第206話 偽物の命令
広場で見つかった紙には、レオの名が記されていた。署名だけではない。フェルトハイムで暮らしていた頃、レオが連絡文書へ使っていた個人印まで押されている。命令の内容は短かった。
**本日夜半、フェルトハイムを放棄する。**
**住民は北門から退去せよ。**
レオは紙を握ったまま、しばらく動かなかった。指先が紙の端をわずかに折り曲げていることに、自分でも気づかないほどだった。印影の位置、墨の濃さ、文字の間隔――どれもが記憶にある通りで、だからこそ気味が悪かった。本物を知っている者ほど、偽物の完成度に足元をすくわれる。
「この印は本物ですか」
リアムが尋ねる。
「形は同じです」レオは印影を陽に透かすようにして答えた。「ですが、私の印章は家に保管してありました。王都へ向かう際、持ち出す必要がなかったため、机の鍵付きの引き出しへ残していたのです」
誰かが家へ入り、印を盗んだ。あるいは型を取った。どちらにしても、悪意はずっと前から、この街の中に静かに潜んでいたことになる。自分たちが気づかないうちに、日常のすぐ隣を誰かが歩いていた――その事実だけで、背筋の冷たさが増した。
「まず家へ行きます」レオは紙を畳んだ。「ミレイへ届いた手紙と、印章を確認する」
ロイドが頷く。
「分かった。俺も行く」
広場を横切る間、住民たちの視線がレオへ集まった。安堵の表情を見せる者もいれば、窓の陰から疑うように見つめる者もいる。子供を抱えたまま動けずにいる母親、荷車の陰に隠れるようにこちらを窺う老人。「あれが本物なのか」「王を裏切ったって話は」「昨日、南通りで見た人とは顔が違うぞ」――そんな囁きが、途切れることなく耳へ届いた。レオは足を止めなかった。ここで一人ずつ弁解しても意味はない。噂へ感情的に反論すれば、敵が用意した混乱を広げるだけだ。むしろ立ち止まって言い訳を重ねるほど、疑いは深くなる。分かっていても、視線の一つひとつが刃のように刺さった。
「昨日、私を見たという人がいるのですか」ロイドへ小声で尋ねる。
「ああ。だが顔を見た者はいない。外套の頭巾を深く被り、お前の使者だと名乗ったらしい」
「本人ではなく使者?」
「最初はな」ロイドの顔が険しくなる。「だが夜になってから、『自分がレオだ』と名乗る男が現れたという話が出始めた。広場、南門、商業区――同じ時間に別々の場所で目撃されたという話まである」
「一人ではありません」リアムが静かに言う。「複数の人物が、レオ様の名を使って動いています」
「顔を見せなくても、噂だけなら広げられる」ヴィクターが呟いた。「誰かが見たと言えば、別の者も自分が見た気になる。人の記憶は、思っているより脆いものです」
それは白鴉計画が用いる手法そのものだった。証拠を作る。証言を重ねる。誰も全体を確認できないうちに、偽りを事実へ変えていく。歩きながら、レオはその冷たい仕組みを改めて思い知らされた。かつて監察局の内側で見てきた手口が、今度はこの小さな街を丸ごと呑み込もうとしている。
広場の端では、露店の主人が商品を片付け始めていた。荷馬車に積む手が震えている。数日前まで、レオが立ち寄れば気安く声をかけてきた男だった。今は目を合わせようとしない。信頼は積み上げるのに何年もかかるのに、崩れるのは一晩で十分なのだと、レオは改めて思い知らされた。
「街の空気が変わっています」ヴィクターが低く言う。「疑いは、事実よりも早く広がる」
「分かっています」
レオは答えながら、拳を握った。今この瞬間にも、噂は誰かの口から別の誰かの耳へと渡っていく。止める術はない。だからこそ、噂よりも確かな何かを、住民の前に示す必要があった。
◇ ◇ ◇
家の前には、自警団員が二人立っていた。扉や窓に壊された跡はない。中へ入ると、昨日まで家族が暮らしていた気配がそのまま残っていた。テーブルには途中まで縫われた布。椅子の背にはミレイの上着。棚の隅には、ルナが遊んでいた木彫りの馬。ソラの小さな靴が、玄関に揃えて置かれている。竈にはまだ薪の灰が残り、水瓶の水面には埃ひとつ浮いていなかった。ほんの数刻前まで、確かにここに暮らしがあったのだ。レオは一瞬だけ立ち尽くした。家族は、すぐに戻るつもりで出ていったのだ。だからこそ、何も持たずに消えた。
