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第198話 裏切り者の名

第一記録庫の中央。古びた外套を着せられた木製の人形は、椅子に座ったまま動かない。胸元には一通の封筒があり、黒い封蝋には翼を広げた白い鳥、監察局の印が刻まれていた。そして紙にはこう記されている。


**ここへ来た者よ。最終記録庫へ進む前に、裏切り者の名を知れ。**


レオはすぐには封筒へ手を伸ばさなかった。「誰も触れないでください」静かに告げると、ガレスが剣を構えたまま周囲を見回した。「罠か?」「分かりません。ですが、あまりにも見つけやすく置かれています」


第三保管庫で見つけた木箱、旧・謁見の間に舞い込んだ白紙、密室に残されていた青銅の鍵。そして今度は、裏切り者の名を知れと書かれた封筒。ここまで来た者が必ず手に取るよう、中央へ置かれている。


「リアム」「はい」「扉と床を確認してください」「承知しました」リアムはランタンを床へ置き、まず人形の周囲を調べ始めた。椅子の脚、石床の継ぎ目、封筒へ繋がる糸――何かを引けば作動する仕掛けがないか、慎重に確かめていく。エレナは部屋の入口に立ち、先ほど音が聞こえた最終記録庫側の回廊へ注意を向けていた。グレイストーンは棚を見渡しながら、低い声で呟く。「人形を置く必要があったのか」「どういう意味です?」ガレスが尋ねる。「封筒だけなら、机の上でも棚の中でもよかった。それをわざわざ人の形にして座らせている」


レオも同じ違和感を抱いていた。人形はただの目印ではない。誰かを表している。外套は黒、帽子も黒。顔にあたる部分には何も描かれていない。名前を失った者、歴史から姿を消された者。まるで、これまで調べてきた監察局そのものを表しているようにも見える。


しばらくして、リアムが立ち上がった。「仕掛けは見当たりません。椅子は床へ固定されていますが、封筒とは繋がっていません」「固定されている?」レオが人形の足元へ視線を落とす。確かに椅子の脚は金属の留め具で石床へ打ちつけられていた。「動かされたくなかったのでしょう」エレナが言う。「あるいは、位置そのものに意味がある」


レオは部屋を見回した。人形は扉を向いて座っている。背後には大きな棚、左右には同じ高さの書棚が並び、まるで第一記録庫へ入ってきた者を正面から迎えるように置かれていた。


「封筒を開けます」レオが黒い封蝋へ手を掛けた、その瞬間。「待て」グレイストーンが止めた。「何か気づきましたか」「封蝋を見ろ」レオはランタンを近づけた。白い鳥、翼を広げた監察局の印。一見すると、これまで見つけたものと同じだ。しかし、よく見ると違いがあった。「翼の先が……欠けています」エレナが気づく。右の翼だけ、羽が一本少ない。偶然割れたのではなく、型そのものが異なっている。


「第三保管庫で拾った手袋とも違います」リアムが言う。「あの刺繍には『監察』の文字がありました」「ルイスの家で見つけた金属筒の印とも、細部が違います」レオは封蝋をじっと見つめた。「監察局には複数の印があったのでしょうか」「部署ごとか、役職ごとか」グレイストーンが答える。「あるいは、偽物を見分けるためにな」


その言葉に、全員が黙った。監察局の印が一つではない。だとすれば、これまで白い鳥が付いているというだけで、すべて同じ組織のものだと考えていたこと自体が危うくなる。見えている証拠ほど疑え――白紙の伝言にあった言葉が、再び重く胸へ落ちた。


レオは小刀を取り出し、封蝋そのものを壊さず紙との接着部分だけを慎重に剥がして、中の便箋を取り出した。一枚ではない、三枚だった。最初の紙には短い文章が書かれている。レオは声に出して読んだ。「――この記録を読む者へ。裏切り者は一人ではない」ガレスの眉が寄る。「名を知れと書いてあったのに、一人ではないのか」レオは続きを読む。「――だが、すべての裏切りは、一つの名から始まった。その名を記す前に、我々が何を裏切りと呼んだのかを残す」


二枚目には、監察局の規律らしき条文が並んでいた。一、王命が王国の法に反する時、監察者は命令を拒むこと。二、王家の血筋が民を害する時、監察者は王家を守ることより王国を守ること。三、証拠なき断罪を禁ずる。四、監察記録の改ざんを、最大の裏切りと定める。五、監察者の名を私益のために用いることを禁ずる。


エレナがゆっくり息を吐いた。「監察局にとっての裏切りは、王へ逆らうことではない。記録を歪めることです」レオも頷いた。「真実を守る組織だからこそ、記録の改ざんを最も重い罪とした」「なら、今まで消されていた名前や資料は……」リアムが棚を見回す。「監察局の規律に反する行為です」「内部の誰かがやったことになるな」ガレスが低く言った。


三枚目には、一人の人物について記されていた。だが名前の部分は黒い線で塗り潰されている。「また消されている……」エレナが眉をひそめる。レオは文章を読み進めた。「――彼は監察局の設立以来、最も優秀な監察官であった。王宮内部の不正を暴き、多くの者を救った。我々は彼を信頼し、最後の局長へ推した」


