第207話 旧水車小屋の罠
北門の外に落とされた赤い髪飾りを、レオは門の上から見つめていた。ルナがいつも使っていたものだ。ミレイが選び、娘の細い髪へ結んでいた品で、見間違えるはずがなかった。夕暮れに近い光の中で、それだけが妙に鮮やかな赤を保っている。門の下には、まだ砂埃が薄く舞っていた。誰かが急いでここを離れた証拠だろう。
「回収しますか」ロイドが尋ねる。「はい。ただし、門は開けません」レオは即座に答えた。外には仕掛けられた馬車がまだ残っている。灰色の外套を着た人物も、林の中からこちらを窺っているかもしれない。ここで門を開けば、それこそ相手の思う壺だ。門は街を守る最後の壁であり、家族一人のために崩していい理由にはならなかった。
自警団員が長い棒の先へ鉤を取りつけ、門の上から慎重に髪飾りを引き寄せた。風で揺れ、何度か鉤先から逃れそうになったが、やがて手の届く距離まで引き寄せられる。リアムが布越しに受け取ると、赤い布の端に乾いた泥がこびりついているのに気づいた。色は濃い茶色。よく見ると、小さな灰色の粒も混じっている。
「旧水車小屋の周辺は、川沿いでしたね」レオがロイドへ尋ねる。「ああ。地面は湿っている」「だが、この灰色の粒は何だ」ガレスが髪飾りを覗き込んだ。リアムは指先で粒を潰し、感触を確かめてから告げる。「石粉です。石を削った時に出る粉に見えます」「水車小屋の近くに採石場でもあるのか」ガレスが問うと、ロイドは即答した。「ない。北西の水車小屋は麦を挽くためのものだ。周囲に石切り場はない」
つまり髪飾りは、旧水車小屋とは別の場所へ一度運ばれ、そこから持ち出された可能性が高い。単純な話ではない、とレオは思う。敵はこちらの動きを見越して、証拠そのものに細工を仕込んでくる相手だ。「灰色の人物は、旧水車小屋に次の指示があると言いました」ヴィクターが言う。「家族がそこにいるとは言っていません」「ええ」レオは髪飾りを握り締めた。指先に、乾いた泥の感触が残る。「私たちを旧水車小屋へ向かわせたいだけなのかもしれません。焦って動けば、判断を誤ります」
ロイドが低い声で続けた。「馬車の方はどうする」「そのままにしておいてください」レオは答えた。「動かせば、何か仕掛けがあった時に危険です。明るいうちに、離れた場所から確認するだけにしましょう」「灰色の外套の男は?」「今は追いません。追えば、こちらの人数が割かれます」ガレスが不満げに眉を寄せたが、口を挟むことはしなかった。今は、レオの判断に従う場面だと分かっていたからだ。
門の周囲に集まっていた自警団員たちが、それぞれの持ち場へ散っていく。レオはもう一度、林の方角へ目をやった。灰色の外套の人物がまだそこにいるのかどうかは分からない。だが、見られている、という感覚だけは拭えなかった。
「では、どう動く」ロイドが静かに問う。「まず街を落ち着かせます」レオは門から降りながら答えた。「住民が疑心暗鬼になれば、それこそ敵の思う壺です。次に、旧水車小屋を調べる。ただし、証拠として扱い、答えとしては扱いません」ロイドは短く頷き、団員たちへ次の指示を出し始めた。
門の階段を降りながら、レオはもう一度髪飾りへ目を落とした。ルナの髪に結んだのは、いつだったか。朝、支度を急がせながら、ミレイが娘の髪を手早く結い上げていた光景が、いやに鮮明に蘇る。あの朝は、何も変わったことのない、普通の一日のはずだった。それが今、こんな形で自分の手に戻ってくるとは思ってもいなかった。
「レオ様」リアムが声をかけた。「今は考え込む時ではありません。まず、街の中の状況を固めましょう」「分かっています」レオは短く答え、髪飾りを外套の内側へしまった。感情に流されて足を止めれば、それこそ相手の思う通りになる。頭では分かっていても、胸の奥に居座る重さは簡単には消えなかった。
◇ ◇ ◇
議会堂には、街の住民たちが集められていた。人いきれと不安げなざわめきが充満する中、レオは壇上へ立ち、自分が戻ったことを静かに告げた。偽の命令文が出回っていたこと。北門外に置かれた馬車。馬車へ仕掛けられていた糸。そして家族が連れ去られたこと。知っている事実だけを順序立てて説明し、分からないことは分からないと明言した。憶測を混ぜれば、それだけで街はまた別の混乱に落ちる。
