第204話 迫られる決断
レオは、差し出された紙を握り締めた。そこに記されていた地名を見た瞬間、胸の奥が強く締めつけられる。――フェルトハイム。その下には、三人の名前が並んでいた。ミレイ。ルナ。ソラ。自分にとって、何よりも大切な家族だ。
敵はレオの過去だけではなく、現在も知っている。誰を愛し、誰を守ろうとしているのか。その弱点を正確に把握したうえで、この紙を送りつけてきたのだ。紙の裏には、さらに一文が記されている。
**王都か、家族か。今度は、どちらを選びますか。**
レオの指に力が入り、紙の端が歪んだ。
「レオ」
ガレスが低い声で呼びかける。
「どうする」
レオはすぐには答えなかった。王都には、救出したばかりのセドリック国王がいる。白鴉計画を引き継いだ者たちは、王宮の内部へ深く入り込んでいる可能性が高い。最終報告書も奪われたままだ。オーウェンの行方も分からない。地下牢で起きた出来事も、まだ何一つ解決していなかった。
だが、フェルトハイムには家族がいる。ミレイと、ルナと、ソラ。もし敵の言葉が本当なら、今この瞬間にも危険が迫っているかもしれない。
「まず、この手紙の信憑性を確かめます」
レオは感情を押し込め、リアムへ紙を渡した。
「罠である可能性もあります」
「承知しました」
リアムは布越しに紙を受け取り、表面や折り目を慎重に調べ始めた。紙質。インク。印章。残された指の跡。一つずつ確認していく。
「紙は王都で一般的に流通しているものです。インクも特別なものではありません。書かれてから、それほど時間は経っていないでしょう」
「印は?」
ガレスが尋ねる。
「これまで見つかった、翼の欠けていない白い鳥の印と同じ型に見えます」
「では、白鴉計画を引き継いだ者からの手紙か」
「その可能性は高いです」
リアムは答えた。
「ですが、フェルトハイムが実際に襲われている証拠はありません。レオ様を王都から遠ざけるためだけに、家族の名を使った可能性もあります」
ガレスが紙を睨む。
「だが、無視もできない」
「はい」
リアムも同意する。
「虚偽であれば、王都に残る方が正しい。しかし真実であれば、出発が遅れるほど被害が広がります」
どちらを選んでも危険がある。それこそが、敵の狙いだった。
◇ ◇ ◇
セドリック国王は、リアムから紙を受け取った。一行ずつ、時間をかけて読み進める。
「……よく考えられている」
王が静かに言った。
「何がですか」
レオが尋ねる。
「この問いだ」
セドリック王は、裏面に記された文章を指で叩いた。
「王都か、家族か。お前に、どちらか一方を捨てたと思わせるための問いだ。王都へ残れば、家族を見捨てたと思う。フェルトハイムへ向かえば、王と国を見捨てたと思う。どちらを選んでも、お前は自分を責める」
レオは何も言えなかった。敵は、単に一つの場所を攻撃しようとしているのではない。レオの判断を揺らし、その心を壊そうとしているのだ。
「白鴉計画の本質は、こういうことだ」
オルドリックが杖へ両手を重ねながら口を開いた。
「人に命令する必要はない。選択肢を狭め、自ら間違った道を選んだと思わせればいい」
「どちらも選ばなければ?」
ガレスが問う。
「その場合は、何も守れなかったと思わせる」
オルドリックの答えに、場が静まり返った。
「相手は結果だけを求めているのではない。レオ王子が、自分の判断を信用できなくなることを望んでいる」
ヴィクターが小さく身を震わせた。自分自身を信用できなくなる――それが、彼に対して行われたことだった。オーウェンの言葉を繰り返し聞かされ、記憶を失っていると思い込まされ、国王を傷つけるかもしれないと恐れさせられた。今度はレオが標的になっている。
近衛兵のダニエルが一歩前へ出た。
「陛下。申し上げてもよろしいでしょうか」
「言え」
「レオ様は、フェルトハイムへ向かうべきです」
ガレスが鋭い視線を向けた。
「王を置いていけと言うのか」
「違います」
ダニエルは正面から答えた。
「陛下は王都におられます。近衛隊を再編し、信頼できる兵だけで周囲を固めることができます。しかし、フェルトハイムにはレオ様の代わりはいません。街の人々も、家族も、レオ様が戻ることを待っているはずです」
