第199話 ルイスの妹
最終記録庫へ続く地下回廊。巨大な鉄扉の前で、白髪交じりの女性が壁にもたれ、苦しそうに息をしていた。黒い外套は肩の部分が裂け、額から流れた血が頬を伝う。胸元の白い鳥の刺繍は、右の翼の羽が一本欠けていた。第一記録庫に残されていた封筒と同じ印だ。
「ルイス・アルデンの妹……」
レオが名を確かめると、女性は答えた。
「リディア・アルデンです」
立ち上がろうとしたリディアは膝に力が入らず崩れ落ちる。ガレスが駆け寄った。
「動くな。頭を打っている」
「触らないで……」
「敵なら、先に剣を向けている」
ガレスが傷を確認し、エレナが布を額へ当てる。傷は深くないが出血していた。
「休んでいる時間はない」
リディアが鉄扉を見た直後、ガンッ! 扉の向こうで何かがぶつかる音が響いた。
「中にいるのは誰です」
「分からない。私は中へ入っていない。声が聞こえたから、ここへ近づいただけ」
リアムが鉄扉の周囲へランタンを近づける。扉は分厚い鉄板で造られ、床の左右に細い溝が走り、中央には青銅の鍵穴がある。
「触れれば回廊が閉じると言いましたね」
「この扉と、通路を塞ぐ仕掛けが繋がっているの」
リディアは息を整えながら説明した。
「青銅の鍵を最後まで回せば最終記録庫は開く。代わりに分岐と入口側へ鉄格子が落ち、重りが落ち切れば換気口も閉じる。中へ入った者を、記録ごと閉じ込めるための仕掛けよ」
「随分と物騒だな」
「監察局が守ろうとしたのは、ただの紙ではない。王国そのものを壊しかねない事実よ」
◇ ◇ ◇
鉄扉の奥から、かすかな声が聞こえた。
「……誰か、いますか」
若い女の声だった。レオが応じる。
「います。名前を教えてください」
「……ミア・フォードです。第三書庫の補助記録員です。今年採用されたばかりの」
エレナが息を呑んだ。
「なぜそこにいるのです」
「分かりません。北庭へ行ったところまでは覚えています。書庫長に呼ばれたと書かれた紙が、机に置いてあって……」
「書庫長とは?」
「ハロルド・ベイン様です」
全員の表情が変わった。ハロルド・ベイン――監察局が消えた時代の記録を知りながら、現在も所在を明らかにしていない男だ。
「本人から直接?」
「いいえ。印が押された紙だけです。後ろから布を口へ当てられて、次に目を覚ました時にはここにいました。手首が痛いです。最初は縛られていました」
「今は一人ですか」
ミアはすぐに答えなかった。
「さっきまで、誰かいました。奥です。足音がして……声を出したら、いなくなりました」
最終記録庫の中には、ミアを連れ込んだ者がまだ潜んでいる可能性がある。
「扉から離れて、壁際に座っていてください。必ず助けます」
◇ ◇ ◇
レオはリディアへ向き直った。
「あなたは第三保管庫にいた人物ですね。黒い外套、体格、翼の欠けた白い鳥の印。あなたの外套から裂けた布が、この通路に残っていました」
沈黙の後、リディアは小さく認めた。
「……そうよ」
「なぜ逃げたのです」
「あなたたちを信用できなかったから。王子が監察局を調べていると知っても、王国のためか王家の都合かは判断できなかった」
「第一記録庫の封筒を置いたのも?」
「私よ。人形はもともとあった。兄から預かった封筒を、あそこへ結びつけた」
あの封筒には、最後の監察局長クロイスが記録を改ざんしたと書かれていた。
「兄は、あなたに何を頼んだのです」
「いつか王家の中から、消された記録を探す者が現れる。その者が王より王国を選べるなら、封筒を渡せと」
「私がその人物だと?」
「まだよ。だから監視していた。最終記録庫へ真っすぐ急ぐなら、止めるつもりだった。第一記録庫へ入ったから、姿を見せようと思った。けれど、この扉の前で背後から殴られた」
「誰に」
「見ていない。足音にも気づかなかった」
回廊に残っていた足跡は、リディアのものと思われる一人分だけだった。
「近くに別の通路があります。襲撃者はそこから逃げた可能性が高い」
「最終記録庫の全体構造を知っていたのは、歴代局長だけよ。私は兄から教えられた入口しか知らない」
◇ ◇ ◇
「ルイスは、監察局でどのような立場だったのです」
「表向きは文書係。本当は最終記録官だった。調査資料を照合し、改ざんがないことを確認して最終記録庫へ移す役目。兄の署名がなければ、局長でさえ記録を確定できなかった」
監察局にとって最大の裏切りは記録の改ざん。ルイスは、それを防ぐ最後の番人だった。
「だからクロイスに狙われた」
エレナの言葉に、リディアは黙って目を伏せた。
「兄は今も?」
「いいえ」
その声に深い悲しみが滲んだ。
「十六年前に死んだ。誰に殺されたのかは分からない。でも、クロイスの命令だった可能性は高い」
「最後の局長の本名は、クロイスではないのですね」
レオは第一記録庫で見つけた紙を思い出した。黒く消された名前。筆圧から読み取れた、クロイスという文字。
「クロイスは、個人名ではない」
リディアは言った。
「監察局長が代々引き継いだ呼び名よ。就任した者は、本名を表の記録から外し、クロイスと名乗った。命令は個人ではなく、監察局そのものの意志として残される」
「では、裏切った最後のクロイスには、別の本名がある」
「そうよ」
「名前の頭文字は、レだった可能性があります」
