第201話 監察局が生まれた夜
老人の左目の下には、小さな文字が刻まれていた。
――零。
傷でも、偶然の痕でもない。明らかに人の手で刻みつけられた印だった。
「監察局が生まれた夜、王宮で、本当は何が起きたのかを話そう」
老人は眼帯を握りしめたまま、レオを見据える。ガレスは剣を下ろさなかった。
「その前に武器を捨てろ」
「この杖を武器と呼ぶのなら、私は立つこともできなくなる」
「なら座れ」
「随分と乱暴な近衛だ」
「お前が何者か分からん以上、当然だ」
老人は反論せず、局長室の前に置かれていた椅子へ腰を下ろし、杖は手元に残したまま鉄の鍵だけを床へ置いた。ガレスはそれを足先で引き寄せる。
「ほかに何か持っているか」
「持っていたとして、素直に答えると思うか?」
「答えなければ調べる」
「ガレス」とレオが止めた。「今は話を聞きましょう」
「だが」
「警戒は続けてください」
ガレスは不満そうだったが、それ以上は言わなかった。エレナはミアを鉄扉の近くへ座らせて怪我を見ており、外ではリアムとグレイストーンが扉の仕掛けを調べ、リディアは壁にもたれながら老人を睨んでいた。誰一人として、老人の言葉を信じてはいない。だが、聞かずに進める状況でもなかった。
「まず、あなたの名を教えてください」とレオが言った。
「名は捨てたと言ったはずだ」
「では、捨てる前の名を」
老人は黙る。「名前すら明かさない者の話を、すべて信用することはできません」
「名が真実を保証するとでも?」
「保証はしません。ですが、責任の所在は明らかになります」
老人は右目を細め、わずかな沈黙の後、諦めたように息を吐いた。
「セドリック・ヴァイス」
その名に反応したのはグレイストーンだった。「ヴァイス……?」
「知っているのですか」とレオが振り返る。
「王宮史の古い記録に出てくる名だ」グレイストーンは記憶を探るように眉を寄せた。「三十年以上前、前王の父――先々代国王の側近に、セドリック・ヴァイスという男がいた」
「役職は?」
「王室記録官」
エレナが老人を見る。「王室の記録を管理する者が、密偵だったのですか」
「表向きは記録官」セドリックは答えた。「裏では王命を受け、王宮内部の調査を行っていた」
「あなたもルイスと同じように、表と裏で異なる役目を持っていた」
「ルイスの立場は、私の役目を分けて作ったものだ」
「だから監察局を作った者と名乗ったのですね」
セドリックは頷いた。「だが、正確には私一人で作ったわけではない」
「では誰と?」
「先々代国王だ」
◇ ◇ ◇
三十四年前、王宮では一人の王子の死を巡って大きな混乱が起きた。先々代国王の弟、王位継承権を持つ第二王子の死だった。
「公式記録では、狩猟中の事故死とされています」エレナが言った。「馬から落ち、首を折ったと」
「それが最初の嘘だ」セドリックは静かに答えた。「第二王子は王宮内で殺された」
空気が張り詰める。「犯人は?」とガレスが問う。
「当時の宰相だ」
「証拠はあるのですか」
「遺体を見た。首には落馬ではできない絞め痕があり、指には抵抗した際の傷が残っていた」
「なら、なぜ事故として処理されたのです」とレオが尋ねる。
「宰相が王宮の文書官、侍医、近衛の一部を買収していたからだ。証言は揃えられ、狩猟記録も作られた。第二王子が城を出たという門衛記録まで用意された」
「完全な偽装……」リアムが扉の外から呟いた。
「王は真実を知らなかったのですか」
「最初はな」セドリックは左目の火傷痕へ触れた。「私は遺体の状態と記録の矛盾を報告した。王は密かに調査を命じた。その調査によって、宰相だけでなく、多くの有力貴族が関わっていたことが分かった」
「目的は王位継承ですか」
「第二王子は、国王に子がなければ次の王になる立場だった。そして当時、王にはまだ世継ぎがいなかった」
宰相たちは、自分たちに都合の悪い第二王子を排除し、別の血筋を王位へ近づけようとしていた。
「では、犯人を公表すればよかったのでは?」ミアが小さな声で尋ねた。
セドリックは少女を見る。「関係者が多すぎた。宰相だけではない。地方領主、軍の指揮官、王宮の役人。一斉に捕らえれば、反乱が起きる可能性があった」
