第205話 先回りされた街
王都を発ったレオたちは、昼夜を問わず街道を西へ走り続けていた。
馬の蹄が土を打つ音だけが、暗い街道に規則正しく響いている。息を切らす馬の白い呼気が、夜の冷気の中に尾を引いて消えていった。
先頭を行くガレスの後ろを、レオ、リアム、ヴィクターが続く。四騎の影は、月明かりの下で一つの生き物のように連なっていた。
誰も無駄な言葉は交わさない。交わす余裕がなかった、というほうが正しい。
フェルトハイムは無事なのか。
ミレイたちは安全なのか。
そのことだけが、全員の頭を占めていた。考えれば考えるほど、悪い想像ばかりが浮かんでは消えていく。レオは何度もそれを振り払い、手綱を握り直した。
「次の宿場まであと半刻だ!」
ガレスが振り返らずに叫ぶ。声は風に流されて、後方の三人にはかろうじて届く程度だった。
「そこで馬を替えます!」
レオは短く答え、さらに馬腹を蹴った。馬は苦しげに嘶いたが、それでも速度を落とさなかった。
◇ ◇ ◇
宿場町に着いたのは、空がわずかに白み始めた頃だった。
王家の伝令によって、あらかじめ交代用の馬が準備されている。だが、汗だくの馬から乗り換えようとしたそのとき、レオたちは思わぬ話を耳にする。
「フェルトハイム方面から誰も来ていません」
宿場の管理人が、困惑した様子で首を振った。
「商隊も旅人も、今朝から一組も通っていないんです。こんなことは今までなかった」
「街道が止められている……」
リアムが小さく呟いた。その声には、単なる推測以上の緊張が滲んでいた。
レオは地図を広げる。指先が、フェルトハイムから王都へと続く一本の線をなぞった。
街道は一本しかない場所ではない。迂回路もあれば、間道もある。それでも商隊まで一組も来ないというのは、明らかに異常だった。何者かが、意図的に人の流れを断ち切っている。
「急ぎます」
レオは地図を畳み、新しい馬へと乗り換えた。手綱を握る手に、自然と力がこもる。
一行は再び街道へ飛び出した。
しばらく進むと、一台の荷馬車が道端で横転しているのが見えた。車輪が虚しく宙で回り、積み荷は辺り一面に散乱している。だが、よく見ると荷物はほとんど残ったままだった。
「略奪じゃない」
馬を降りたガレスが、油断なく辺りを見回しながら呟く。
「人だけが消えている」
リアムはすぐに荷馬車の周囲へしゃがみ込み、地面を丹念に調べ始めた。乾いた土の上に、いくつもの足跡が重なっている。
「複数人の足跡があります」
「街道から森へ向かっています」
視線の先、道端の岩に、白い石灰で描かれた矢印があった。粗雑だが、はっきりと森の方角を指し示している。まるで、そちらへ誘うかのように。
「避難誘導でしょうか」
ヴィクターが眉を寄せて尋ねた。
レオは首を振る。
「分かりません」
「ですが、簡単には信用できません」
リアムは足跡をさらに詳しく確認しながら、静かな声で続けた。
「大人だけではありません。子供の足跡もあります」
「住民が誘導された可能性があります」
その言葉に、全員の間に重い沈黙が落ちた。もしこれが罠だとすれば、住民たちは今この瞬間も危険の中にいるかもしれない。だが、それを確かめる術は今の自分たちにはなかった。
レオは少しの間、目を閉じて考えた。焦る気持ちを抑え込み、頭の中で状況を整理する。
やがて、静かに口を開いた。
「宿場へ知らせましょう。自警団を森へ向かわせます」
「私たちはフェルトハイムへ急ぎます」
今ここで森へ入れば、大きく時間を失う。人数も限られている中で、二手に分かれる余裕はない。
敵が望んでいるのは、きっとその判断だ――レオはそう直感していた。自分たちの足を止め、迷わせ、時間を稼ぐこと。それこそが、この矢印の狙いなのかもしれない。
◇ ◇ ◇
さらに街道を進む。
太陽が高く昇り、やがて西へ傾き始めた頃、遠くの空に白い煙が見えた。細く、そして断続的に立ち上る煙は、明らかに自然のものではなかった。
ガレスが手綱を緩め、目を細めてその煙を見つめる。
「あれは狼煙だ」
「分かるんですか」
レオが問うと、ガレスは前を見据えたまま答えた。
「前の襲撃のあと、ロイドから聞いた。二短一長は街道封鎖の合図だ」
つまり、フェルトハイムはまだ戦っている。まだ落ちてはいない。
その事実に、レオは詰めていた息をわずかに吐き出した。安堵と焦りが同時に胸を満たす。
「急ぎます!」
馬はさらに速度を上げた。夕暮れの街道を、四つの影が駆け抜けていく。
やがて、フェルトハイムの外門が見えてきた。だが、様子がおかしい。
門は固く閉ざされ、大きな荷車で塞がれている。見張り台には、弓を構えた自警団員の姿があった。矢はすでに弦にかけられ、いつでも放てる状態にある。
「止まれ!」
