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第208話 石工区の人質

旧水車小屋を出た四人は、荷車の跡を追って南へ進んだ。林の中はすでに薄暗く、地面に残された二本の車輪跡だけが進む方向を示している。途中で道が分かれるたびに、灰色の石粉がまるで道しるべのように落ちていた。


「わざと残しているようにも見えるな」ガレスが低く言った。

「私たちを石工区へ誘うために?」ヴィクターが尋ねる。

「その可能性はあります」レオは足を止めずに答えた。「ですが、旧水車小屋へ向かった足跡や、南へ進んだ荷車の跡まで、すべてを偽装するには人手が要る」

「白鴉計画を引き継いだ者たちなら、それくらいはするでしょう」リアムが周囲を警戒しながら言う。

「ええ」レオは頷いた。「だからこそ、罠であることを前提に進みます」


 家族が本当にいるかどうかは分からない。だが、罠を恐れて立ち止まれば、ミレイたちへ近づくこともできない。


 やがて林が途切れ、その先に灰色の石壁が並ぶ広い空間が見えてきた――廃石工区。かつてフェルトハイムの建物に使う石材を切り出し、加工していた場所だ。今は新しい採石場が別の地域に移され、ほとんど使われていない。崩れかけた作業小屋、半分だけ削られた石柱、雨水の溜まった窪地。そして中央には、古い井戸が一つ残されている。


「ルナの絵と同じだ」レオが呟いた。井戸の向こう、切りかけの大きな石壁には縦に三本の溝が刻まれていた。円と三本の線――木片に描かれていた印そのものだった。


「ルナがここを見たのは間違いなさそうです」リアムが言った。

「今もいるかは別だがな」ガレスは剣を抜いた。

「人の気配は?」ヴィクターが目を閉じ、耳を澄ます。「……分かりません。風の音と、水の音だけです」


 レオたちは物陰へ身を寄せたまま、石工区全体を観察した。灯りはない。煙もない。人が動く影も見えない。だが、完全に放棄されているわけでもなかった。


「井戸の横を見てください」リアムが小声で示す。新しい荷車が一台止まっている。旧水車小屋から続いていた車輪跡は、そこまで伸びていた。

「荷台は空だ」ガレスが目を細める。「人を降ろした後か」

「あるいは、最初から何も乗せていなかったか」レオは周囲を見渡した。車輪跡以外にも複数の足跡が残っているが、石粉の多い地面では人数までは判断できない。


「正面からは入りません」レオが言った。「リアムは右側を。ガレスは左へ。ヴィクターは私と中央を確認します」

「一人で行動しないという約束は?」ガレスがヴィクターを見る。

「レオ様と一緒です」ヴィクターは答えた。

「ならいい。異変があれば、すぐ合図を」


 四人は二組に分かれ、石材の陰を使いながら進み始めた。


 レオとヴィクターは中央の井戸へ近づいた。石組みは古く、一部が崩れている。井戸の中を覗き込んでも水面は見えず、深い闇だけが続いていた。


「使われていないようですね」ヴィクターが言う。

「いいえ」レオは井戸の縁へ触れた。石粉が一部だけ拭われている――何かが擦れた跡だ。「縄を使った形跡があります」


 井戸の内側を見ると、太い縄が一本垂れていた。

「井戸ではなく、地下への入口?」

「可能性があります」


 レオが縄を引く。しっかり固定されている。最近取りつけられたものだ。


 その時、「動かないでください」と背後から声がした。レオとヴィクターは同時に振り返る。石材の陰に、一人の男が立っていた。灰色の作業着に、手には弓。矢先はレオへ向けられている。


