、同じように帳面へ記されていた。「ここだけの話ではない」ガレスが低く言った。「もっと広い範囲で、同じことが行われている」リアムは唇を噛んだ。「白鴉計画というのは、一つの街を狙う陰謀ではなかったんですね」「国そのものを、少しずつ書き換えるための仕組みだったのかもしれません」レオはそう呟きながら、帳面を胸元へ抱え込んだ。すべてを持ち出すことはできないが、一冊でも多く、証拠として残さなければならない。
◇ ◇ ◇
「レオ!」ガレスの声が採掘室の奥から響いた。鉄格子で囲まれた小部屋に、三人の姿があった。「ミレイ!」レオは駆け出しかけたが、すぐに足を止めた。罠を警戒したのだ。心臓が早鐘を打っていたが、それでも足を止められたのは、この数日で学んだことだった。
鉄格子の中にはミレイ、その腕に抱かれたソラ、隣にはルナがいる。三人とも生きていて、目立った怪我もない。それだけで涙が出そうになる。「レオ……!」ミレイが格子へ近づく。「本当にレオなの?」その問いに、レオの胸が痛んだ。ミレイもまた、偽の情報を見せられ、何を信じればいいか分からなくなっているのだ。「私です」「近づかないで!」ミレイが叫び、レオは足を止めた。「どうしてです」「格子の前の床に仕掛けがあります」ルナが震える声で言った。「灰色の人が、踏んだら下が開くって」
リアムが床を照らすと、格子の前だけ、石板の縁が不自然に新しい。「落とし穴です」「幅は?」「格子から五歩ほど」リアムは長い鉄棒で床を押した。中央の石板がわずかに沈む。足を乗せれば、床が抜ける仕組みだった。「迂回できますか」「左右に細い足場があります。一人ずつなら通れます」
ガレスが左へ回ろうとした、その瞬間、採掘室の上部から声が響いた。「そこで止まってください」。灰色の外套の人物が、木製足場の上に立っていた。顔には白い仮面、手には小さな弓。矢先はミレイではなく、ルナへ向けられている。「動けば、娘を射ます」
レオの全身が凍りついた。「子供を狙うな」ガレスが低く唸る。「この子でなければ、王子は止まりません」灰色の人物は淡々と、まるで天候の話でもするように答えた。「あなたが、北門にもいた人物ですか」「そうです」「名前は」「必要ありません」「では、白鴉計画の中で何をしている人物です」仮面の奥から、小さな笑いが漏れた。「ようやく正しい質問をするようになりましたね。私は観察官です」「何を観察しているのです」「選択です」観察官は弓を構えたまま、静かに続けた。「人間が、何を見せられれば、誰を信じ、誰を疑い、何を捨てるのか。その結果を、ただ記録しています」「ミレイたちを連れ去ったのも、私を試すため?」「あなた一人ではありません」観察官は周囲の布を弓の先で示した。「フェルトハイムの住民、石工のダグ、護衛のヴィクター、そして、あなたの家族。全員が観察対象です」
弓の弦が、わずかに軋む音を立てた。誰も動けない。ルナは息を殺し、ミレイはソラをきつく抱きしめている。レオは頭の中で、あらゆる可能性を並べていた。飛びかかれば間に合うか。声をかければ気を逸らせるか。だが、どの案も、矢が放たれる前に確実とは言えない。焦るな、と自分へ言い聞かせる。ここで動けば、向こうの思うつぼだ。
「あなたは、私たちが逆上して動くのを待っている」レオは静かに言った。「観察官なら、なおさら承知しているはずです。感情で動いた者の末路を」観察官はわずかに肩を揺らした。それが笑いなのか、ただの呼吸なのか、仮面の下では分からなかった。
「随分と落ち着いていますね」観察官が言う。「家族を目の前にして、剣を抜きもしない」「抜けば、あなたは迷わず矢を放つでしょう」レオは静かに返した。「それくらいは分かります。あなたが弓を構えているのは、私たちを止めるためではなく、私たちがどう動くかを見るためだ」「よく分かっていますね」「白鴉計画の資料を、いくつも読ませていただきましたから」レオは奥の帳面へ目を向けた。「あなた方が何を望み、何を恐れているのかも、少しは理解したつもりです」観察官は初めて、わずかに姿勢を変えた。興味を惹かれたのか、あるいは苛立ったのか、その判断はつかなかった。