「今後、私の名で命令が出されても、紙だけでは信じないでください」レオは住民たちを見渡しながら続けた。「必ずロイド団長か、自警団の責任者を通します。印章が押されていても同じです。私の印は盗まれました」
会場がざわめく。「では、何を信じればいいんだ」一人の男が声を上げた。レオは問いかけた男を見据えて答える。「一人の言葉だけで決めないでください。複数の者で確認する。命令を出した人物へ直接確かめる。急かされた時ほど、一度立ち止まる。敵は、皆さんが疑い合うことを望んでいます。だから誰も信じるな、という意味ではありません。確かめたうえで、信じてください」
別の女性が声を上げた。「あなたの家族はどうなるんです」レオは一拍置いてから答えた。「必ず取り戻します。ですが、それを理由に街の守りを緩めることはしません」その言葉に、会場は一瞬静まり返った。私情を優先しない、という宣言でもあった。
老齢の男が杖をつきながら立ち上がった。「以前にも似たようなことがあった。あの時も、混乱に乗じて盗みを働く者が出た」「今回も同じことが起きるかもしれません」レオは頷いた。「だからこそ、夜間の見回りを増やします。何か異変があれば、すぐに自警団へ知らせてください。一人で対処しようとしないでください」
会場の隅で、子供を抱いた母親が不安げにこちらを見ていた。レオはその視線に気づき、あえて視線を逸らさなかった。自分の家族のことだけでなく、この街に暮らす誰もが同じ不安を抱えている。それを忘れてはならない、と自分に言い聞かせる。住民たちは静かに耳を傾けていた。すべての疑いが消えたわけではない。それでも、先ほどまでの混乱は少しずつ収まり始めていた。壇上を降りたレオの背に、まだ落ち着かない視線がいくつも刺さっていたが、それでも街は最悪の事態を免れつつある。
議会堂を出ると、ガレスが腕を組んだ。「街の方は、ひとまずロイドに任せられる」「ああ」ロイドも頷く。「門は開けない。住民の出入りも止める。怪しい文書が出たら、すべて集める」「お願いします」
レオは地図を広げた。旧水車小屋はフェルトハイム北西、川沿いに建てられ、十年ほど前に使われなくなった場所だ。街から馬なら二十分ほどの距離だが、林を通るため周囲からは見えにくい。地図の上をなぞる指先が、わずかに震えている。それを見咎めるように、ガレスが肩を軽く叩いた。「震えるのは仕方ない。だが止まるな」
「敵の指定通り、レオ一人を向かわせるわけにはいかない」ガレスが言った。「もちろんです」「ですが、大勢で近づけば家族を別の場所へ移される可能性があります」「既に別の場所だろ」「その可能性が高いです」レオは髪飾りに付着していた石粉を思い出しながら答えた。「それでも、旧水車小屋には手掛かりがあります。少人数で調べましょう」
同行するのはレオ、ガレス、リアム、ヴィクターの四人。ロイドは街へ残り、自警団を指揮することになった。「二組の団員を、遠巻きに配置する」ロイドが提案する。「水車小屋には近づけないが、街へ戻る道と、川下の道を押さえさせる」「お願いします」
「ただし」ロイドはレオの肩を掴んだ。「家族を見つけても、一人で飛び出すな」「分かっています」「本当に分かっている顔じゃない」ガレスが横から言う。「その時は俺が殴ってでも止める」「できれば殴る前に止めてください」レオが答えると、張り詰めていた空気がわずかに和らいだ。リアムとヴィクターも装備を整えながら、それぞれ小さく頷いていた。
四人は北西の門ではなく、西側の小門から街を出た。敵に出発を見られる可能性を少しでも減らすためだ。馬も使わない。蹄の音は遠くまで響いてしまう。林へ入り、徒歩で旧水車小屋を目指した。
出発前、ヴィクターが小さく尋ねた。「本当に、旧水車小屋に着いてから決めるのですか。もし何もなかったら」「それでも構いません」レオは答えた。「何もなかった、という事実そのものが手掛かりになります。敵が何を隠したがっているかが、少しずつ見えてくるはずです」ガレスはその言葉を聞いて、わずかに口の端を上げた。「相変わらず、回りくどい考え方をする」「褒め言葉として受け取っておきます」
日はすでに傾いていた。木々の間へ差し込む光は薄く、足元には長い影が伸びている。落ち葉を踏む音だけが、四人の間に規則正しく響いた。時折、遠くで鳥が羽ばたく音がしたが、それ以外は不自然なほど静かだった。レオは歩きながら、何度も上着の内側の髪飾りへ手をやった。まだ何も終わっていない。だが、確実に一歩ずつ近づいている、という感覚だけが今の支えだった。