「手紙は机の上だ」ロイドが言った。折り畳まれた紙が置かれている。レオは布越しに開いた。そこには、レオが負傷し、敵に捕らえられたと書かれていた。助けを求める短い文章。そして最後に、森の花畑についての記述があった。
**帰ったら、四人であの花畑へ行こう。**
**その約束を果たす前に、どうか私を助けてほしい。**
筆跡まで、レオのものに似せてある。だが完全ではない。
「私の字ではありません」
「違いが分かるのですか」ヴィクターが尋ねた。
「この文字です」レオは文中の一字を指した。「私はこの部分を、いつも続けて書く。ですが、この手紙では一度筆を離しています」
些細な差だった。長年一緒に暮らしてきたミレイなら、不自然さへ気づいたかもしれない。それでも、二人だけの約束が書かれていたため、判断が揺らいだのだろう。花畑の約束は、誰にも話したことのない、家族だけの記憶のはずだった。それを知っている者がいる――その一点が、レオの胸をひときわ重くした。
「この手紙を届けた者は?」リアムが尋ねる。
「見ていない」ロイドが答えた。「朝、戸口に置かれていたそうだ」
レオは机の鍵付きの引き出しへ向かった。鍵穴に壊された跡はない。自分の鍵を差し込み、開ける。中は空だった。
「印章がありません」
「鍵を使って開けた?」ガレスが引き出しを調べる。「無理にこじ開けた跡はないな」
「合鍵か」
「あるいは、以前から鍵の型を取られていた」リアムは机の下や周囲を確認する。「ほかに失われたものはありますか」
レオは引き出しの中を思い返した。印章。古い手紙。家計の記録。
「私が以前使っていた便箋もありません」
「筆跡を真似るためですね」
「おそらく」
敵は、今回のために突然家へ忍び込んだのではない。レオが王都へ向かうより前から、家の中を調べていた可能性がある。その事実は、これまでの疑いよりもずっと重く感じられた。自分たちが気づかぬうちに、日常の一部として敵の準備が進んでいた。花畑の話も、便箋の癖も、すべて時間をかけて集められたものだ。
「この家へ自由に入れた者は?」ガレスが尋ねる。
「家族と私だけです」レオは答えた後、少し考える。「ただし、ミレイが留守の時に近所の者が子供たちを迎えに来ることはありました。修繕職人や商人が入ったこともあります」
「数か月前まで遡れば、候補は多い」リアムが言う。「家へ侵入した人物と、ミレイさんを連れ去った人物が同じとも限りません。白鴉計画を引き継いだ者たちは、役割を分けています。情報を集める者、文書を偽造する者、噂を広げる者、実際に連れ去る者」
ヴィクターは自分の記憶を探るように目を閉じた。「私へ繰り返し問いかけたオーウェンも、一人で全てを行っていたわけではないはずです。あの男は常に、誰かへ指示を仰いでいる素振りを見せていました」
「気づいたことがありますか」レオが尋ねる。
「この紙の匂いです」ヴィクターはミレイへ届いた手紙を見た。「王宮で嗅いだことがあります」
ガレスの目が鋭くなる。「どこでだ」
「文書の保存に使う油です。湿気や虫から紙を守るため、保管庫で薄く塗ることがある」
リアムが紙を鼻へ近づける。「確かに、わずかに香りがあります」
「王都から運ばれた紙でしょうか」
「断定はできません」ヴィクターは首を振る。「同じ油を使う場所が、フェルトハイムにもあるかもしれない」
「調べる価値はあります」リアムが手紙を保管袋へ入れた。
「もう一つ、確認したいことがあります」ガレスが口を開いた。「敵がここまで用意周到だとすれば、家の外にも見張りを置いていた可能性がある」
「窓から見える範囲は?」レオが尋ねる。
「表通りと、裏の路地」ロイドが答えた。「裏には空き家が一軒ある。誰かが潜むには都合がいい場所だ」
「調べましょう」
一行は裏口から外へ出た。空き家は、以前は老夫婦が暮らしていたが、今は誰も住んでいない。扉には錆びた鍵がかかっていたが、よく見ると、その錆の一部が新しく擦れていた。
「最近、誰かが開けています」リアムが鍵穴を指で撫でる。
中へ入ると、埃の積もった床の一部だけが、人の出入りによって擦れていた。窓際には、外を見張るのにちょうどいい高さの木箱が置かれている。
「ここから家を見張っていたようです」リアムが窓の外を確認した。「レオ様の家の玄関がよく見えます」
「いつからだ」ガレスが唸る。
「分かりません。ですが、少なくとも数日は使われていたはずです」