◇ ◇ ◇
「何が目的です」リアムが尋ねた。声には抑えきれない怒りが滲んでいた。「こんな実験を続けて、何を得る」「王国を動かす方法です」観察官は静かに答えた。「人を武力で従わせるには、兵と金が必要です。ですが、自ら正しいと思って動かせば、何も要らない。偽の命令を信じて門を開く。家族のために王子へ弓を向ける。自分が危険だと思い込み、国王を人目のない場所へ連れ出す。すべて、本人が選んだことになる」
ヴィクターの顔が歪む。「私たちは、命令しただけではありません。選択肢を用意した。選んだのは、本人たちです」「違います」レオは即座に否定した。「必要な情報を隠し、偽の証拠を与え、恐怖を利用した。それは選ばせたのではない。追い込んだだけです」「結果は同じです」「違います」レオは仮面の人物から目を逸らさなかった。声は震えていたが、その視線だけは揺るがなかった。「自分の意志で選ぶことと、嘘で選ばされたことは、決して同じではありません。それを同じだと言う者は、選ぶということの意味を分かっていない」
「では聞きますが」観察官が静かに問い返した。「あなたが今、家族を助けたいと願うその気持ちも、生まれた瞬間から誰かに植え付けられたものではないと、どうして言い切れるのですか。血の繋がり、育てられた記憶、交わした約束――すべて、誰かに与えられた情報の積み重ねに過ぎない」「積み重ねであることと、偽りであることは違います」レオは即答した。「私がミレイを愛しているのは、誰かに命じられたからではありません。共に過ごした時間の中で、自分で選び続けてきたからです。その選び直しができることこそが、あなたの与える偽りとの違いです」観察官はしばらく黙っていた。仮面越しでは、その沈黙が何を意味するのか、誰にも分からなかった。
「なら、今ここで証明してください」観察官が言った。足場の下から、二本の縄が垂れてくる。一本は鉄格子の鍵へ繋がり、もう一本は採掘室の奥にある木箱へ繋がっていた。「左の縄を引けば、家族の格子が開きます。右の縄を引けば、この実験場に残された全記録が焼却されます」「右を引かなければ?」「記録は王都へ送られます。白鴉計画を引き継ぐ者たちは、あなたの家族だけでなく、この街全体の情報を使い続ける」「両方引けばいい」ガレスが言うと、観察官は足場の脇にある仕掛けを弓で示した。「できません。二本の縄は中央の滑車で繋がっています。一方を引けば、もう一方が切断される構造です」
「家族か、記録か」レオの表情が硬くなる。「また二つから選べと?」「今度は明確です。家族を救えば、白鴉計画の記録が残る。記録を焼けば、家族を閉じ込めたまま、私は去る」「家族を救います」レオは迷わず答えた。観察官がわずかに首を傾ける。「即答ですか」「記録は追えます。犯人も探せます。ですが、家族の命は取り戻せません」「王子としては失格ですね」「そうかもしれません」レオは静かに言った。「ですが私は、家族を守れない男が、国を守れるとは思いません」ミレイの目に涙が浮かんだ。「レオ……」
◇ ◇ ◇
「では、左を引いてください」観察官が言う。だがレオは縄へ近づかなかった。「どうしました」「あなたの説明を信用していません。左が本当に格子を開く証拠はない。右が記録を焼くという証拠も」「選ぶと言いながら、まだ疑うのですか」「疑ったうえで、家族を救います。疑うことと選ぶことは、矛盾しません」
レオはリアムへ視線を送った。リアムは既に滑車の構造を、目だけを動かして観察していた。「縄は見せかけです」小声で言う。「左を引けば格子は開きます。同時に、足場を支える留め具も外れます」「観察官が落ちる?」「いいえ。足場の下にある油壺が落ちます。採掘室へ火を広げる仕掛けです」「右は?」「木箱へ繋がっていません。壁の鐘を鳴らすだけです。誰かに知らせるための仕掛けでしょう」