「誰かに見られています」しばらく進んだところで、ヴィクターが小さく言った。ガレスが周囲を見回す。「どこだ」「分かりません」「また声が聞こえるのか」「いいえ」ヴィクターは首を振った。「視線を感じるだけです。思い込みかもしれません」「それでも、伝えてくれて助かります」レオは立ち止まらずに答えた。異変を感じたら、どれほど些細でも話す。それが今の四人の約束であり、ヴィクターはその約束を律儀に守っている。
「右奥の木です」リアムが低く告げた。「枝が揺れました」風はほとんどない。だが右手の木だけ、上の枝がわずかに動いている。ガレスが剣へ手を掛けた。レオは首を振る。「追いません。監視役なら、私たちが気づいたと知らせるだけで十分です」「無視して進むのか」「こちらの目的は水車小屋です」追えば、相手に道を外れさせられる。これまで何度も繰り返された誘導に、もう乗るつもりはなかった。四人は歩調を変えず、林の奥へと進み続けた。誰も口を開かなかったが、それぞれの手は武器の柄からいつでも離れないようにしていた。
◇ ◇ ◇
川の音が聞こえ始めた。林を抜けた先に、古い水車小屋が見える。屋根は一部が崩れ、壁には蔦が絡みついていた。水車は止まったまま、川の流れだけが、その下を静かに通り過ぎていく。人の姿はない。夕闇が迫り、小屋の輪郭は少しずつ黒く沈んでいくところだった。
「煙もないな」ガレスが小屋を見つめた。「最近使われたようには見えません」リアムは地面へ膝をついて言う。「ですが、足跡があります」
小屋へ向かう足跡が複数残っていた。大人のもの、子供のもの、そして戻る足跡。「ミレイたちは、ここまで来ています」レオは小さな足跡を見つめた。ルナ。ソラはまだ自分で長く歩けない。大人が抱いていたのか、幼い足跡は見当たらなかった。土のくぼみ一つひとつが、その場にいた人数と重さを物語っているようだった。
膝をついたまま、リアムは足跡の深さを何度も確かめていた。「ルナさんの足跡は、ここで止まっています。おそらく誰かに抱き上げられたのでしょう」「急いでいた形跡は?」レオが尋ねる。「ありません。歩幅は乱れていない」つまり、無理やり引きずられたわけではなく、比較的落ち着いた状態で連れて行かれたということになる。わずかながら、それは救いだった。
「護衛の団員二人と、ミレイさん」リアムが数える。「少なくとも三人の大人が小屋へ入っています」「戻った足跡は?」「増えています。六人か七人」待ち伏せしていた者がいたのだ。ミレイたちは小屋へ入り、そこで捕らえられた。「血は?」レオが尋ねる。「見当たりません。激しく争った跡もない」少なくとも、この場所で誰かが重傷を負った可能性は低かった。その事実だけが、今のレオの支えだった。
「護衛の二人は、どうなったと思う」ヴィクターが尋ねた。誰も、すぐには答えなかった。連れ去られた形跡はあるが、抵抗の跡がないということは、多勢に囲まれ、最初から為す術がなかったということでもある。「今は考えても仕方ありません」レオは静かに言った。「先へ進みましょう」その声には、無理に感情を抑え込んでいるような硬さがあった。
小屋を囲む草むらにも、踏み荒らされた跡が残っていた。ガレスがその周辺を一周し、周囲に潜んでいる者がいないか確かめる。「今は誰もいない」戻ってきたガレスが言った。「少なくとも、この場に留まってはいない」
「私が先に入ります」ガレスが扉の横へ立ち、剣を抜いてレオたちへ合図した。扉は閉じていたが、鍵は掛かっていない。ガレスが一気に押し開ける。蝶番が軋み、乾いた音が小屋の中に響いた。
一瞬、誰も動かなかった。中から何かが飛び出してくるのではないか、という緊張が四人の間に走る。だが、聞こえてくるのは川のせせらぎと、埃が舞う微かな音だけだった。ガレスが剣を構えたまま、ゆっくりと一歩踏み出す。「入るぞ」その声を合図に、残る三人も後に続いた。
内部は薄暗かった。壊れた粉挽き台、積まれた古い袋、床へ散らばった木片。人はいない。「右、異常なし」ヴィクターが壁際を確認する。「奥もいません」リアムが窓の裏を見た。埃が舞い、差し込む夕陽の筋がその中を漂っていた。