「武器を捨てろ」声は震えていた。訓練を受けた兵士ではない。石工か、街の住民に見える。


「あなたは誰です」レオが静かに尋ねる。

「質問するのはこっちだ。本当にレオン王子か」

「そうです」

「嘘をつけ! レオン王子は、この街を捨てた! 国王を殺して、王都から逃げてきた!」


 噂を信じている。だが、この場所で弓を構えている理由はそれだけではないはずだった。


「誰に、ここを守るよう言われたのです」レオが問う。男の顔が強張った。

「……家族を返してほしければ、言われた通りにしろと」

「あなたの家族も人質に?」


 男は答えなかった。しかし、弓を持つ手は震えている。


「どこにいると言われました」

「黙れ!」

「この井戸の下ですか」


 男の目がわずかに動いた。答えだった。


「私の家族も、同じ場所にいる可能性があります」レオは両手をゆっくり上げた。「私たちは敵ではありません」

「信じられるか!」

「なら、確かめてください」

「何を」

「私を射れば、あなたの家族は戻るのですか。命令を守った証拠を、誰に見せるのです。その相手は、今どこにいますか」

「……」

「あなたへ弓を渡し、ここに立たせた者は」

「私たちが来たら、井戸へ近づけるなと言った。……朝まで待てと」

「朝になれば家族を返すと?」


 男の目に絶望が浮かぶ。本人も、その約束を信じ切れていない。


「その者の姿は見ましたか」

「灰色の外套だった」


 北門の外へ現れた人物と同じだ。


「声は?」

「男だった。顔は見ていない」

「ほかに仲間は」レオが尋ねる。

「知らない。……俺は昨夜、家から連れ出されて」


 男はそこで言葉を止めた。自分が話しすぎたと気づいたらしい。


「あなたの名前は?」

「……ダグ。石工のダグだ」


「ダグ」レオは静かに呼びかけた。「私たちは、この井戸の下へ行きます。あなたを置いてはいきません。一緒に家族を助けましょう」

「だが命令に逆らえば」

「命令を守っても、返す保証はありません」ヴィクターが言った。ダグが彼を見る。「私は、敵に自分を疑うよう仕向けられました。言う通りにすれば王を守れると思っていた。ですが違った。従わせること自体が目的だった」


 ヴィクターの声には、自分自身への痛みが滲んでいた。


「あなたも同じです。家族を守りたい気持ちを利用されています」


 ダグの弓が少し下がる。その瞬間、ひゅっ、と空気を裂く音がした。


「伏せろ!」ヴィクターがレオとダグを突き飛ばした。矢が石壁へ突き刺さる。狙われていたのはダグだった。


「裏切れば殺すつもりだったのか!」ガレスの怒声が響く。左側の石材の陰から飛び出し、矢が飛んできた方向へ走る。リアムも反対側から回り込んでいた。遠くで黒い影が走る。


