第203話 侍従オーウェン
地下牢の出入口を、重い鉄格子が塞いでいた。
エドリック王、レオ、ガレス、リアム、侍従ヴィクター、負傷した近衛隊長、そして監察局を作ったという老人オルドリック・ヴァイス。全員が、冷たい石壁の中へ閉じ込められている。鉄格子の向こうから聞こえていた足音は、すでに遠ざかっていた。残されたのは、床へ投げ込まれた一枚の侍従徽章だけだった。表には王宮侍従の印。裏には、所有者の名――オーウェン・ベル。さらに、その下へ刃物で刻まれた新しい文字――白鴉。
「オーウェン……」
エドリック王が低く呟いた。執務室で倒れていたはずの侍従。王が姿を消した直後、頭を殴られ、意識を失っていたと報告された男だった。
「陛下」ダニエルが鉄格子へ近づきながら尋ねる。「オーウェン殿に、何か不審な点はありませんでしたか」
「ない」王は即答した。「十年以上仕えている。仕事は正確で、余計なことを口にしない男だ」
ガレスが鼻を鳴らす。「そういう男ほど、裏では何を考えているか分からん」
「ガレス」レオが制する。「まだ、この徽章だけでオーウェンが白鴉計画に関わっていると決めることはできません」
「分かっている」ガレスは不機嫌そうに答えた。「だが、あの声の主が、わざわざこれを残したのも事実だ」
「私たちにオーウェンを疑わせるためかもしれません」リアムが徽章を布越しに拾い上げる。「名前の下に刻まれた文字は新しい。オーウェン本人が刻んだ証拠はありません」
見えている証拠ほど疑え。監察局が何度も残していた言葉が、全員の胸に蘇る。
◇ ◇ ◇
「まず、ここから出る方法を探します」レオは鉄格子へ近づいた。太い鉄棒。上下は石の中へ深く埋め込まれている。格子の外側には巻き上げ機があるはずだが、こちら側からは見えない。
「剣で切れる代物ではないな」ガレスが鉄棒を叩く。硬い音が牢内へ響いた。
「壁を壊すのは?」ダニエルが尋ねる。
「この辺りの壁は外敵の侵入ではなく、囚人の脱走を防ぐために造られている」オルドリックが答えた。「石は二重。その間には崩れた石片と砂が詰められている。掘ろうとしても、内側へ崩れてくる」
「詳しいですね」レオが老人を見る。「この牢の改修にも関わったのですか」
「直接ではない。古い王宮地下図面を管理していた。それだけだ」
「その図面に、別の出口は?」
オルドリックは廊下の奥へ視線を向けた。「かつてはあった。この地下牢は、囚人を外へ運ぶ通路と繋がっていた。処刑場への道だ」
ダニエルの顔が強張る。「今も使えるのですか」
「二十年以上前に封鎖された。だが、完全に埋められているかは分からない」
「場所を案内してください」レオが言う。
オルドリックは少しだけ笑った。「私を信用していないのではなかったか」
「信用していないから、先頭を歩いていただきます」
老人は肩をすくめ、杖をついて廊下の奥へ歩き始めた。
一方、ヴィクターはその場に立ち尽くしていた。両手はガレスが縄で拘束している。短剣に付着していた血は、近衛隊長のものではなかった。誰の血なのかは、まだ分かっていない。
「歩けるか」ガレスが問う。
「はい」ヴィクターの声は弱い。「ですが、私は皆と離した方がいいのではありませんか」
「なぜです」レオが振り返る。
「また記憶を失うかもしれない。その時に、誰かを傷つけるかもしれません」
「今、あなたの手は縛られています」
「それでも」
「ヴィクター」エドリック王が静かに名を呼んだ。侍従は顔を上げる。「私は、お前に執務室から連れ出された。途中で短剣を向けられた」
「申し訳ございません」
「だが、お前は私を殺さなかった」
ヴィクターは唇を震わせた。「殺せなかっただけかもしれません」
「違う」王は断言した。「殺すつもりなら、地下牢まで連れてくる必要はない。執務室でも、通路でも機会はあった。お前は私を隠した。自分からも、敵からも守るために」
ヴィクターの目に涙が滲む。「私は……自分を信用できません」
「なら今は、私たちを信用しろ」王の声は厳しかった。だが、長年仕えてきた侍従へ向ける信頼が込められていた。「お前が何をしたかは、記憶ではなく事実から確かめる。それまでは、自分を罪人だと決めつけるな」
「……はい」ヴィクターは深く頭を下げた。
◇ ◇ ◇
地下牢の最奥には、他の牢とは異なる石壁があった。扉も格子もない。一見すれば、ただの行き止まりだ。オルドリックは壁の前へ立ち、杖で数か所を順番に叩いた。低い音、鈍い音。そして一か所だけ、わずかに高い音が返る。