レオの視線が中央の椅子で止まった。椅子には、ミレイの上着が掛けられている。「ミレイ……」近づこうとしたレオを、ガレスが腕で止めた。「待て」上着の袖から細い糸が伸び、床板の隙間へ続いていた。「罠です」リアムが屈み込む。「上着を取れば、糸が引かれます」「何が起こる」「確認します」
糸の先を追うと、床下、壊れた石臼の陰に、小さな油壺と火打ち金を使った仕掛けが組まれていた。「火をつける仕掛けです」「小屋ごと燃やすつもりか」ガレスが舌打ちする。「上着を見て、レオ様が飛びつくと考えたのでしょう」リアムは慎重に糸を切り、油壺を外して火打ち金から離した。「解除しました」その手つきに迷いはなく、レオは改めてリアムの落ち着きに助けられていることを実感した。
レオはようやく上着を手に取った。まだ、かすかにミレイの匂いが残っている。袖口に汚れはあるが、血は付いていない。それだけで、胸の奥がわずかに緩んだ。「自分で脱いだのでしょうか」ヴィクターが尋ねる。「違います」レオは襟元を見た。留め具が乱暴に外され、片方が千切れている。「引き剥がされています」
上着の裾には、細かい擦り傷のような汚れも見えた。誰かに掴まれ、引っ張られながら脱がされたのだろう。ミレイが抵抗した痕跡だとすれば、それは同時に、まだ動ける状態で連れて行かれたことを意味する。レオはそのわずかな希望にすがるように、上着をきつく握った。
「ここに残されていたのは偶然でしょうか」ガレスが尋ねる。「分かりません」レオは首を振った。「ですが、あえて目立つ場所に置いたようにも見えます。誰かに見つけさせるために」「罠と同じ理屈か」「ええ。見つけた者が動揺し、確認を怠るよう仕向けている」だからこそ、慎重に調べる必要があった。
上着の内側に、何か硬いものが触れた。小さな木片だ。表には子供の字で線が引かれている。円。その横に三本の縦線。「ルナの字です」レオは木片を握った。指先が、わずかに震える。「絵でしょうか」リアムが覗き込む。「円は水車?」「違うと思います」レオは娘が普段描くものを思い返した。ルナは文字を覚え始めたばかりで、言葉で伝えられない時、簡単な絵を使う。「これは井戸です。家の近くの井戸を描く時も、上から見た丸で描いていました」「三本の線は?」「分かりません」
木片の角は丸みを帯び、何度も指でこすられたような跡があった。おそらく、握りしめながら描いたのだろう。震える手で、それでも精一杯に何かを伝えようとした跡が見える。レオはしばらくその木片から目を離せなかった。「怖かったはずです」ヴィクターが静かに言う。「それでも、諦めなかった証拠でもあります」その言葉に、レオは小さく頷いた。
ガレスが小屋を見回す。「井戸が三つある場所か」「フェルトハイム周辺に、そんな場所は?」ヴィクターが尋ねた。レオは記憶を辿る。旧水車小屋、北西、採石場はない、だが石粉が付着していた。井戸、三本の線。頭の中で、離れた事実がひとつずつ繋がっていく感覚があった。
「石工区です」突然、リアムが言った。「街の南に、廃止された石工の作業場があります。そこには石を切るための縦溝が三本あり、井戸も一つ残っていると、街の古い地図に記されていました」「しかし、髪飾りを持っていた人物は北門の外から現れた」ガレスが言う。「南の石工区とは逆だぞ」「だからこそです」レオは答えた。「私たちを北西へ誘い、家族は反対側へ運ぶ。探す者が水車小屋へ向かっている間に、南から移動させるつもりだった」「ルナがそれを見て、手掛かりを残した?」「おそらく」幼い娘が、どこまで状況を理解していたかは分からない。だが、父親なら自分の絵を理解してくれると信じたのかもしれなかった。
「石工区の地図は、どこにある」ガレスが尋ねる。「監察局の書庫です」リアムが答えた。「古い区画整理の記録に含まれています。今からでは取りに戻る時間がありません」「記憶にある分で構いません」レオが言う。「井戸の場所と、周囲の建物の配置を教えてください」リアムは地面へ簡単な図を描きながら説明を始めた。廃業した石工の作業小屋、崩れた資材置き場、そして中央に残る井戸。三本の縦溝は、井戸を囲むように配置されているという。ルナの絵とほぼ一致していた。
◇ ◇ ◇
「まだ決めつけるな」ガレスが言った。「敵が木片を入れた可能性もある」「分かっています」レオは小屋の床を調べ始めた。木片だけで動いてはいけない。別の証拠が必要だった。