「手紙が罠だったらどうする。王都からレオ様を追い出すことが目的かもしれないぞ」
「その可能性はあります」
ダニエルは認めた。
「それでも、家族の命を賭けて確かめないという選択はできません」
リアムも頷いた。
「私も、フェルトハイムへ向かうべきだと思います。王都の調査は、すでにレオ様一人だけが担っているわけではありません。グレイストーン卿、エレナ、リディア、そして私たちが集めた記録もあります。誰かが続きを調べられます。ですが、フェルトハイムでレオ様の家族が狙われているなら、取り返しがつきません」
ガレスは不満そうに腕を組んだ。反論したいのではない。どちらを選んでも危険だと理解しているからこそ、簡単には納得できないのだ。
セドリック王が、レオへ視線を向けた。
「レオ」
「はい」
「お前は、どうしたい」
王子としての判断を求める声ではなかった。一人の父親が、息子へ問いかけるような声音だった。
レオは目を閉じた。フェルトハイムの家が浮かぶ。仕事を終えて帰ると、笑顔で迎えてくれるミレイ。少し恥ずかしそうに駆け寄ってくるルナ。まだ幼い手を必死に伸ばしてくるソラ。王都へ旅立つ時、必ず帰ると約束した。フェルトハイムを襲った者たちを捕らえ、二度と家族を危険にさらさないために王都へ戻ったのだ。それなのに、敵は再び彼らの名を使った。
「私は……」
レオは拳を握った。
「全員を守りたいです」
セドリック王の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「欲張りだな」
「自分でも、そう思います。ですが、どちらかを切り捨てることはできません。家族を守りたい。王都も、父上も守りたい。どちらも私にとって大切です」
「ならば、両方を守れ」
王は迷わず言った。
「父上……」
「フェルトハイムへ向かえ。王都は私が守る」
「しかし、王宮内には敵の協力者がいます」
「だからといって、お前が私のそばを片時も離れずにいるわけにはいかん」
セドリック王は、レオの肩へ手を置いた。
「お前は王の盾ではない。お前自身の意志で、大切な者を守る男だ。私には近衛がいる。グレイストーンもいる。信頼できる者を選び直し、王宮を立て直す。お前は、自分にしか守れない者のところへ行け」
レオは唇を引き結んだ。胸の奥では、まだ迷いが消えていない。だが、王の言葉は命令ではなく、信頼だった。
「……承知しました」
レオは深く頭を下げた。
「必ず家族を守り、戻ってまいります」
「当然だ」
王は力強く頷いた。
◇ ◇ ◇
「ガレス」
セドリック王が呼ぶ。
「はっ」
「レオを頼む」
「命に代えても、お守りします」
「命を簡単に代えるな」
王は厳しく言った。
「レオと共に、生きて戻れ」
ガレスは一瞬目を見開き、やがて深く頭を下げた。
「承知しました」
「リアム」
「はい」
「フェルトハイムへ向かいながら、王都との連絡経路を確保しろ」
「途中の宿場ごとに伝令を残します。フェルトハイムの状況も、先行して確認させます」
「頼む。ダニエル」
「はっ」
「近衛隊の中から、私が直接名を挙げた者だけを集めよ。所属や階級ではなく、一人ずつ確認する」
「承知いたしました」
皆がそれぞれの役目を与えられ、動き始める。
その時、ヴィクターが口を開いた。まだ片手には縄が残されている。疑いが完全に晴れたわけではない。
「待ってください。私もフェルトハイムへ同行させてください」
「駄目だ」
ガレスが即座に答えた。
「お前は白鴉計画を引き継いだ者たちに利用されていた。いつ再び妙な行動を取るか分からん」
「承知しています」
ヴィクターは視線を逸らさなかった。
「だからこそ、同行したいのです。私を利用した者は、レオ様の家族まで狙っている。ならば、敵の近くへ行けば、自分に何が行われたのか分かるかもしれません」
「また利用される可能性もあります」
レオが言う。
「はい」
「自分自身を信用できますか」
ヴィクターはすぐには答えなかった。
「……できません」