「ここだ」
リアムがランタンを近づける。石壁の下部に、細い亀裂があった。「扉の跡です。完全に埋められてはいません」
「開けられますか」レオが尋ねる。
「表側から板と石で塞がれているだけなら」リアムは小刀を差し込み、亀裂の奥を確かめた。「少なくとも、人の手で壊せます」
「どれくらいかかる」
「道具が足りません」
ガレスが剣を抜く。「これを使え」
「刃が欠けます」
「王と一緒に閉じ込められるより安い」
リアムは困った顔をしたが、剣を受け取った。ガレスとダニエルも、牢の中から使えそうな金属片や鎖を集める。石の隙間へ剣先を差し込み、てこの要領で動かす。最初の石は動かなかった。二度、三度、ガレスが全身の力を込める。ゴリッ。石がわずかに前へ出た。
「動いた!」ダニエルが鎖を石へ巻きつける。「引け!」
三人が同時に力を込めた。石が抜け落ち、床へ重い音を立てて転がる。その向こうから冷たい風が吹き込んだ。
「通路は残っています」リアムがランタンを差し込む。狭い。人一人が屈んで進める程度の道だった。奥は暗く、どこまで続いているか分からない。
「外へ通じているか」レオが尋ねる。
オルドリックは答えなかった。
「分からないのですか」
「最後に使われたのは、私が若い頃だ。出口が塞がれている可能性もある」
「それでも、鉄格子の前で待つよりはましだ」ガレスが言った。
近衛隊長をどうするかが問題になった。意識はまだ戻っていないが、呼吸は安定している。「私が背負います」ガレスが剣をリアムから受け取り、鞘へ戻した。
ヴィクターも前へ出ようとしたが、拘束された両手を見て止まった。「私の縄を解いてください」
ガレスの目が鋭くなる。「今の話を聞いていなかったのか」
「隊長を運ぶ人手が必要です。逃げないと誓います」
「誓いで安全が買えるなら苦労はしない」
「ガレス」王が言った。「片手だけ解け。片手を自由にし、もう片方はダニエルと結べ。何かしようとすれば、すぐに止められる」
ガレスは不満を隠さなかったが、王命には従った。ヴィクターの右手を解き、左手首を縄でダニエルの腕へ繋ぐ。「妙な動きをしたら、腕ごと斬る」
「承知しています」
◇ ◇ ◇
先頭はオルドリック、続いてリアム、レオ、エドリック王、ヴィクターとダニエル、二人に支えられた近衛隊長。最後尾をガレスが守る。
通路は予想以上に狭かった。天井が低く、全員が腰を曲げなければならない。壁から土が崩れ、肩や髪へ落ちる。何度か道が細くなり、近衛隊長を横向きにして運ばなければならなかった。
「この道はどこへ出る」ガレスが後方から尋ねる。
「旧処刑場の裏だ」オルドリックが答える。「王都の北西」
「今は何がある場所です」レオが尋ねた。
「王宮の馬車置き場が拡張され、処刑場は撤去された。出口は馬車置き場の地下に残っているはずだ」
「白鴉計画を引き継いだ者たちが待ち伏せしている可能性は?」
「高い」
「なら、別の道は?」
「ない」オルドリックの言葉は簡潔だった。
しばらく進むと、前方から水音が聞こえた。細い地下水路が通路を横切っている。水深は足首ほどだが流れは速く、石床が滑りやすい。
「気をつけてください」リアムが先に渡り、足場を確かめる。レオは王の腕を支えた。
「父上、薬の影響は」
「まだ少し頭が重い。だが歩ける」
「無理はしないでください」
「お前に言われるとはな」王は薄く笑った。「フェルトハイムから王都へ、ほとんど休まず戻ってきた男が」
「今は私の話ではありません」
「そういうところは、昔から変わらん」
「昔?」レオは聞き返した。
王は何かを言おうとして、やめた。「地上へ戻ってから話す」
その言葉に、わずかな違和感が残る。だが今は問い詰める時ではなかった。
水路を渡り終えたところで、ヴィクターが突然足を止めた。ダニエルの腕が縄に引かれる。
「どうした」
「声が……」ヴィクターは頭を押さえた。「誰かの声が聞こえます」
全員が周囲へ耳を澄ます。水音、呼吸、衣服の擦れる音。それ以外は何も聞こえない。
「何と言っています」レオが尋ねた。
「戻れ、と」
「誰の声です」
「オーウェンです」
侍従オーウェン。その徽章には、白鴉計画を示すかのような文字が刻まれていた。
「本当に聞こえているのか」ガレスが疑う。
「頭の中です」ヴィクターは苦しそうに目を閉じた。「前にもありました」
「いつです」