「だから隠した?」ミアの表情が曇る。
「王は迷った」セドリックは続けた。「真実を公表し、国を二つに割るか。偽りを受け入れ、時間をかけて関係者を排除するか。王は後者を選んだ」
第二王子の死は事故として公表され、宰相は病気を理由に辞任した。関係した貴族たちも数年をかけて役職から外され、目立たぬ形で権力を奪い、反乱の芽を摘んでいった。
「それが監察局の始まりですか」
「そうだ。王命だけで動く密偵では、また同じことが起きる。証言と記録を照合し、王族すら調査できる組織が必要だった。王ではなく王国へ仕える組織」
「理念だけなら、正しいものだった」リディアが険しい声を挟む。「でも、その始まり自体が嘘だった」
「第二王子の死を隠したから?」エレナが尋ねた。
「それだけではない」リディアはセドリックを睨んだ。「兄は、セドリック・ヴァイスが証拠を消したと書いていた」
◇ ◇ ◇
ガレスの剣先が再び持ち上がる。「どういうことだ」
「説明してもらいましょう」レオもセドリックを見る。
老人はすぐには答えず、長い沈黙の後、局長室の暗闇へ視線を向けた。
「第二王子殺害の証拠は、すべて私が集めた。宰相の命令書、買収された侍医の証言、偽造前の門衛記録、事件当夜に使われた縄。それらを王へ提出した」
「その後、どうしたのです」
「燃やした」
リディアが目を閉じた。分かっていた答えを、改めて聞いたような表情だった。
「なぜです」エレナの声に怒りが混じる。
「王の命令だ」
「王命なら何をしても許されるのですか」
「当時の私は、そう考えていた」セドリックは否定しなかった。「証拠が残れば、いつか誰かが利用する。宰相側の貴族が王を脅す材料にするかもしれない。第二王子を支持する者が復讐のために使うかもしれない。だからすべてを消した」
「王国を守るためだと言って?」
「そうだ」
「では、あなたは最後のクロイスと同じではありませんか」
その言葉に、セドリックの表情が止まった。「都合の悪い真実を消し、残す記録を選んだ。違いがあるとすれば、あなたは最初にそれを行ったというだけです」
老人は反論しなかった。左目の下に刻まれた「零」の文字を、指先でなぞる。
「だから、零なのですか」エレナが気づく。「歴代局長より前、最初のクロイスですらない、始まりの罪を持つ者」
「その印は誰が刻んだのです」
「私自身だ」セドリックは答えた。「監察局を作った日、二度と忘れないために」
「自分が最初に記録を歪めた者であると?」
「そうだ」
「美しい話に変えないで」リディアが言った。「罪を忘れないため? 兄の日記には、あなたがその後も記録を消したと書かれていた。監察局が作られてからも、王家に不都合な事件を何度も封じたと」
「事実だ」
「それを反省と呼べるの?」
「呼んでいない」セドリックの声は静かだった。「私は必要だと判断した。国を守るために、公開すべきでない真実はある。今もそう考えている」
「なら、最後のクロイスと何が違うのです」とレオが尋ねた。
「範囲だ。私は、国が崩れる危険がある事実だけを封じた。最後のクロイスは、国を自分の望む形へ変えるために記録を使い始めた」
「どちらも自分の判断で真実を選んでいる。同じではありませんか」
「同じではない」セドリックの声が初めて強くなった。「私は必要最小限に留めた」
「誰が必要最小限だと決めるのです」レオは一歩も引かなかった。「あなたでしょう。最後のクロイスも、自分だけは正しく判断できると思っていたはずです。その考えを生んだのは、あなたが作った仕組みではないのですか」
最終記録庫に沈黙が落ちる。セドリックは杖を握りしめ、反論を探しているようにも見えたが、やがて小さく息を吐いた。
「ルイスも同じことを言った」
「兄が?」リディアが顔を上げる。
「監察局が壊れた原因は、最後のクロイス一人ではない。最初から、真実を選んでよいという考えが組織の底にあった。それを埋め込んだのは私だと」
「だから兄は、あなたと対立した」
「そうだ。白鴉計画を巡ってな」
◇ ◇ ◇