「逃がすな!」


 だが石工区には遮蔽物が多い。影は削りかけの石柱の間を抜け、南側の崖へ向かった。ガレスが追いつく直前、影は崖際から飛び降りる。


「何っ!」


 下には細い川が流れている。影は着水すると、そのまま流れへ乗って姿を消した。


「くそっ」ガレスが崖下を睨む。「追えない」

「戻ってください!」レオが叫んだ。今の目的は逃げた人物ではない。井戸の下だ。


 ダグは地面へ座り込んでいた。矢は当たっていない。だが顔は青ざめている。


「俺を……殺そうとした」

「あなたが話すことも想定していたのでしょう」リアムが矢を調べる。「矢じりに毒はありません。しかし、当たりどころによっては死んでいました」


 ダグは弓を手放した。「妻と娘がいる。昨日の夕方、家から消えた。代わりに手紙が置かれていた。今夜ここへ来て、王子を井戸へ近づけるなと。守れば返すと書かれていた」

「手紙は?」

「燃やせと命じられた」

「燃やしたのですか」

「……いや」


 ダグは作業着の内側から、折り畳んだ紙を取り出した。「何かあった時のために残した」


 リアムが受け取り、開く。短い命令文。末尾には白い鳥の印。そして、もう一つ。


「この印は……」フェルトハイム自警団の印だった。

「偽造ですか」レオが尋ねる。

 リアムは紙を光へかざした。「印の形は正確です。本物の印章を使った可能性があります」


 ロイドの管理する自警団印。レオの個人印だけではない。敵は街の重要な印章を複数手に入れている。


「街の中に協力者がいます」ガレスが戻りながら言った。「印を盗める立場の者か」

「あるいは、印を管理する本人が脅されている」


 レオはダグへ手を差し出した。「立てますか」

「……ああ」

「井戸の下へ行きます。ですが、まずあなたから教えてください。この井戸は、どこへ繋がっているのですか」


 ダグは井戸の闇を見つめた。「昔の地下採石場だ。石工区が使われていた頃、地下からも石を切り出していた。事故で何人も死んで、閉鎖された」

「出入口は井戸だけ?」

「表向きは」

「ほかにもあるのですか」

「南の川沿いに、運搬用の横穴がある」


 先ほど灰色の人物が逃げた方向だ。敵は横穴から地下へ入っているらしい。


「中の構造は分かりますか」

「少しなら。子供の頃、父に連れられて入ったことがある」

「案内を頼めますか」


 ダグは一瞬だけ迷った。だが、やがて頷く。「妻と娘を助けるためなら」


   ◇ ◇ ◇


 井戸の縄は、一人ずつ下りられるように結び目がつけられていた。誰かがレオたちの侵入を予想し、用意したようにも見える。


「この縄は使わない方がいい」ガレスが言う。「途中で切られる可能性がある」

「別の縄を使います」


 石工区の作業小屋には、古い運搬用の綱が残っていた。リアムが傷みを確認し、二本を組み合わせて井戸の石組みへ固定する。


「最初は私が下ります」ガレスが言った。「次にダグ。その後、レオ、ヴィクター、リアムの順だ」

「最後が私なのですか」リアムが尋ねる。

「上で縄を確認する者が必要だ」

「分かりました」


 ガレスはランタンを腰へ結び、井戸へ入った。ゆっくりと下りていく。やがて暗闇の下から声が届いた。


「底に着いた! 異常はない!」


 続いてダグ、レオ、ヴィクター、最後にリアムが下りた。


 井戸の底には水がなかった。代わりに、横へ伸びる石の通路がある。空気は湿り、細かな石粉が舞っていた。壁には古い道具の跡、床には新しい足跡が残っている。


「大勢通っています」リアムがランタンを低く掲げる。「少なくとも十人以上」

「子供の足跡は?」レオが尋ねる。

「あります」小さな足跡。その隣には、誰かが引きずられたような跡もある。


「ミレイたちだけではありません」ダグが呟いた。「俺の家族も」

「ほかの住民も連れ込まれている可能性があります」ヴィクターが言う。


 北門外へ置かれた馬車。森へ誘導された避難民。消えた街道の旅人。敵は各地から人々を集めていた。


「何のために」ガレスが険しい顔で通路の奥を見る。答えはまだ分からない。


 通路を進むと、三本の道へ分かれた。ダグが壁の傷を確かめる。「左は昔の切り出し場。中央は道具置き場。右は川へ続く運搬路だ」

「人質を置くなら?」

「切り出し場だと思う。広いから」


 床の足跡も左へ集中していた。だが、リアムが右の道を見た。「新しい車輪跡があります」

「荷車を地下まで入れた?」

「川沿いの横穴からでしょう」


 人質を移動させる準備かもしれない。


「二手に分かれるべきか」ガレスが尋ねる。

「分かれません」レオは即答した。「敵は何度も私たちを分断しようとしています。全員で左へ。人質を確認した後、運搬路を調べます」


 左の通路を進むにつれ、人の声が聞こえ始めた。泣き声。咳。誰かを励ます声。レオの足が速くなる。


「待て」ガレスが肩を掴む。「罠を確認してからだ」

「……分かっています」


 曲がり角の先に、広い空間があった。壁際へ並べられた灯り。中央には、多くの人々が座らされている。両手を縛られた大人、不安そうに身を寄せ合う子供たち。


「妻だ……!」ダグが声を上げそうになり、自分で口を押さえた。人質の中に、妻と幼い娘がいる。無事だった。


 だが、レオの視線は別の場所を探していた。ミレイ。ルナ。ソラ。何度見ても、三人の姿がない。


「いません」レオの声が掠れる。「家族がいません」


 人質の周囲には武装した男が四人。入口に二人、奥に二人。さらに上部の足場にも弓を持った者がいる。


「正面からは無理だ」ガレスが小声で言う。「人質を盾にされる」


 その時、人質の中にいた年配の男が、こちらへ気づいた。目を見開くが、声は出さない。代わりに、縛られた手をわずかに動かした。床を指す。そして奥。


「何か知らせています」ヴィクターが囁く。


 床を見ると、人質たちの足元には黒い線が引かれていた。油だ。壁際の灯りから、細い糸が伸びている。


「火をつける仕掛けです」リアムの顔が青ざめる。「侵入者が来たら、人質ごと燃やすつもりです」

「解除できるか」

「ここからでは無理です」


 仕掛けは人質の中央にある。近づけば見張りに気づかれる。


 レオは周囲を見回した。切り出し場の天井は高く、昔使われていた木製の足場が残っている。上部には石材を吊り上げるための滑車。そして、見張りの真上に大きな石板が吊られていた。


「リアム」レオが小声で呼ぶ。「あの滑車を動かせますか」

「縄を切れば石板は落ちます」

「見張りへ当てず、奥の通路を塞げますか」


 リアムは位置を計算するように見つめる。「縄を一本だけ切れば、片側が先に落ちます。通路を塞ぎ、見張りの注意も引ける」

「その隙に私とガレスが入る」ヴィクターが言った。「レオ様は人質の縄と仕掛けを」

「私も前へ出ます。家族がいなくても、ここにいる人々を見捨てることはできません」


 ガレスはため息をついた。「分かった。だが俺より前へ出るな」


 リアムが音を立てず、足場へ上がる。古い木材は軋みそうだったが、慎重に体重を移していく。やがて滑車の縄へ到達した。下ではガレスとヴィクターが剣を抜く。レオは小刀を手に、人質へ飛び込む準備をした。