リアムが言う。第一記録庫の紙には、クロイスに続いて「レ」と読める筆圧が残っていた。
「本名までは、私も知らない。兄は最後まで教えなかった」
「白鴉については?」
「第一記録庫の索引に、『白鴉計画・最終報告書』とありました」
リディアの顔色が変わった。
「その名を、ここで大きな声にしないで。誰が聞いているか分からないから」
「監察局は消えたのではないのか」
「組織としては消えた。でも、この地下へ出入りする者はいる。私が来るたびに、資料の位置が変わっていた」
「見張っているのか、消そうとしているのかは分からない」
◇ ◇ ◇
鉄扉の奥から、再びミアの声がした。
「誰か……」
「ここにいます」
「足音が、また聞こえます。奥で何かを動かしています」
時間はない。レオは青銅の鍵を取り出した。
「扉を開けます」
「待って」
リディアが止める。
「通常の方法で開ければ、全員が閉じ込められる」
「局長室に解除装置があるのでは?」
「あるはずよ。でも辿り着ける保証はない」
レオは第一記録庫の人形から落ちた金属札を取り出した。表には「零」。裏には「局長室」。
「これは?」
リディアが札を見て目を見開く。
「零番の記録棚。局長室にだけある隠し棚よ。そこに解除方法があるはず。私は兄に止められて、入ったことがない」
声が震える。
「最終記録庫には、クロイスが残したものがある。記録だけではない、と兄は言っていた」
何を意味するのかは、彼女にも分からないという。
「私が中へ入ります」
「却下だ」
ガレスが即座に返す。
「王子を閉じ込められる場所へ入れられるか」
「中にミアがいます」
「だから俺が行く」
「記録を判断する者も必要です」
話し合いの結果、中へ入るのはレオ、ガレス、エレナ。外にはリアム、グレイストーン、リディアが残り、別の入口と解除方法を探すことになった。
レオは鍵を鍵穴へ差し込んだ。
「一段目まで回してください」
リアムが扉へ耳を当てる。レオがゆっくり鍵を回す。カチリ。内部で留め金が外れた。
「次に進めば、重りが落ちます」
その時、リディアが声を上げた。
「待って!」
彼女は第一記録庫から持ち出した便箋を、ランタンの光へ透かしていた。紙の繊維の間に薄い線が浮かんでいる。鉄扉、鎖、重り、遮断格子――そして鍵穴から伸びる、もう一本の線。
「緊急解放の図面です。鍵を奥へ押し込みながら反対側へ回せば、遮断装置を動かさずに外扉だけを開けられます。ただし、一度しか使えません」
図面の隅に注意書きがあった。緊急解放を使えば内部機構は壊れ、二度と閉じられなくなる。
「最終記録庫が無防備になる。十七年間守られた記録が、誰にでも持ち出せる状態になるのよ」
「中にいる人命を優先します」
レオは迷わなかった。
「記録は兵を配置して守れます。記録を守るために、罪のない者を見捨てれば――それこそ監察局が掲げた理念への裏切りです」
リディアはしばらく黙り、やがて静かに頷いた。
「兄も、そう言ったと思う」
◇ ◇ ◇
レオは鍵を強く奥へ押し込んだ。わずかに沈む。そのまま左へ回す。ガリッ。錆びた金属が擦れ、内部で何かが外れた。ガンッ! 鉄扉が手前へわずかに傾く。
「遮断装置は動いていません!」
ガレスとレオが扉へ手を掛け、エレナも加わり三人で押した。鉄扉は激しく軋みながらゆっくりと開いていく。人一人が通れる隙間ができた。
「ミア!」
暗闇から少女が走ってくる。
「伏せろ!」
ガレスが叫び、ミアを床へ引き倒した。直後、闇の奥から細い金属片が飛来し、壁へ当たって甲高い音を立てて落ちた。
「中にいる!」
ガレスが隙間から最終記録庫へ入る。レオとエレナも続いた。ランタンの光が、高い棚、積まれた木箱、床へ散乱した文書を照らす。その奥を、黒い人影が走り去る。
「止まれ!」
ガレスが追う。人影は右奥の棚へ手を掛けた。棚が横へ動き、隠し通路が現れる。人影が滑り込むと、棚はすぐに戻り始めた。ガレスも飛び込もうとしたが、レオが外套を掴んで引き戻す。直後、重い棚が石壁へ収まった。
「逃げられた」
「今はミアが先です」
エレナが少女を抱き起こす。ミアの手首には縄の跡があり、服は埃まみれだった。
「第三書庫で、何か見たのですね」
ミアは震えながら頷いた。
「三日前、棚の奥に知らない帳簿が入っていました。表紙に白い鳥の印がありました。書庫長の机へ持っていこうとしましたが、途中で黒い服の人に渡せと言われて……怖くなって、別の場所へ隠しました」
「どこです」
ミアが答えようとした、その時。記録庫の最奥で、ゴトリ、と音がした。先ほど人影が消えた棚とは反対側。小さな扉がゆっくり開いていく。扉には金属札が掲げられていた。――零。
「局長室……」
暗い部屋から一本の杖が現れた。続いて、白い手袋をはめた手。
「ようやく来たか」
低い男の声が響いた。一人の老人が、局長室から姿を見せる。痩せた体、長い灰色の髪、左目を覆う黒い眼帯。胸元には、翼の欠けていない白い鳥の印。老人はレオを見つめ、静かに笑った。
「十七年も待った。レオン王子」
鉄扉の外から老人を見たリディアが、息を呑んだ。
「違う……その人は、最後のクロイスではない」
老人の笑みが深くなる。
「その通りだ」
杖の先が、石床を一度叩いた。
「私はクロイスではない」
老人は胸元の白い鳥へ手を添えた。
「私は、クロイスを作った者だ」