白鴉計画。当初は、混乱を避けるために記録の公開時期を管理する制度だった。封じる、保存する、時が来れば公開する――その三つが本来の原則だったという。
「私は、第二王子の事件で証拠を燃やしたことを後悔した」セドリックは語る。「だから次からは、消さずに封じる方法を作った」
「それが最終記録庫?」リアムが尋ねた。
「そうだ。王にも場所を知らせず、監察局だけで記録を守る。社会が真実を受け止められる時代になれば、公開する」
「ですが、公開する時期を誰が決めるのです」エレナが尋ねる。
「局長と最終記録官」
「クロイスとルイスのように?」
「本来は二人の合意が必要だった。一人だけでは記録を封じることも、公開することもできない」
そのため、局長室の零番棚にも二つの鍵が必要なのだという。監察局長が持つ鉄の鍵と、王家へ秘密裏に預けられる青銅の鍵。
「王家の鍵が必要なのですか」レオは外套の内側へ触れた。「監察局は王から独立していたはずです」
「独立と暴走は違う」セドリックは言った。「監察局だけで真実を独占すれば、いずれ自分たちを王以上の存在だと思い始める。だから最後の封印を開く時だけ、王家の代表が必要だった。それが安全装置だった」
「機能しなかったようですね」ガレスが皮肉を口にする。「王家へ渡された鍵は失われ、監察局は消えた。そして最後のクロイスは記録を改ざんした」
「だから私は十七年待った」セドリックはレオを見た。「青銅の鍵を持つ王家の者が、ここへ来るのを」
「なぜ私だと分かっていたのです」
「分かってはいなかった」
「では、十七年間ただ待ち続けたのですか」
「途中までは、ルイスが来ると考えていた」
リディアの表情が強張る。「兄が?」
「ルイスは青銅の鍵の在りかを知っていた。最後のクロイスが計画を変え始めた時、王家へ警告し、鍵を取り戻そうとしていた」
「でも、兄は殺された」
「そうだ。そして鍵は、旧・謁見の間に残された」
誰が隠したのか。ルイスか、別の協力者か、それとも最後のクロイス自身か。
「あなたは鍵の場所を知らなかったのですか」
「知らなかった。ルイスは最後まで教えなかった」
「あなたを信用していなかったから」
セドリックは苦く笑う。「当然だ。私は彼の前で、何度も真実を封じるべきだと主張した。最後のクロイスを止めたいという目的は同じでも、方法が違った。兄は公開を望んだ。私は封印の継続を望んだ。最後のクロイスは、記録を利用して王国を作り替えようとした」
三者の目的は異なっていた。だから監察局は内部から割れた。
「最後のクロイスの本名を知っていますね」レオが尋ねた。
セドリックの右目がわずかに細くなる。「知っている」
「教えてください」
「零番の棚を開ければ分かる」
「今ここで答えられない理由は?」
「私の言葉だけで名を出せば、お前たちはその人物を犯人だと決めつける」
「第一記録庫には、証拠なき断罪を禁ずるとありました」
「名前を聞いただけで断罪はしません」
「人は、名前を知った瞬間から、その者を疑う」
「疑うことと断罪することは違います」
「だが、疑いは見方を変える。零番には本人の記録がある――日記、命令書、白鴉計画の変更案、ルイスとのやり取り。それを読んでから判断しろ」
「都合の悪い記録を抜いてはいないでしょうね」エレナが厳しく問う。
「抜いていない」
「なぜ信じられるのです」
「信じる必要はない。中を調べればいい」
セドリックは局長室へ視線を向けた。「ただし、一つ問題がある」
「何です」
「零番の棚は、二つの鍵だけでは開かない」
ガレスが眉をひそめた。「先ほど二つ必要だと言っただろう」
「二つの鍵を同時に回す必要がある。それだけではない。棚の前に、歴代局長の記録を読み上げる仕掛けがある。言葉が正しければ開く」
「間違えれば?」
「中の文書へ油が流れ、火がつく」
ミアが青ざめる。「記録が燃えるのですか」
「暴力で開けようとした者に、何も残さないための仕掛けだ」
「誰がそんなものを作った」ガレスが呆れたように言う。
「私だ」
「反省している人間の作る仕掛けには見えんな」
「当時の私は、記録を守るためなら必要だと思っていた」