リアムが奥の扉を開くと、裏手へ続く出入口だった。その外には、荷車の跡が残っている。「ここから連れ出されています」車輪の跡は川沿いを南へ向かっていた。「南です」ヴィクターが言う。「ルナの木片と一致します」さらに荷車の跡のそばへ、灰色の石粉が落ちていた。髪飾りに付着していたものと同じだ。「石工区で間違いない可能性が高い」ガレスが剣を鞘へ戻す。「急ぐぞ」
「待ってください」リアムが小屋の柱へ近づいた。刃物で文字が刻まれている。新しい傷だった。木くずがまだ根元に散っており、刻まれてから時間が経っていないことが分かる。
一人で来い。
その下に、もう一文。
娘の印を信じるな。
レオは木片を握り締めた。敵は、ルナが手掛かりを残したことに気づいている。あるいは最初から、木片まで含めて用意した罠なのか。「どちらを信じる」ヴィクターが小さく呟いた。ルナの残したと思われる印。それを信じるなという敵の言葉。また同じだ。判断そのものを迷わせようとしている。二つの言葉のどちらを選んでも、選ばされたことに変わりはない。
ガレスが柱の傷を指でなぞった。「刻んだのは誰だ。灰色の男か、それとも別の誰かか」「分かりません」リアムが答える。「ただ、筆跡ならぬ刻み跡には迷いがない。手慣れた者の仕業に見えます」「つまり、こちらの動きを読んだ上で、わざわざ書き残していったということか」「そう考えるのが自然です」レオは柱から視線を外さないまま、静かに息を吐いた。相手は、こちらが証拠を重ねて判断することまで見越しているのかもしれない。それでも、他に頼れる方法はなかった。
レオは柱の文字をしばらく見つめた後、小刀を抜いた。そして「一人で来い」という言葉の上へ、大きく一本の線を刻んだ。「敵の問いには答えません。石工区へ向かいます。全員で」「罠だった場合は?」ガレスが尋ねる。「罠であることを前提に動きます」レオはミレイの上着を外套の内側へ収めた。「ルナの木片だけを信じるわけではありません。荷車の跡、石粉、南へ向かった痕跡。複数の証拠が、同じ場所を示しています」
「一人で行けというなら、なおさら全員で行くべきだな」ガレスが刻んだ線を見て、ふっと笑った。「その通りです」レオは頷いた。「私一人が向かえば、確認できることも半分以下になります。誰かが見落としを拾ってくれる。それだけで判断の精度は変わります」「監察官らしい理屈だ」「そう言われるのは、二度目です」わずかな軽口が交わされたことで、張り詰めた空気が少しだけ緩んだ。
リアムが頷いた。「それなら、監察局の原則にも反しません。一つの証拠で結論を出さない」ヴィクターも小さく頷き、緊張の残る顔つきのまま外へ向かう準備を始めた。
「一つ確認しておきたい」ガレスがレオへ向き直った。「石工区に着いて、また別の誘導があったらどうする」「その時も、同じことをします」レオは答えた。「一つの証拠、一つの言葉だけで動かない。複数の裏付けが揃うまで、足を止めて確かめる。急かされるほど、それが罠である可能性が高くなります」「言うのは簡単だがな」「分かっています。だからこそ、皆で確認し合いましょう。私一人の判断に頼らないでください」
リアムが小さく笑った。「監察官らしい言葉ですね」「らしく在りたいと思っています。こんな時だからこそ」その言葉に、張り詰めていた四人の空気が、わずかに柔らかくなった。
レオは小屋の外へ出た。空はすでに暗くなり始めている。南へ続く車輪の跡は、林の奥へ伸びていた。夜の気配が近づく中、川の水音だけがいつまでも変わらず響いていた。
「必ず追いつきます」レオは誰に言うでもなく呟いた。木片を残したルナへ。連れ去られたミレイへ。そして、まだ幼いソラへ。「今度は、敵に選ばされた道ではありません。私たちが見つけた道です」
ガレスが一歩前へ出た。「なら、迷っている暇はないな」「はい」「ヴィクター、周囲の気配に気をつけろ」「分かっています」「リアム、足跡と痕跡を見落とすな」「承知しました」それぞれが短く応じ、装備を確かめ直す。
四人は車輪の跡を追い、南の石工区へ向かって走り出した。夕闇の中、足音だけが林に響き、やがてそれも川の音に紛れて聞こえなくなっていった。フェルトハイムの空に、最初の星が瞬き始めていた。「」