どちらを引いても、説明通りにはならない。「やはり選択そのものが偽物です」レオが言った。観察官の動きが、初めてわずかに止まった。「家族か記録かではない。左を選べば全員を燃やす。右を選べば、仲間へ知らせる。どちらを選んでも、あなたたちに都合がいい」「……」「だから、どちらも引きません」
レオが合図を送ると、ガレスが左側の細い足場へ走り、同時にヴィクターが右へ向かった。「動くな!」観察官がルナへ矢を放とうとする。だがダグが地面から石を投げ、矢は逸れて鉄格子へ当たった。ガレスが足場の支柱へ剣を叩き込むと、観察官の立つ木床が大きく揺れる。「今です!」リアムが落とし穴の端を飛び越え、格子脇の壁へ取りついた。鍵は縄だけでなく、壁の歯車にも繋がっている。鉄棒を差し込み、強引に回すと、ギギギ、と金属が軋み、格子の扉が少しずつ開いていった。
◇ ◇ ◇
「ミレイ!」レオは細い足場を渡った。落とし穴の上で体勢を崩しながらも、格子まで辿り着く。扉が人一人分開くと、最初にルナを抱き上げ、続いてミレイがソラを抱いたまま外へ出た。「レオ!」「もう大丈夫です」
そう答えた瞬間、採掘室の奥で火が上がった。観察官が自ら油壺へ火を投げたのだ。橙色の炎が瞬く間に布へ燃え移り、煙が渦を巻いて天井へ立ち上る。「記録を燃やすつもりです!」リアムが叫ぶ。「ガレス!」ヴィクターが観察官の足場へ飛び移ろうとするが、観察官は背後の縄を切った。足場の一部が崩れ、床との間に大量の石粉が舞い上がり、視界が白く塞がれる。「逃げるぞ!」ガレスが叫んだ。炎は机から布へ、布から木製足場へと急速に広がっている。レオはルナを抱き、ミレイの背中を押した。「出口へ!」
全員が入ってきた通路へ走る。背後から木材が崩れる音、頬を焼くほどの炎の熱、天井へ溜まり始める煙。息をするたび喉が焼けるようだった。石扉を抜けた直後、ガレスとダグが力を合わせて扉を押し戻したが、完全には閉まらない。それでも煙と炎の勢いを、わずかに遅らせることはできた。「全員いるか!」ガレスが確認する。レオ、ミレイ、ルナ、ソラ、リアム、ヴィクター、ダグ。全員いる。誰一人欠けていない。それを確かめただけで、レオは膝から力が抜けそうになった。
「観察官は?」リアムが尋ねると、「見失った」とガレスが答えた。「別の出口から逃げた可能性が高い」煙で霞む扉の隙間から、まだ橙色の光が漏れている。中の炎は収まる気配がなかった。「追いますか」ヴィクターが尋ねたが、レオは首を横に振った。「今は無理をしません。家族も、皆も、これ以上危険には晒せない」その言葉に、誰も異を唱えなかった。
レオは追おうとはしなかった。腕の中にルナがいる。すぐ隣にミレイとソラがいる。今はそれでいい。他のことは、すべて後回しでよかった。「父さま……」ルナがレオの首へしがみつく。小さな体が震えているのが分かった。「来てくれると思ってた」「遅くなって、ごめん」「ううん」ルナは首を振った。「木の絵、分かった?」「分かりました。ルナが教えてくれたから、ここまで来られました」娘は安心したように目を閉じた。その重みと温もりを、レオは確かめるように腕へ感じ続けた。生きている。それだけで、これまでのすべての選択が報われる気がした。
ダグが背後を振り返り、まだくすぶる煙を見つめていた。「街のみんなにも、早く知らせないと」「ええ」レオは頷いた。「フェルトハイムの人々も、あの布に書かれた嘘を信じかけていたはずです。真実を伝えるのは、これからの仕事です」ガレスが肩をすくめた。「王子様の仕事は増える一方だな」「元々そうだったのかもしれません」レオは苦笑した。「ただ、今日はもう少しだけ、家族といさせてください」
◇ ◇ ◇