床の隅には、パンの欠片と、水を飲んだ跡のある水筒が残されていた。誰かがここで、長い時間を過ごしながら、家族の暮らしを観察していたのだ。レオはその事実に、言葉にならない不快感を覚えた。自分たちの日常のすぐ隣で、見えない視線がずっと注がれていた。
「この空き家についても調べます」ロイドが言った。「持ち主の記録と、最近この辺りを歩いていた者の証言を集めよう」
「お願いします」
部屋を出る前に、レオはもう一度だけ室内を見渡した。縫いかけの布、脱ぎ捨てられた上着、木彫りの馬、揃えられた靴。ここには確かに家族の時間が積み重なっていた。それを土足で踏みにじった者への怒りが、腹の底で静かに燃えていた。だが今は、それを表に出す時ではない。感情は、後で使うために取っておく。今はただ、事実を積み上げることだけを考えなければならなかった。
「行きましょう」レオは静かに言った。「まだやるべきことがあります」
外へ出ると、通りに面した窓から近所の住人が様子を窺っているのが見えた。目が合うと、慌てて視線を逸らす。かつては挨拶を交わし合った顔だった。信頼が揺らいでいるのは、住民たちも同じなのだと、レオは改めて感じた。彼らを責めることはできない。噂だけで判断せざるを得ない状況を作ったのは、他でもない敵だからだ。
◇ ◇ ◇
家を出ると、広場の方角から鐘が鳴った。三度、短く。自警団の招集を知らせる鐘だった。一人の団員が駆けてくる。
「団長! 北門で騒ぎです!」
「何があった」ロイドの顔が引き締まる。
「住民が集まっています。夜半まで待てない、今すぐ街を出ると言って!」
「偽の命令を信じたのか」
「それだけではありません」団員は息を整えた。「北門の外に、避難用の馬車が用意されています」
「誰が用意した」
「分かりません!」
レオたちは顔を見合わせた。偽の命令文、北門からの退去、そして外に準備された馬車――一つひとつは断片でも、繋げれば意図は明らかだった。誰かがこの数日、緻密な計画のもとに全てを組み立ててきた。噂を撒き、文書を偽造し、馬車を用意する。その一つひとつに時間と手間がかかる。それを惜しまなかったということは、敵にとってこの一手が、それだけの価値を持つということだ。
「住民を街の外へ誘い出すつもりです」リアムが言った。「行き先は、おそらく敵が指定した場所」
「門を開けるな」ロイドが団員へ命じる。「誰が何を言ってもだ!」
「はい!」団員は走り去った。
「私も北門へ行きます」レオが言う。だがガレスが腕を掴んだ。
「お前が出れば、偽物だと言われる可能性がある」
「それでも、住民を止めなければ」
「止め方を考えろ」
感情のまま姿を見せて、自分が本物だと叫ぶ。それでは、二人のレオが住民へ異なる命令を出す構図になる。敵が望んでいる通りだ。混乱の中心に自ら飛び込めば、それこそが敵の描いた絵の一部になってしまう。
「ロイド団長」レオは決断した。「住民を議会堂へ集めてください。北門へ集まっている者だけでなく、街全体へ知らせる」
「何をするつもりだ」
「公開で確認します。私が本物かどうかを、街の人々自身に判断してもらいます」
「どうやって」
「私しか答えられない質問をしてもらう」
ロイドは眉をひそめた。「敵が知っている可能性もあるぞ」
「一つの答えだけでは足りません」レオは言った。「住民一人ひとりに、私との出来事を尋ねてもらう。仕事のこと、暮らしのこと、失敗したこと。敵が全てを調べていても、街中の人間との細かな記憶まで同時に答えることはできません」
リアムも頷いた。「さらに、偽の命令が危険だという証拠を示します。北門の外の馬車を、住民から見える場所で調べる。罠があれば、その場で明らかになります」
「分かった」ロイドはすぐに動いた。「議会堂を開ける! 全住民へ知らせろ!」
団員が散っていく足音を聞きながら、レオは深く息を吸った。公開の場で自分の正体を証明するという行為は、もし失敗すれば取り返しのつかない結果を招く。一つでも答えに詰まれば、住民の疑いはむしろ確信へと変わるだろう。それでも、隠れて事態が収まるのを待つよりは、正面から向き合う方がまだ道が開ける。レオはそう信じるしかなかった。
「怖くないのか」ガレスが横から尋ねる。
「怖いです」レオは正直に答えた。「ですが、今ここで動かなければ、ミレイたちを取り戻す前に街そのものを失います」
