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第200話 クロイスを作った男

最終記録庫の最奥、零番と記された局長室の扉の前で、老人は杖をついて立っていた。痩せた体に長い灰色の髪、左目を覆う黒い眼帯。胸元には、翼の欠けていない白い鳥の印がある。


「私はクロイスではない」老人は静かに笑った。「私は、クロイスを作った者だ」


ガレスがレオの前へ出て剣先を向けた。「動くな。名前を名乗れ」


「名など、とうに捨てた。好きに呼べばいい」老人は剣を恐れる様子もなく記録庫を見渡した。「十七年ぶりに、これだけの客を迎えた」右目だけが細くなる。「招かれていない者も混じっているようだ」その視線は、鉄扉の外にいるリディアへ向けられていた。


リディアは壁へ手をつきながら、老人を睨み返す。「あなたが、兄を利用したのね」


「利用? ルイス・アルデンは自ら選んだ。記録を守ると、真実を残すと。その選択の結果、死んだだけだ」


「挑発するな」ガレスの剣がわずかに動く。


「事実を言ったまでだ」老人は杖を石床へ軽く打ちつけた。


レオは老人から目を逸らさなかった。「あなたは誰です。監察局でどのような立場にいたのかを尋ねています」


老人はしばらく黙り、局長室の扉へ片手を添えた。「監察局が作られる以前、王は王家内部の不正を調べるため数人の密偵を置いた。私はその一人だ。だが密偵には法も規律もなく、密告、拷問、偽証、記録のすり替え、どのような手段も許された。それでは王国を守れないと私は進言し、王に従うのではなく法と記録に従う組織を作った。それが監察局だ。局長が個人名を捨てクロイスを名乗る制度も、一人の人間が権力を独占しないために私が考えた。だが、結果は逆だった」


「最後のクロイスは、自分が真実を選べると思い込んだ」リディアが言う。


「誰よりも正しく制度を理解したからこそだ。記録は残すだけでは人を救わない。真実をそのまま公にすれば国が崩れることもある。だから必要な事実だけを選ぶべきだと考えた」老人は静かに答えた。


「それを改ざんと呼ぶのです。監察局の規律にも、最大の裏切りだと記されていました」エレナの声が鋭くなる。


「規律は道具にすぎない。国を救えないなら、使い方を変える必要がある」


「そう考えたのが、最後のクロイスですか。その考えを教えたのはあなた」レオが尋ねる。


老人は答えなかった。否定もしなかった。


   ◇ ◇ ◇


ミアはエレナの後ろに隠れ、老人を見つめていた。その手首には縄の跡が残っている。


「この子をここへ連れてきたのは、あなたですか」レオが尋ねた。


「違う。先ほど逃げた黒い人影のことも知らん。局長室にいた私が、最終記録庫のすべてを見張っていたわけではない」


「都合のよい答えですね。なら今ここで確かめる。黒い外套の者は誰だ。なぜ逃げ道を知っていた」ガレスが剣先を老人の喉元へ近づける。


「この地下には、私の知らない通路もある。仕組みを作ったのは監察局だが、地下を設計したのはオズワルド・レインとエリオット・バーンズを含む別の者たちだ」老人はリアムの問いに答えた。局長室から取り出した黄ばんだ図面を広げると、王宮地下の複雑な通路が描かれている。第一記録庫、最終記録庫、第三保管庫、旧・謁見の間。レオたちが通ってきた回廊のほか、王宮北庭の地下と城壁の外へ続く道が記されていた。


「黒い人影は北庭から入った可能性があります。ミアも北庭で襲われました。逃げた人物が、彼女を運んだのでしょうか」リアムが言う。


「可能性は高い。だが、なぜ記録員の娘を?」ガレスが答えた。


ミアが小さく口を開く。「帳簿を見たからだと思います。白い鳥の印がある帳簿を、第三書庫の床下、北側の棚の下に板が浮いている場所へ入れました。少しだけ読みました」ミアは記憶を辿るように眉を寄せる。「人の名前と日付が並んでいて、王宮で働いている人たちの名前でした。名前の横に丸や三角の印が書かれていて……一番後ろに、レオン王子の名前と、赤い丸がありました」


静寂が落ちた。老人が小さく笑う。「なるほど」


ガレスが即座に老人へ剣を向け直す。「何を知っている」


「赤い丸の意味なら知っている。監視対象だ」老人はレオを見つめた。「しかも、最優先のな」


   ◇ ◇ ◇


「その帳簿は監察局のものですか」エレナが尋ねる。


「違う。監察局は職員を丸や三角で分類しない。白鴉計画を引き継いだ者たちだろう」


「白鴉計画は終わったはずよ」リディアの顔が強張る。


「計画は終わらない。思想が残る限りは」


「白鴉計画とは何です」レオが尋ねる。


「人の記憶を管理する計画だ」老人は壁一面の記録へ杖を向ける。「人が過去を知るのは記録と噂と証言からだ。不都合な記録を消し、別の記録を残す。証言者の信用を奪い、噂を広める。それだけで人々の知る過去は変わる。魔法など必要ない。人間が何を信じるかを操るだけで、歴史は書き換えられる」