ミレイはソラを抱いたまま、レオを見つめていた。その目には、恐怖と安堵がまだ入り混じっている。「本物なのよね」「はい」レオは胸が痛むのを感じながら答えた。「確かめたいことがあるなら、何でも聞いてください」ミレイは少し考え、そして静かに尋ねた。「初めて会った時、私があなたに飲ませた薬は?」
レオは一瞬、言葉を失った。あの森、倒れていた自分、薬草の見分けが苦手だったミレイが必死に作ってくれた苦い薬。あの日の匂いまで、鮮明に思い出せた。「薬と言える味ではありませんでした」「ひどい」ミレイの目から涙が零れる。「ですが」レオは続けた。「私が生きたいと思えた、最初の薬でした」ミレイは泣きながら笑い、それからレオの胸へ顔を埋めた。「怖かった。ごめんなさい。偽物の手紙を信じてしまった」「ミレイのせいではありません。二人だけの約束まで使われたら、私でも迷います」レオはミレイと子供たちを抱き寄せた。焦げた煙の匂いの中で、それでも確かに、家族の温もりを感じた。ようやく、本当に、家族を取り戻した。
少し離れた場所で、リアムがそっと目を伏せていた。ガレスがその肩を軽く叩く。「感傷に浸るのは後にしろ、と言いたいところだが」ガレスの声もいつもより柔らかかった。「今日ばかりは、少し眺めていてもいいだろう」ダグは涙をこらえるように鼻をすすり、ヴィクターは静かにその場を見守っていた。誰も言葉にしなかったが、全員が同じことを思っていた。今夜、この街のために戦ったことには、確かな意味があった。
「再会を邪魔するつもりはないが」ガレスが通路の奥を見た。奥ではまだ赤い光が揺らめいている。「ここから出るぞ。火が地下へ回れば、崩落する」全員が井戸へ戻るため、暗い通路を歩き始めた。
その途中、ヴィクターが不意に足を止めた。「どうしました」レオが尋ねる。「声が消えました」「オーウェンの?」「はい。この場所へ入ってから、ずっと聞こえていた。左へ行け、家族を疑え、王子は偽物だ、と」ヴィクターは自分の胸へ手を当てた。指先が微かに震えている。「ですが、観察官が逃げた瞬間に消えました」「観察官が声の主だった?」リアムが尋ねる。「分かりません。ただ」ヴィクターは燃える採掘室の方向を、未練を断ち切るように振り返った。「あの人の声を聞いた時、どこかで聞いたことがあると思いました」「誰の声です」
長い沈黙のあと、ヴィクターは苦しそうに、絞り出すように答えた。「オーウェンです」レオたちの表情が変わる。「確かなのですか」「仮面で声を変えていました。それでも、言葉の切り方が同じでした。質問する時の間の取り方も」
侍従オーウェン。白鴉計画に関わっていると疑わせる徽章を残された男。倒れていたという報告の後、姿を消した人物。彼が観察官なら、すべてが繋がる。だが同時に――見えている証拠ほど疑え。その言葉も忘れてはいけない。この計画の恐ろしさを、レオはこの数日で嫌というほど思い知らされていた。「今は断定しません」レオが言った。「ですが、オーウェンを探します。本人に確かめるために」
背後で大きな崩落音が響いた。最後の実験場は、炎の中へ崩れ始めている。記録の多くは失われ、観察官も逃げた。得られたものより、失ったものの方が多いのかもしれない。それでも、レオは腕の中のルナを抱き直した。今回は敵に選ばされたのではない。自分たちで証拠を集め、仲間を信じ、家族を救った。その事実だけは、誰にも書き換えられなかった。
井戸から差し込む夜の空気を吸い込みながら、レオは一歩ずつ、地上へ向かって歩き続けた。星の光が見えた時、隣を歩くミレイが小さく息を漏らした。「終わったの?」「いいえ」レオは正直に答えた。「オーウェンのこと、白鴉計画を引き継ぐ者たちのこと、まだ何も終わっていません」「それでも」ミレイはレオの腕に自分の腕を絡めた。「今夜だけは、終わったことにしましょう」
その言葉に、レオは久しぶりに、心の底から頷くことができた。背後で採掘室が崩れ落ちる音が、遠く鈍く響いていた。だがその音は、もう自分たちを追ってくるものではない。振り返らずに、レオは家族と共に、夜明け前の道を歩き続けた。