ガレスは何も言わず、ただ肩を軽く叩いた。それだけで、十分だった。
◇ ◇ ◇
北門へ着くと、数十人の住民が門前へ集まっていた。荷物を抱えた者、子供の手を引く者、不安げに自警団へ詰め寄る者。「命令には夜半と書いてある!」「今のうちに出た方が安全だ!」「王都から軍が来るという噂もある!」――混乱は既に広がっていた。人いきれと荷馬車の軋む音、子供の泣き声までが入り混じり、門の周りだけ夜が近づいたように空気が張り詰めていた。
レオが近づくと、一人の男が叫んだ。「誰だ! 本物のレオ様なのか!」別の女性が言う。「昨日もレオ様を見たって人がいるわ!」
「顔を見たのですか」レオは落ち着いて尋ねた。
「それは……見ていないけど」
「声を聞いた者は?」
誰も手を上げない。
「直接、私から命令を受けた者はいますか」
沈黙。全員が、誰かから聞いた話を信じていた。噂は幾重にも重なり、誰が最初に言い出したのかさえ分からなくなっていた。
「私は、すぐに信じてほしいとは言いません」レオは住民たちを見渡した。「ですが、門を開ける前に確認してください。この外に用意された馬車を、誰が持ってきたのか。どこへ向かうのか。御者は誰なのか。命令書には、何一つ書かれていません」
群衆の中から、老齢の女性がゆっくりと進み出た。杖をつき、足取りは頼りないが、目だけは鋭くレオを見据えている。
「レオ様、一つ聞かせてください」
「何でしょうか」
「三年前、私の家の屋根が壊れた時、あなたは何をしてくれましたか」
レオは記憶を辿った。「屋根板が三枚、風で剥がれたのでしたね。修繕職人が忙しい時期で、順番を待てないとおっしゃっていた。私が代わりに近くの森から木を切り出し、応急の板を打ちました。仕上がりは決して上手くはなかったはずです」
老女の目が、わずかに緩んだ。「不格好な板でしたよ。でも、雨は防げました」
その一言で、周囲のざわめきが少しだけ静まった。誰か一人が確かめただけでは足りない。それでも、積み重ねは確実に空気を変えていく。
別の男が進み出て、去年の収穫祭で起きた小さな失敗を尋ねた。レオはそれにも正確に答えた。恥ずかしい記憶ほど、他人に話せるものではない。だからこそ、それを正確に語れることが、何よりの証明になった。
ロイドが見張り台へ合図した。門の上から外を確認していた団員が声を上げる。「馬車は五台! 御者はいません! 馬だけが繋がれています!」
「積み荷は!」
「確認できません!」
レオは住民たちへ向き直った。「誰もいない馬車で、どこへ逃げるつもりですか。敵が馬車へ仕掛けをしている可能性があります。門を開けず、外から縄を掛けて一台だけ引き寄せます。皆さんの前で中を調べます」
ガレスと自警団員たちが、門の上から縄を投げた。車輪へ引っ掛け、人力で一台を門の近くまで寄せる。重い車輪が石畳の上で軋み、住民たちは息を詰めてそれを見守った。荷台を覆う布を、長い棒で外した。中には木箱が積まれている。
リアムが見張り台から目を凝らす。「箱の蓋に線があります」
「何の線だ」
「細い糸が、車輪の内側へ続いています」
ガレスの顔色が変わる。「動かせば作動する仕掛けだ」
「火薬か?」
「分かりません。ですが、安全な馬車ではありません」
住民たちから悲鳴が上がった。もし命令に従い、門を開け、馬車を動かしていれば――何が起きていたか分からない。数十人が一斉にその可能性を思い浮かべ、広場は静まり返った。
「議会堂へ移動してください!」ロイドが叫ぶ。「荷物は家へ戻せ! 門は絶対に開けるな!」
今度は、住民たちも逆らわなかった。ついさっきまで自分たちを急き立てていた恐怖が、今は別の恐怖に置き換わっていた。誰かが背中を押していたのだと気づいた瞬間、人々の足取りは自然と門から遠ざかっていった。
人々が離れ始めた時、北門の外から、拍手が聞こえた。ゆっくりと、一定の間隔で。全員が門の外へ視線を向ける。街道脇の林から、一人の人物が現れた。灰色の外套。深く被った頭巾。顔は見えない。
「見事です」男とも女とも判別しにくい声だった。
ロイドが弓兵へ合図する。「止まれ!」矢が一斉に向けられる。人物は両手を上げた。
「争うつもりはありません」
「なら名を名乗れ!」
「名には意味がない」