「王国全体の記憶を書き換えるための仕組み……」エレナが呟いた。


「最初は違った。白鴉計画は、王国を混乱から守るために始められた」老人は局長室へ目を向ける。「戦争や反乱の直後、すべての事実を公開すれば新たな争いが起きる。だから一定期間だけ記録を封じ、落ち着いてから公開する。それが本来の目的だった」


「最後のクロイスが変えたのですね。封じるのではなく、消す計画へ」レオが言う。


「そうだ。過去だけでなく現在の人間も分類するようになった。王国に必要な者、利用できる者、危険な者、消すべき者」


ミアが見た帳簿の丸や三角は、その分類を示している可能性が高い。


「赤い丸は監視対象。では、ほかの印は?」レオは老人を見据えた。


「三角は協力者候補、黒い線は排除対象。白い丸は、一人だけだ」


「誰の名前です」


ミアは答えるのをためらった。だがレオが頷くと、小さな声で告げた。「エドガー王子です」


レオの胸が強く打った。「白い丸の意味は」


老人はしばらく沈黙した。「完成対象だ。白鴉計画が、思想や記録操作にどれほど影響されるかを確かめる対象」


「エドガーは、最初から操られていたというのか」ガレスの顔から血の気が引く。


「すべてではない。人間は人形ではない。疑いを与え、必要な情報だけを見せ、敵を用意する。本人が自ら選んだと思えるように道を狭め、長い年月続ければ、人は望んだ方向へ歩く」老人は淡々と答える。


エドガーの疑念、兄への敵意、黒蛇会との接触。それらが誰かによって少しずつ育てられていた可能性がある。


「誰が今も計画を続けているのです。最後のクロイスですか」レオが尋ねる。


「生きているならな。死体は見つかっていない。監察局が消えた夜、局長室は空だった」老人の答えに、リディアが目を見開く。


「兄はクロイスが死んだと言っていた」


「ルイスはそう信じたかったのだろう。だが最後のクロイスは慎重な男だった。自らの死さえ、記録として作ることができた」老人は杖を握り直した。


   ◇ ◇ ◇


「あなたは十七年間、ここで何をしていたのです」エレナが尋ねた。


「最終報告書を守っていた。必要な時は出て、食料や水は城壁外の通路から運んだ。協力者はかつてはいたが、今はいない。皆、死んだ。あるいは、私から離れた」老人は一瞬だけ疲れた表情を見せた。


「あなたは白鴉計画を止めたいのですか。止めたいなら、なぜ今まで記録を公表しなかったのです」レオが尋ねる。


「公表する相手がいなかった。王家も貴族も軍も信用できない。民衆へ直接渡せば偽物として処分される。王より王国を選ぶ者を待っていた」老人はレオを見つめた。リディアの兄、ルイスが残した言葉と同じだった。


「あなたとルイスは協力していたのですか」


「途中までは」老人の声がわずかに低くなる。「だが最後に意見が分かれた。最終報告書を誰に託すか、私は封じ続けるべきだと考え、ルイスはいつか公開すべきだと言った。結果として、兄は殺された」


「あなたが居場所を漏らしたの?」リディアが老人を睨む。


「違う。それを知るためにも、零番の記録棚を開ける必要がある。そこには最後のクロイスが残した個人記録がある」老人は局長室の奥へ目を向けた。「開けられないのは、二つの鍵が必要だからだ」老人は胸元から細い鉄の鍵を取り出した。「一つは、私が持っている」


レオの外套の内側には、青銅の鍵がある。老人はそれを見透かしたように笑った。「王家へ渡された青銅の鍵だ。本来の用途は零番の棚を開けることだ」


「待って。その男を信じてはいけない」リディアが苦しそうに立ち上がる。


「なぜです」レオが尋ねる。


「兄の日記に書いてあった。監察局を作った者こそ、最初に記録を歪めた人間だと」リディアは老人を指差した。「この人は、王国を守るために監察局を作ったんじゃない。自分が行った罪を、永遠に隠すために作ったのよ」


老人の笑みが消えた。記録庫の空気が張り詰める。ガレスが剣を構え直した。老人はしばらく沈黙していたが、やがてゆっくりと眼帯へ手を伸ばす。


「ルイスは、そこまで調べていたか」黒い布を外す。隠されていた左目は潰れていなかった。その周囲には古い火傷の跡が広がり、瞼の下には小さな文字が刻まれていた。――零。


「ならば、話を最初からやり直す必要がある」老人は鉄の鍵を握りしめた。「監察局が生まれた夜。王宮で、本当は何が起きたのかをな」

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