 リアムが合図する。三、二、一――縄が切られた。巨大な石板が傾き、轟音とともに奥の通路へ落ち、出口を塞いだ。


「何だ!」見張りたちが一斉に振り返る。


「今だ!」ガレスが飛び出した。一人目の剣を弾き、柄で顎を打つ。ヴィクターも入口側の男へ体当たりし、地面へ押し倒した。


「侵入者だ!」上の弓兵が矢をつがえる。リアムが足場から石の破片を投げ、腕へ当てた。矢が逸れ、壁へ刺さる。


 レオは人質のもとへ走った。「動かないでください! 油へ触れないで! 仕掛けはどこです」

「そこの糸です!」


 レオが小刀で糸を切る。だが火をつける仕掛けは一つではない。反対側にも別の糸がある。


「右側にも!」ダグが人質の中へ駆け込み、妻と娘を庇いながら糸へ手を伸ばす。

「引くな!」リアムが上から叫んだ。「切ってください!」


 ダグは腰の小刀で慎重に切断した。二つの仕掛けが止まる。


 戦いは長く続かなかった。見張りたちは訓練された兵士ではなく、脅されて協力させられていた者も混じっていた。ガレスが二人を倒したところで、残りは武器を捨てた。


「降参する! 俺たちも家族を捕らえられている!」


 ガレスは剣を向けたまま動きを止める。「全員、壁際へ座れ。妙な動きをすれば斬る」


 レオたちは人質の縄を次々に解いた。


「ミレイたちを見ませんでしたか」レオが年配の男へ尋ねる。「ミレイという若い女性と、二人の子供を見ませんでしたか」

「娘はルナ、幼い男の子はソラです」

「見た」男は答えた。「ここへ連れてこられた」

「いつです」

「昼頃だ。だが、すぐ別の場所へ移された」

「どこへ」

「分からない。灰色の外套の者が来て、その三人だけを連れていった」

「どちらへ向かいました」


 男は奥の塞がれた通路ではなく、右側を指した。「川へ続く道だ」


 運搬路。荷車の跡が残っていた道だ。


「どれくらい前です」

「半刻も経っていない」


 レオの表情が変わる。まだ近い。追いつける可能性がある。


「ロイド団長へ知らせます」リアムが言った。「救出した人々を地上へ送る必要があります」


「ダグ」レオは石工を見る。「道を案内できますか」

「ああ。井戸までなら」

「人質の皆さんを連れて戻ってください」

「俺も追う」ダグは拒んだ。「妻と娘を助けてもらった。今度は俺が、お前の家族を助ける」


 レオは一瞬迷った。だが、ダグはこの地下を知っている。「分かりました。ただし、必ず私たちの指示に従ってください」

「ああ」


   ◇ ◇ ◇


 レオ、ガレス、リアム、ヴィクター、ダグ。五人は運搬路へ向かった。床には新しい車輪跡、荷車は一台、足跡は数人分。


「重い荷物を運んでいます」リアムが跡を確認する。「人を乗せているからでしょう」


 通路の先から、冷たい風が流れてくる。川へ続く横穴が近い。


「急ぎます」


 走り出そうとしたレオを、ヴィクターが止めた。「待ってください」

「どうしました」

「声が聞こえます」


 全員が黙る。今度はヴィクターの頭の中だけではなかった。通路の先から、かすかな歌声が聞こえる。子供の声。震えながらも、同じ旋律を繰り返している。


 レオは息を呑んだ。「ルナです」


 娘が眠る前によく歌っていた歌。怖い時、自分を落ち着かせるように口ずさむ癖があった。


「近い」レオは剣の柄を握る。「まだ、この先にいます」


 その瞬間、歌声が途切れた。代わりに、灰色の外套の人物の声が通路へ響いた。


「追いつきましたね、レオン王子」


 姿は見えない。声だけが石壁へ反響している。


「家族を返してください」

「もちろん」相手は穏やかに答えた。「ただし、一つだけ条件があります」

「また一人で来いと言うつもりですか」

「いいえ」短い笑い声。「今度は全員で来てください」

「なぜです」

「王子が誰を信じるのか。家族の前で確かめたいからです」


 直後、通路の奥で重い扉が開く音がした。暗闇の向こうへ、橙色の灯りが一つ灯る。


「お待ちしています。白鴉計画の、最後の実験場で」

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