正直な答えだった。
「ですが、陛下を信じています。レオ様を信じています。自分を信じられない時は、皆様の判断に従います」
レオはヴィクターの目を見つめた。恐怖はある。だが逃げようとはしていない。
「同行を認めます」
「レオ」
ガレスが止めようとする。
「ただし、条件があります」
レオは続けた。
「決して一人で行動しないこと。声や記憶に異変を感じたら、どれほど些細なことでも伝えること。そして、自分だけで罪を背負おうとしないこと」
ヴィクターの瞳が揺れた。
「守れますか」
「はい。必ず」
「では、行きましょう」
オルドリックが小さく笑った。
「人を信じるのだな」
「無条件ではありません」
レオは答える。
「疑うべきことは疑います。証拠も確認します。ですが、疑うことだけを選べば、誰も隣に残らなくなる。それこそ敵の狙いでしょう」
オルドリックは杖に体重を預けながら、しばらくレオを眺めた。
「王国を守る者は、すべてを疑え。監察局はそう教えた。だが、疑った後に何を信じるかまでは教えなかった。それが、監察局の失敗だったのかもしれんな」
レオは答えなかった。今は、長い議論をしている時間はない。
◇ ◇ ◇
馬車置き場では、すでに数頭の馬が用意されていた。リアムの指示で、最寄りの宿場へ先行の伝令も出される。
「通常なら二日以上」
ガレスが馬具を確認しながら言う。
「馬を乗り継ぎ、休息を削れば一日半で行ける」
「前回と同じ経路を使います」
レオが答えた。
「王家の通行許可証は?」
「今も持っています」
それは、王都からフェルトハイムへ急行した際にセドリック王から与えられた、関所を通過するための文書だった。王都内部の調査権限として使えるものではない。だが、街道を急ぐ今は本来の役割を果たす。
「関所で足止めされることはありません」
リアムが頷く。
「途中から先行伝令を走らせます。まずフェルトハイムの自警団と連絡を取り、家族の安否を確認させます」
「頼みます」
レオは馬へ跨がろうとした。
その時だった。王宮の方角から、鐘の音が響いた。一度。二度。三度。王宮全体へ危険を知らせる、非常招集の鐘だ。全員の動きが止まる。
ダニエルが振り返った。
「あれは……」
「王宮内で新たな事件が起きた合図です」
間もなく、王宮から一騎の伝令が猛然と駆け込んできた。馬が止まり切るより早く、兵士は地面へ飛び降りる。
「陛下!」
「何があった」
セドリック王が問う。
「王宮の宝物庫が襲撃されました!」
その場の空気が一変する。
「奪われたものは」
「王家の財宝ではありません」
伝令は青ざめた顔で答えた。
「封印庫です。王家が保管していた最重要機密文書が、すべて持ち去られました!」
レオは息を呑んだ。敵はフェルトハイムだけを狙っているのではない。レオへ選択を迫っている間に、王都でも別の者たちが動いていた。最初から、敵は二手に分かれていたのだ。
王都に残れば、フェルトハイムが危ない。フェルトハイムへ向かえば、王都の証拠が奪われる。
だが、レオは馬から降りなかった。
「父上」
「行け」
セドリック王は迷わず命じた。
「こちらは私が対処する」
「ですが、封印庫には――」
「お前が戻っても、奪われた文書がその場へ戻るわけではない」
王はレオを真っ直ぐ見た。
「敵は、お前に決断を覆させたいのだ。一度選んだ道を、恐怖で変えさせようとしている。その手に乗るな」
レオは強く手綱を握った。
「……承知しました」
王都で起きた事件は、王と仲間へ託す。自分はフェルトハイムへ向かう。それは王都を見捨てることではない。仲間を信じ、それぞれが守るべき場所を守るという選択だ。
「出発します!」
レオの声とともに、馬が地面を蹴った。ガレス、リアム、ヴィクター、同行する者たちも続く。王都の馬車置き場が背後へ遠ざかる。
レオは振り返らなかった。胸にあるのは、敵に選ばされた二者択一ではない。王都も守る。家族も守る。そのために今、自分が進むべき道を選んだのだ。
フェルトハイムへ。ミレイと、ルナと、ソラのもとへ。
レオたちは再び、全速力で街道を駆け始めた。