レオは局長室の暗闇を見つめた。零番の記録棚、最後のクロイスの正体、白鴉計画の最終報告、ルイスが殺された理由――すべてがそこにあるという。しかし、目の前の老人が語ることを、どこまで信じてよいのか分からない。
「先ほど逃げた黒い人物は、零番の棚を狙っていたのでしょうか」エレナが尋ねる。
「可能性はある。だが、局長室には入っていない」セドリックは扉の敷居を示した。薄く埃が積もっており、老人の杖と靴の跡以外、新しい足跡はなかった。
「では、なぜミアを連れてきたのです」
「帳簿の場所を聞き出すためでしょう」レオは少女を見る。「あなたを縛った者は、何か尋ねましたか」
ミアは首を横に振った。「目が覚めた時には、一人でした」
「では、直接聞くつもりはなかった?」リアムが考え込む。「彼女をここへ置けば、私たちが扉を開けると考えたのかもしれません」
「ミアは餌だったということか」ガレスの声が低くなる。「私たちを最終記録庫へ入れるための」
レオも同じ考えに至っていた。誰かは青銅の鍵を持つ自分たちが地下を調べていると知っていた。第三書庫のミアを攫い、最終記録庫へ閉じ込める。助けるには扉を開けるしかない。通常の仕掛けなら、レオたちは回廊に閉じ込められる。そして扉が開いた後、黒い人物は隠し通路から逃げた。
「私たちを閉じ込めることが目的だった」エレナが言った。「ですが、緊急解放の図面があったため失敗した」
「その図面を残したのは、ルイスです」リディアが便箋を見つめる。「兄は、いつか同じ罠が使われると考えていた」
「なら、兄さんを殺した人物も、この仕掛けを知っていた可能性があります」
「そうね」リディアは苦しそうに答えた。
◇ ◇ ◇
局長室の中は狭かった。壁際に机、古い椅子、天井近くまで並ぶ小さな引き出し。奥の壁には、人の背丈ほどある黒い鉄製の棚が埋め込まれ、中央には二つの鍵穴――右は細い鉄の鍵、左は青銅の鍵に合う形だった。棚の上には石板が掲げられ、一文だけ刻まれていた。
**真実を守る者は、その罪を先に読め。**
「歴代局長の記録を読み上げると言いましたね」レオが尋ねる。「どこにあるのです」
セドリックは机の下から一冊の本を取り出した。黒い革表紙、題名はない。開くと、最初の頁に短い文章が記されていた。
「これは、歴代クロイスが就任時に書く告白書だ。自分が過去に犯した罪、判断を誤った出来事、隠したいと思っている弱み――局長となる前に、すべて書かせる」
「なぜです」エレナが尋ねる。
「自分も完全な人間ではないと忘れさせないため」セドリックは苦く笑う。「だが、それも役には立たなかった」
最後の頁には、紙が破り取られた跡があった。「最後のクロイスの告白だけがない」
「本人が持ち去ったのですか」
「そう考えていた」セドリックが破れた跡を指でなぞる。「だが違う。紙は破られたのではない。新しい刃物で切られている」
切り口には、ほとんど埃がなかった。最近持ち去られたのだ。
「先ほどの黒い人物が?」ガレスが尋ねる。「局長室には入っていないはずでは」
リアムが床を見る。確かに入口には新しい足跡がない。だがセドリックは本を裏返した。裏表紙に、小さな穴が開いている。
「告白書は机の下の箱に入れていた。箱には、壁の裏から手を入れられる隙間がある。私も今まで気づかなかった」
「つまり、別の部屋から最後の頁だけ抜き取った」
レオは局長室の壁へ目を向けた。この地下には、誰も全体を把握していない通路がある。
「最後のクロイスの正体を示す記録だけ、先に消された」エレナが呟く。「零番の棚に残っている記録も無事とは限りません」
「だから今すぐ開ける」セドリックは鉄の鍵を拾い、右側の鍵穴へ差し込んだ。「王子、青銅の鍵を」
レオは動かなかった。「まだ、あなたを信用したわけではありません」
「信用は要らない。棚を開けなければ、相手に先を越される」
「すでに中身を抜かれている可能性もあります」
「なら、確かめる必要がある」
「開けるための言葉は?」
「告白書の最初に書かれている」
セドリックは本をレオへ差し出した。最初の頁には、監察局を作った者の告白が短く記されていた。