「記憶が抜け落ちる前です。いつも、オーウェンの声が聞こえる」
「命令されるのですか」
「いいえ。質問されます。陛下を守れるか。自分を信用できるか。次に目を覚ました時、何をしていると思うか」
問いかけを繰り返されるうちに、恐怖が膨らんでいった。自分は国王を傷つけるかもしれない。記憶のない間に、誰かを殺しているかもしれない。
「オーウェン本人から聞かれたのですか」
「最初は」ヴィクターは答えた。「夜の廊下や、休憩中に。最近は、姿が見えなくても声が浮かぶ」
「それは暗示だ」オルドリックが言った。「同じ言葉を繰り返し聞かされ、自分でも同じ問いを考えるようになった。声が聞こえているのではない。オーウェンの言葉を思い出している」
ヴィクターは震えながら頷いた。「では、私はおかしくなったわけでは……」
「おかしくさせられた」レオが言う。「あなたの不安を利用し、自分自身を疑うよう仕向けられた」
「ですが、私は陛下へ短剣を」
「その時の記憶はありますか」
「短剣を抜いたことは覚えています」
「なぜ抜いたのです」
ヴィクターは息を止めた。しばらく考えた後、ゆっくり顔を上げる。「陛下の背後に、人影が見えた」
「通路の中で?」
「はい。黒い外套でした。追い払おうと短剣を抜いた。ですが次の瞬間、誰もいなかった。陛下には、私が短剣を向けたように見えたはずです」
エドリック王が眉を寄せる。「確かに、お前は私の後ろを見ていた。自分自身へ刃を向けたわけではなかったのか」
「分かりません。ですが、あの時は確かに誰かがいた」
黒い外套の人物。オーウェン。白鴉計画を引き継いだ者、あるいはその協力者。まだ地下通路のどこかにいる可能性がある。
「急ぎます」レオが言った。「出口で待ち伏せされる前に地上へ出ます」
◇ ◇ ◇
通路の終点には、木板で塞がれた壁があった。板の隙間から、細い光が差し込んでいる。
「地上です」リアムが板へ耳を当てる。馬の鳴き声、車輪が石を踏む音、人の話し声。馬車置き場の地下で間違いない。
「外に敵がいる様子は?」
「判断できません。通常の作業音に聞こえます」
ガレスが前へ出る。「俺が先に出る」
板を内側から押す。釘が軋んだ。一枚、二枚。板を外すと、狭い物置の中へ出た。古い鞍、壊れた車輪、干し草の束。
「誰もいない」ガレスが周囲を確認する。全員が順番に物置へ入った。近衛隊長も無事に運び出す。
地上の空気。窓から差す昼の光。長く地下にいたわけではないのに、別の世界へ戻ったように感じられた。
「まず陛下を安全な場所へ」ダニエルが言う。
「王宮へ戻すのは危険です」リアムが反対する。「白鴉計画を引き継いだ者たちが、どこまで王宮内部へ入り込んでいるか分かりません」
「では、どこへ」
レオは少し考えた。「グランツ卿の屋敷へ向かいます」
「グランツ?」ガレスが聞き返す。
「王宮外にあり、独自の護衛がいる。今回の地下調査にも関わっていないため、計画を引き継いだ者たちが、すぐに動きを読む可能性も低いでしょう」
王都改革でレオを支えたグランツ卿。現在は王宮から少し離れた屋敷にいるはずだった。
「信用できるのか」オルドリックが尋ねる。
「少なくとも、あなたよりは」レオが答えると、老人は苦笑した。「正直で結構だ」
◇ ◇ ◇
馬車置き場の外へ出る直前、ガレスが手を上げた。「待て」
扉の下。一枚の紙が差し込まれている。先ほどまではなかった。誰かが、全員が物置へ入った後に置いたのだ。ガレスが扉を勢いよく開く。外には馬車係の姿が数人。だが、不自然に逃げる者はいない。
「誰が今、ここへ来た!」
馬車係たちは顔を見合わせる。「誰も来ておりません」「ずっとここで働いていました」
リアムが紙を拾い上げた。白い鳥の印。翼は欠けていない。中には短い文が記されている。
**王を救出したこと、祝福いたします。**
**次は、王子が最も守りたい者を救ってください。**
レオの指が震えた。その下には、三つの名前――ミレイ、ルナ、ソラ。そして最後に、場所が記されていた。
**フェルトハイム。**
レオの顔から血の気が引く。
「まさか……」
家族を守るため、フェルトハイムへ戻った。襲撃を退けた。街を守った。その後、黒蛇会の根を断つため王都へ来た。だが敵は、最初から彼が王都へ戻る機会を待っていたのかもしれない。
紙の裏側にも、一文だけ書かれている。
**王都か、家族か。**
**今度は、どちらを選びますか。**




