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第202話 消えた国王

「陛下が、消えました」。血に濡れた近衛兵の言葉が、冷たい地下通路に落ちた。誰も、すぐには意味を理解できなかった。国王が消えた。襲われたでも、負傷したでもない。消えた。


レオは近衛兵の前へ膝をつき、詳しく話すよう促した。国王がいたのは居住棟の執務室だという。兵士は息を切らしながら答えた。「非常鐘が鳴る少し前、陛下付きの侍従から応援要請がありました。不審者が侵入したと」。姿を見たかと問えば、黒い外套を着た者が廊下を走っていくのを見たという。最終記録庫から逃げた人影と、同じ人物である可能性が高い。追跡したものの、国王陛下の執務室近くで見失った。扉は内側から鍵が掛かっていたという。「不審者が入ったなら、なぜ内側から閉まっている」とガレスが眉を寄せる。分からない、近衛隊長が扉を壊すと、部屋の中には侍従が一人倒れていて――兵士の声が震えた。「陛下は、どこにもいませんでした」


窓は閉じられており、外へ出た形跡もない。「隠し通路がある」とオルドリックが言うと、全員が老人を見た。国王の執務室には地下へ通じる避難路があり、王宮の正式な図面には記されていないという。「先々代国王の時代、反乱に備えて造られた。入口を知る者は限られていた」。設置に関わったというオルドリックによれば、通路は途中で分岐し、一方は北庭、もう一方は国王の居住棟へ続く。「なら、陛下は地下へ連れ去られた可能性があります」とエレナが言う。通路の入口は執務室の本棚の裏にあり、国王の印章がなければ開かない。印章は陛下が身につけている。「なら、自ら開けたか」「誰かに開けさせられた」とオルドリックは静かに続けた。


執務室に誰かが現れ、地上にいれば危険だと伝え、避難路へ誘導したのかもしれない。しかし、その人物を陛下が信用する必要がある。突然現れた不審者の言葉だけで秘密通路へ入るとは考えにくい。信用できる側近。家族。近衛。あるいは国王だけが知る合図を持つ者。零番の棚に残されていた紙――「最終報告書は、王の最も近くに置いた」。それは報告書の隠し場所ではなく、最も近い人物を示している可能性がある。執務室に倒れていた侍従の名はオーウェン。頭を殴られたが命に別状はないという。その時間、もう一人の侍従がいたはずだと兵士は言う。「ヴィクター・ローレンです」。グレイストーンの表情が変わった。王室侍従長補佐で、十年以上陛下の近くに仕えている人物だという。だが彼の姿は見つかっていない。最も近い人物、長年仕える侍従、そして国王と同時に消えた。「ヴィクターが陛下を連れ出した?」とリアムが呟く。「まだ決めつけてはいけません」とレオは制した。彼も襲われ、連れ去られた可能性がある。「だが、第一に疑うべき相手ではある」とガレスは剣を握った。「問題は、どちらへ向かったかだ」


   ◇ ◇ ◇


オルドリックが壁の隠し留め具を動かすと、石壁の一部が開き、狭い通路が現れた。先ほど近衛兵が出てきた道である。「この先で三つに分かれる。左は北庭、中央は国王の執務室、右は王宮の外壁近くへ続く」。「陛下を連れ去るなら、右でしょう」とガレスが言う。王宮から脱出できる。だが追跡者を欺くために、あえて別の道を使う可能性もあった。近衛兵――ダニエルと名乗った――は中央の通路から来たといい、執務室の本棚が開いていたため中へ入ったのだという。途中で誰かと会うことはなく、暗くて足跡もよく見えなかったらしい。リアムがランタンを持って通路へ入り、石床へ光を当てると、薄い埃の上に複数の靴跡が残っていた。一つは近衛兵のもの、ほかに二人分。大きな靴跡と、それより少し小さい靴跡。「陛下と、もう一人」とエレナが言う。争った跡はなく、歩幅も乱れていない。少なくともこの地点までは二人とも歩いており、拘束されていた様子もなかった。自らの意思で同行したか、あるいは刃物を突きつけられ、静かに従ったか。


レオは一行を見回した。リディアは負傷し、ミアも衰弱している。近衛兵も胸元を血で染めていた。全員で進むのは危険だとして、エレナとグレイストーンが最終記録庫に残ることになった。ミアとリディアの手当てをし、零番の記録も確認するという。「老人扱いする割に、私を疑っているのだな」とオルドリックが鼻を鳴らすと、「当然だ」とグレイストーンが返す。最終的に、地下通路へ入るのはレオ、ガレス、リアム、オルドリック。負傷したダニエルも案内役として同行を主張した。「陛下を守れなかったまま、ここで待つことはできません」。エレナはレオへランタンを渡し、「必ず戻ってください。陛下と一緒に」と言った。「そのつもりです」