その言葉に、レオの表情が硬くなる。監察局や白鴉計画に関わる者たちが、何度も使ってきた考え方だった。名を捨てることで、責任も捨てる。顔を隠すことで、罪も隠す。
「ミレイたちはどこです」レオが問う。
灰色の人物は、わずかに首を傾けた。「無事です。今のところは」
「どこにいる」ガレスが怒鳴る。
「答える必要はありません」人物はレオだけを見ていた。「レオン王子。家族を取り戻したければ、一人で来てください」
「場所は?」
「旧水車小屋に、次の指示を残してあります」
「また罠か」ガレスが低く唸る。
「もちろん罠です」灰色の人物は、あっさり認めた。「それでも、彼は来る。家族を見捨てられないから」
「あなたたちの計画には従いません」レオは静かに答えた。「一人でも行かない。家族も見捨てない。別の方法で見つけます」
人物はしばらく黙っていた。周囲の自警団員たちは弓を構えたまま、息を潜めてその沈黙を見守っていた。風が林の梢を揺らし、遠くで馬のいななきが聞こえる。誰も動かない、張り詰めた時間だった。やがて、小さく笑う。
「そう答えると思っていました」
外套の内側から何かを取り出す。小さな赤い髪飾り。ルナが普段身につけているものだった。レオの顔色が変わる。指先が、無意識のうちに強く握られていた。
「これでも、来ませんか」
人物は髪飾りを地面へ置いた。そして林へ一歩下がる。
「待て!」ガレスの合図で矢が放たれた。だが灰色の人物は木の陰へ身を滑らせる。矢は外套の端を裂いただけだった。自警団員たちが門の内側で動揺する。
「追いますか」ロイドが尋ねる。
レオは林と、地面に置かれた髪飾りを見つめた。追えば門を開く必要がある。外には仕掛けられた馬車。さらに伏兵がいる可能性も高い。感情に従えば、今すぐにでも門を飛び出して林へ駆け込みたかった。だがそれこそが、敵の描いた筋書きなのだと分かっていた。
「追いません」悔しさを押し殺し、答える。「まず街を守る。そのうえで旧水車小屋を調べます」
ガレスがレオを見る。「一人で行くつもりじゃないだろうな」
「行きません。敵の言う通りには動かない」
レオは門の外に落ちた髪飾りを見つめた。ルナは生きている。少なくとも、この髪飾りが奪われた時までは。それだけが、今の自分にとって唯一の確かな支えだった。
「必ず見つけます」声は静かだった。だが、そこに迷いはなかった。
「ミレイも。ルナも。ソラも。全員、私たちのやり方で取り戻します」
周囲の自警団員たちが、その言葉に静かに頷いた。誰も口には出さなかったが、レオの声には、これまでの動揺を打ち消すだけの強さがあった。
髪飾りは、ガレスの手によって丁寧に拾い上げられた。土がわずかについているだけで、傷んだ様子はない。それは同時に、敵がまだルナを乱暴には扱っていないことの証でもあった。わずかな救いだったが、レオはその小さな事実にすがるように受け止めた。
「旧水車小屋の周辺は、私が調べます」リアムが申し出た。「罠があるなら、遠目から確認するだけでも意味があります」
「私も同行する」ガレスが続く。「一人では行かせない」
ヴィクターは黙って頷いた。王宮での経験から、罠の仕掛け方には多少の心当たりがあるという。その知識が、今度は敵を出し抜くために使われることになる。
「無理はしないでください」レオは三人へ声をかけた。「今日だけで、敵がどれほど周到かは十分に分かりました。旧水車小屋にも、同じ以上の仕掛けがあると考えるべきです」
「承知している」ガレスが短く答えた。「命を粗末にするつもりはない」
リアムは既に頭の中で経路を組み立てているようだった。「小屋の周囲に潜む場所は限られています。北側の岩場からなら、正面を晒さずに近づけるはずです」
「頼みます」
三人が北門を離れていくのを見送りながら、レオは自分の無力さを噛み締めた。本来なら自分が先頭に立って向かうべき場所だ。それができないもどかしさを、今は堪えるしかなかった。
空は既に赤く染まりかけていた。夜が来るまでに、まだやるべきことは多い。だがレオの胸の中には、先ほどまでの重苦しさとは違う、静かな決意だけが残っていた。噂に振り回されるのではなく、事実を一つずつ積み上げていく。それが、家族を取り戻すための、遠回りに見えて最も確かな道だった。
北門に差し込む夕日を背に、レオは踵を返した。議会堂へ向かう住民たちの列の先頭に立ち、まだ見ぬ夜へと足を踏み出す。