**我らは真実を守るために生まれたのではない。最初の真実を隠すために生まれた。**
レオはその言葉を見つめた。監察局の始まり、王国を守るという理念――その裏にあった、第二王子殺害の隠蔽。
「これを読み上げれば開くのですか」
「歴代局長は、この言葉を否定せず受け入れてから鍵を回した。自分たちの組織が、罪の上に作られたと忘れないために」
レオは青銅の鍵を取り出し、鍵穴へ差し込んだ。セドリックが鉄の鍵を握る。「同時に回す」
ガレスが二人の背後へ立った。「妙な真似をすれば斬る」
「分かっている」
レオは石板を見上げた。真実を守る者は、その罪を先に読め。そして告白書の一文を、声に出した。
「我らは真実を守るために生まれたのではない。最初の真実を隠すために生まれた」
石板の奥で、小さな音がした。カチリ。
「今だ」
二人が同時に鍵を回す。右へ半回転、次に左へ一度。棚の内部で、複数の留め金が外れていく。ガン、ガン、ガン。最後に重い音が響き、黒い扉がゆっくりと手前へ開いた。中には、十数冊の帳簿と細長い木箱が収められていた。
「残っている」セドリックが息を吐く。だが、レオはすぐに異変へ気づいた。
「一番下が空いています」
棚の最下段、資料の間に一冊分の隙間があった。埃の跡から、そこにも最近まで何かが置かれていたと分かる。
「何があった場所です」セドリックの顔色が変わる。
「白鴉計画の最終報告書」リディアが局長室へ駆け込む。「なくなっているの?」
「持ち去られた」
「いつ」
「分からない」
その時、木箱の下から折り畳まれた紙が滑り落ちた。レオが拾う。古い紙ではない。白く、新しい。中央には黒いインクで一文が書かれていた。
**最終報告書は、王の最も近くに置いた。**
その下には、白い鳥の印。翼は欠けていない。さらに小さく、日付が記されていた。昨日の日付だった。誰かが昨日、この零番の棚を開けている。青銅の鍵も、鉄の鍵も使わずに。
レオは紙を握りしめた。「王の最も近く……」
エレナが青ざめる。「王の寝室?」
「執務室かもしれません」リアムが言う。
「あるいは、人を指している」グレイストーンの声が重く響く。「国王陛下に最も近い人物」
家族。側近。護衛。侍医。誰を指しているのかは分からない。だが、白鴉計画の最終報告書は、すでに地下にはない。王宮の中心へ運ばれている。
◇ ◇ ◇
その時、鉄格子の向こう、遠い回廊から鐘の音が響いた。一度、二度、三度。王宮の非常鐘だった。
「何か起きた」ガレスが局長室を飛び出す。続いて、かすかに人の叫び声が聞こえた。地上からではない。地下通路を通して伝わってくる。
「陛下をお守りしろ!」近衛兵の声。
レオの表情が変わる。「王の最も近くに置いた」――それは、単に報告書を隠した場所を示す言葉ではない。報告書を使い、今まさに国王の周囲で何かを起こすという予告だったのだ。
レオは零番の棚から帳簿を一冊掴み、ガレスへ向き直る。「地上へ戻ります」
「鉄格子は閉じているぞ」
「別の出口があります」
レオは壁に広げられた地下図面を指差した。最終記録庫から北庭へ続く隠し通路――先ほど黒い人影が逃げた道だった。「相手が使った通路を追います」
セドリックが杖をつく。「その道は途中で二つに分かれる。一方は北庭、もう一方は国王の居住棟の地下だ」
レオは老人を見る。「案内してください」
「私を信用しないのではなかったか」
「信用していません」レオは即答した。「だから、私たちの前を歩いてください」
セドリックは一瞬驚いた後、低く笑った。「なるほど。確かに、王より王国を選ぶだけでは足りないようだ」
老人は壁の隠し留め具へ手を掛けた。石壁がゆっくりと開き、その向こうに狭い地下通路が現れる。冷たい風が流れ込んだ。そして暗闇の奥から、誰かが走ってくる足音が聞こえた。一人ではない。複数。
ガレスが剣を構える。レオも息を殺した。やがて、暗闇の中から一人の近衛兵が転がり出てきた。胸元を血で染め、肩で息をしている。
「殿下……」
兵士はレオの姿を見つけると、その場へ膝をついた。
「何がありました」
「国王陛下が……」
兵士は震える手で、通路の奥を指差した。
「陛下が、消えました」