鋭い声が飛んだ。
「それ以上近づくな!」
ガレスが両手を上げ、敵意がないことを示す。
「レオ様だ!」
そう叫んだが、見張りは弓を下げなかった。
「証明しろ!」
当然の反応だった。敵がレオを騙る可能性もある――むしろ、この状況ではそれを疑うべきなのだ。
レオは馬を降り、門の前まで歩み出た。
「ロイド団長はいますか!」
声を張り上げる。しばらくの沈黙のあと、門の脇にある小窓がゆっくりと開いた。包帯を巻いた大柄な男が、疲れた顔を覗かせる。
「……本当にレオか」
「はい」
「証明してみろ」
レオは静かに、しかしはっきりと答えた。
「最初の襲撃の夜、あなたは敵について『殺しに来た連中じゃない』と言いました。そのあと私は北東集積所へ空箱を積み、待ち伏せを提案しました」
小窓の向こうで、ロイドの表情がわずかに動いた。それは、確かに二人だけが知る記憶だった。
やがて重い閂の外される音が響く。
「入れ」
◇ ◇ ◇
門をくぐると、街には重苦しい空気が漂っていた。
いつもなら人々の声で賑わっているはずの通りに、人影はほとんどない。住民たちは家からほとんど出ておらず、窓の隙間から不安げにこちらを窺う視線だけが感じられた。自警団員だけが、緊張した面持ちで慌ただしく動き回っている。
「何があったんです」
レオが尋ねると、ロイドは深く息を吐いた。その顔には、隠しきれない疲労と焦燥が刻まれている。
「ミレイさんたちは生きている」
その一言に、レオは全身の力が抜けるほどの安堵を覚えた。だが、続くロイドの表情を見て、すぐにそれが安心できる状況ではないと悟る。
「今はどこに」
「……分からない」
レオの鼓動が、一気に速くなった。
「どういうことです」
「今朝、一通の手紙が届いた」
ロイドは低い声で語り始めた。
「お前が王都で捕らえられた。助けたければ、指定された場所へ来いと」
リアムが眉をひそめる。
「ミレイさんは信じたのですか」
「最初は疑った」
ロイドは頷いた。
「だが、その手紙には、お前とミレイさんしか知らないはずのことが書かれていた」
「……何です」
レオの声が、自然と低くなる。
「昔、ミレイさんがお前を見つけた森の花畑のことだ」
その瞬間、レオの心臓が大きく脈打った。
あの花畑は、辺境の村の近くにある。誰にも教えたことのない、レオとミレイだけの、大切な思い出の場所だった。
「そして」
ロイドは続けた。
「いつか子供たちも連れて行こう、と約束したことまで書かれていた」
レオは言葉を失った。
その約束は、人前でしたものではない。二人だけの夜に、二人だけで交わした言葉だった。それを知る者は、この世に一人もいないはずだった。
「ですが」
ロイドは首を振る。
「呼び出し場所は花畑じゃない」
「どこです」
「フェルトハイム北西の旧水車小屋だ」
リアムがすぐに地図を広げ、指でその位置をなぞった。
「街から馬で二十分ほどですね」
「そうだ」
ロイドは苦い顔で頷いた。
「ミレイさんは最後まで迷っていた」
「だが、お前しか知らない話を書かれていたせいで、本当にレオからの助けを求める合図だと思ったんだ」
「自警団員を二人護衛につけて向かった」
「結果は」
ロイドは拳を握りしめた。関節が白くなるほどの力が込められている。
「旧水車小屋には誰もいなかった」
「争った跡だけが残っていた」
「それ以来、全員の行方が分からない」
レオの拳が、抑えきれずに震えた。
敵は最初から花畑へ呼び出すつもりなどなかった。二人だけの思い出を利用し、巧妙にミレイの警戒心を解かせただけだったのだ。その計算高さに、レオは怒りと同時に、底知れない不気味さを感じた。
リアムが静かに言う。
「手紙は残っていますか」
「ああ」
「家に保管してある」
「すぐ見せてください」
ロイドは頷いた。
だが、その前に低い声で付け加えた。
「もう一つ問題がある」
「何です」
「昨日から街中で、お前の偽物が動いている」
レオは顔を上げた。
「偽物?」
「『レオが王都で国王を裏切った』」
「『黒蛇会と手を組んだ』」
「『フェルトハイムを捨てた』」
「そんな噂が一気に広まった」
白鴉計画。
人ではなく、情報を操る計画。王都だけではない。フェルトハイムにも、その見えざる手はすでに及んでいたのだ。
その時、一人の自警団員が広場の方から息を切らして駆け込んできた。
「団長!」
「また見つかりました!」
手渡された紙を見た瞬間、ロイドの表情が険しくなった。
紙にはレオの署名。そして彼が普段使っていた印まで押されている。
もちろん、本物ではない。だが、それを一目では見抜けないほど精巧な代物だった。
ロイドはその紙をレオへ差し出した。
「お前が到着する前に」
「もう一人のレオが、この街で動き始めている」