   ◇ ◇ ◇


五人は隠し通路へ入った。道幅は人二人が並ぶには狭く、天井も低い。先頭はオルドリック、その後ろにリアム、レオ、ダニエル、最後尾をガレスが守った。「前を歩けと言ったのは王子だ。背中から刺される心配はありませんか」とオルドリックが振り返らずに言うと、「近衛が最後尾にいる。私が妙な動きをすれば、すぐに斬るだろう」「よく分かっているな」とガレスが応じた。しばらく進むと、通路は三方向へ分かれた。中央はダニエルが来た執務室への道、左は北庭、右は外壁方向である。リアムが床へ膝をつき、ランタンを近づけると、二人分の足跡は分岐の中央で一度止まり、その後右へ向かっていた。「外へ連れ出すつもりだ」とダニエルが息を呑む。だがリアムは眉を寄せた。小さい方の足跡だけが、そこで深くなっている。片足だけが強く床へ沈み、その近くには壁を擦った跡もあった。陛下が抵抗したのか、あるいは何かに気づいて立ち止まったのか。レオが壁を照らすと、石の表面に細い傷が刻まれていた。三本の横線、その下に一本の縦線。オルドリックの顔色が変わる。「監察局の緊急符号だ。追われている、という意味だ。そして、その下の縦線は――同行者を信用するな」


   ◇ ◇ ◇


陛下がこの符号を知っているとは思えず、もう一人の同行者が刻んだ可能性がある。自分を信用するなと書く者はいない――第三者がここにいたのかもしれない。だが足跡は二人分しかない。傷の中に埃が入っておらず、つい先ほど刻まれたものだとリアムは判断した。国王、同行者、そして姿を見せない第三者。一行は右の通路へ進んだ。道は次第に下り坂となり、空気が冷たくなって、湿った土の匂いが強くなる。城壁外へ近づいている証だった。数十歩進んだところで、床に金色の小さな留め具が落ちていた。陛下の外套の留め具で、王家の紋章が刻まれている。金具は壊れておらず、針も曲がっていない。誰かが意図的に外して落としたのだ。「陛下が道を残しています。自分がどこへ連れていかれたか、後から追えるように」とレオが言う。「なら、まだ意識ははっきりしている。急げば追いつける」とガレスが応じた。


その先で通路は再び二つへ分かれた。左は上り坂、右はさらに地下へ続いている。足跡は途中で乱れ、大きい靴跡は左、小さい靴跡は右へ分かれていた。金具の落ちていた場所まで戻って見比べると、陛下のものは小さい方――右だとリアムは断定した。「待て」とオルドリックが止める。右の道は外へ続かず、先々代の時代より前に使われていた古い地下牢に通じているという。左は城壁外の森。つまり同行者は左へ逃げ、国王は右の地下牢へ向かったことになる。追跡者を外へ誘導するために足跡を分けた可能性もあるが、一人で地下牢へ向かう理由がない。レオは分岐の壁にも小さな傷を見つけた。今度は一本の横線――「待て、という意味だ」とオルドリック。追ってくる者へ向けた合図だという。国王がこの符号を知らないなら、誰かが陛下を助けている。だが姿も足跡も残していない。「右へ行きます。陛下の足跡を追います」とレオは決めた。左へ逃げた者には後で兵を向かわせる。今は陛下の安全が先だった。


   ◇ ◇ ◇


右の通路は急な石段へ変わり、足元が滑りやすく、一段ずつ慎重に下りていく。底へ着くと空気がさらに冷え、左右に鉄扉が並ぶ長い廊下が現れた。かつての地下牢である。扉の一部は錆び、壁には古い鎖が残されていた。ダニエルが呼びかけても返事はない。足跡は奥へ続いており、五人は走った。廊下の最奥、一つだけ扉が開いている牢があり、中から弱い灯りが漏れている。ガレスが剣を構えて踏み込むと、中にいたのは豪華な上着を着た、灰色を帯びた髪の男――国王だった。椅子に座り、両手を縄で縛られているが意識はある。「父上!」とレオが駆け寄ると、「レオか。来ると思っていた」と国王は苦しそうに顔を上げた。殴られてはおらず、少し薬を嗅がされたらしい。ガレスが小刀で縄を切った。


連れてきたのはヴィクターだと国王は語った。執務室へ黒い外套の者が侵入し、ヴィクターは避難路を開いて陛下を地下へ連れた。だが途中で彼は別人のようになり、何かに気づいたのか急に短剣を向け、震えながら何度も謝りながら陛下をここへ入れたのだという。「自分を追ってはいけない」――それが最後の言葉だった。壁に刻まれた符号を残したのは、ヴィクターだった可能性がある。ヴィクターは最後に「白い鳥が、自分の中にいる」と言い、「自分が次に目を覚ます時、王を殺したことになっているかもしれない」とも語ったという。


記憶がないのかとレオが問うと、国王は最近――三月ほど前から、ヴィクターが何度か時間が抜け落ちると話していたことを明かした。本人は疲労だと思い込み、周囲もそう考えていた。オルドリックが杖を強く床へ打ちつける。「白鴉のやり方だ。薬だけではない。暗示、偽の記録、周囲の証言。本人に、自分が異常だと思わせる。記憶が抜けたと思い込ませ、その間に何かをしたと信じ込ませる。実際には記憶を失っていない可能性もある。人間は、自分の記憶より周囲の言葉を信じることがある」。ヴィクターは、自分の知らない時間があると思い込まされ、その間に国王を傷つけるかもしれないと恐れたのだ。誰かが彼を操っている――直接命令するのではなく、自分で危険な存在だと思わせて。その結果、陛下を人目のない地下へ連れ出させたのだとすれば、本当の目的は何なのか。


国王は外套の内側から、白い鳥の印のついた折り畳まれた紙を取り出した。ヴィクターが渡したものだという。そこには「王よ。白鴉計画の最終報告書を読みたければ、王冠の下を開け。ただし、王子には見せるな」と記され、下部には玉座の間を示す見取り図があった。さらに国王は付け加えた。ヴィクターは紙を渡した後、「この伝言を書いたのは自分ではない。だが筆跡は自分のものだ」と言ったという。文字は整っており、長年仕えた侍従の筆跡に間違いない。書いた記憶だけを疑わせる――白鴉は人を操るのではなく、自分自身を信用できなくさせるのだとオルドリックは言った。


   ◇ ◇ ◇


その時、牢の外から足音が聞こえた。ゆっくりと近づいてくる。ガレスが国王の前へ立ち、リアムがランタンを高く掲げる。誰何しても返事はなく、やがて暗闇から侍従服の男が現れた。青ざめた顔、右手には血のついた短剣。「ヴィクター……」と国王が名を呼ぶと、男は足を止めた。目は虚ろで、焦点が合っていない。「陛下……私は、何をしましたか」。短剣から血が石床へ落ちる。「その血は誰のものだ」とガレスが問うと、ヴィクターは初めて短剣に気づいたように目を見開いた。「分からない。私は森へ出たはずで……次に気づいた時には、これを持っていた」。誰かを刺したのかと問われても、何も覚えていないという。


その背後、暗い廊下の奥で何かが倒れる音がした。ガレスがすぐに走ると、壁際に黒い外套を着た人物が倒れていた。胸には深い刺し傷。頭巾を外すと、現れた顔にダニエルが息を呑む。「近衛隊長……」。王宮警備を指揮していたはずの男だった。その手には、白い鳥の印が押された紙が握られている。開くと「最初の裏切り者を、王の前へ連れてきた」とだけ書かれていた。血のついた短剣、倒れた近衛隊長、記憶がないと訴える侍従――あまりにも分かりやすい証拠だった。見えている証拠ほど疑え。「ヴィクターを拘束します」とレオが言うと、男の顔に絶望が浮かぶ。「やはり、私が……」「違います」とレオははっきり否定した。犯人としてではなく、次に誰かを傷つけないよう、そして誰かに傷つけられないよう守るためだと告げる。ヴィクターは呆然とレオを見つめた。


ガレスが短剣を取り上げ、刃に付着した血を確認して眉を寄せた。これだけ深く刺したなら柄まで血が付くはずだが、刃先にしか付いていない。リアムが倒れた近衛隊長の胸元を調べると、衣服は大きく裂けて血が広がっているものの、服の下に傷がなかった。近衛隊長は死んでおらず、気を失っているだけで、胸元の血も本人のものではなかった。ヴィクターを犯人に仕立てるための偽装、そして彼らをここで足止めするための芝居だとレオは悟る。「誰かが近くにいる」とガレスが剣を構えた直後、廊下のすべての鉄扉が一斉に閉まり始めた。ガンッ、ガンッ、ガンッ――重い音が連続して響き、出入口の鉄格子も天井から落ちる。「走れ!」とガレスが叫んだが間に合わない。最後の鉄格子が床へ叩きつけられ、地下牢は完全に閉ざされた。


暗闇の向こうから、若い男の声が聞こえた。「正解です、レオン王子。ヴィクターは裏切り者ではない。では、誰が裏切ったと思いますか?」。レオは鉄格子の向こうを睨むが、足音は遠ざかっていく。代わりに、小さな物が格子の隙間から投げ込まれた。床を転がったのは王宮侍従の徽章。裏側には「オーウェン・ベル」――執務室で倒れていたはずの、もう一人の侍従の名が刻まれていた。その下には、刃物で新しい文字が彫られている。白鴉。

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