部屋の空気が変わる。最後の局長――記録から名前を切り取られていた人物。「この人物が、裏切りの始まり?」リアムが尋ねる。「まだ続きがあります」レオは紙を持つ手に力を込めた。「――だが彼は、真実を守る者ではなく、真実を選ぶ者になった」「真実を選ぶ?」ガレスが聞き返す。「都合のいい事実だけを残したということでしょう」エレナが答えた。「自分が王国のために必要だと判断した真実だけを」


レオは最後の段落を読む。「――彼は言った。民にすべての真実を知る権利はない。王にもすべてを知る必要はない。正しい未来を作るためなら、過去は書き換えられるべきだと」誰も声を出さなかった。それは監察局の理念を、根本から裏返す考えだった。記録を守るのではない。記録を選び、消し、必要なら作り替える。真実の番人ではなく、歴史の支配者になろうとした人物。


「白鴉……」エレナが小さく呟いた。レオはすぐには肯定しなかった。「その可能性はあります。ですが、この紙にはまだ白鴉という言葉は出ていません」ガレスが黒く塗り潰された名前を見る。「消された部分を読めないか」リアムが紙を受け取り、ランタンの光へかざした。表からは黒い線しか見えない。裏返すと、「筆圧が残っています」彼は指先で紙の凹凸を確かめた。「下に柔らかいものを置いて書いたようです。名前の形が裏側に残っているかもしれません」


部屋の隅にあった小さな作業台へ紙を平らに置き、横から光を当てる。斜めの光によって、表面のわずかな凹凸が影になった。「最初の文字は……ク、でしょうか」リアムが目を細める。全員の表情が引き締まる。オズワルドの記録室で見つかった紙片の「クロ……」。第三保管庫で逃げた人物が落とした手袋の擦り切れた所有者名に残っていた「ク」。それらが再び繋がった。


「次は、ロ。ク、ロ……」「クロードか」ガレスが言う。「まだ決められません」レオは制した。リアムはさらに慎重に文字の痕跡を追う。「三文字目は、縦に長い線があります。イ、かもしれません」「クロイ……?」エレナが首を傾げる。「人名としては不自然ですね」「クロイス」グレイストーンが突然口を開いた。全員が彼を見る。「思い出したのですか」レオが尋ねる。グレイストーンは険しい表情で紙を見つめていた。「いや。だが、昔聞いた名に似ている」「誰から?」「前王の近衛隊長からだ。私がまだ若かった頃、一度だけ忠告された。王宮で白い鳥の印を見ても、クロイスには近づくな、と」「クロイスとは何者です」「当時は尋ねても教えてもらえなかった。名前なのか、呼び名なのかも分からん」


リアムが再び紙を確認する。「四文字目は……スに見えます」黒く塗り潰された名、その下に残っていた筆圧――クロイス。レオはその名を心の中で繰り返した。「姓はありませんか」「続きがあります」リアムがさらに右へ光をずらす。「間に空白があります。その先は……」紙が古く、細かな傷も多い。文字の跡を判別するのは難しいが、それでも最初の一文字だけは見えた。「レ、です」「クロイス・レ……」エレナが呟く。レイン、レイフォード、レナード――いくつもの姓が考えられる。だが一つだけ、レオの記憶に引っかかる名があった。「レインではありませんね」オズワルド・レイン、地下工事の責任者。しかし彼は特別監督官ではない。人員名簿には、オズワルドの下に別の人物が記されていた。


「紙片に残っていた『クロ』」レオが静かに言う。「おそらく名前の一部ではなく、このクロイスを指していた」「なら、特別監督官も最後の監察局長も同じ人物?」ガレスが尋ねる。「可能性は高いです」エレナが答える。「監察局長なら、地下工事の特別監督官へ任命されても不自然ではありません」


レオは封筒の中を改めて確認した。三枚の便箋以外にも、薄い紙が一枚残っている。折り畳まれた、小さな一覧表だった。開くと、日付といくつかの記録番号が並んでいる。すべて十七年前。最後の欄には赤い印が押されていた――移送済み。「最終記録庫へ運ばれた資料の一覧でしょうか」リアムが覗き込む。「番号だけでは内容が分かりません」「第一記録庫の棚に、対応表があるかもしれません」エレナが周囲の帳簿へ目を向ける。


レオは一覧表の最下部に、小さな文字を見つけた。インクが薄く、今にも消えそうだった。「ここに名前があります」全員が近づく。レオは読み上げた。「――移送責任者、ルイス・アルデン」その下、確認者の欄には別の名前が記されている。しかし、その名前も途中までしか残っていなかった。「――エリオット・バ……」「エリオット・バーンズ」リアムが言った。オズワルドの工事に関わり、十七年前に姿を消した測量士。ルイスとエリオットは、共に最終記録庫へ資料を運んでいた。「二人は協力者だった」エレナが言う。「ルイスだけが記録を運んだのではありません」「だから、ルイスは裏切っていないと伝言にあったのでしょう」レオは一覧表を見つめる。「ルイスは任務を遂行した。しかし、その後で誰かが記録を改ざんし、彼を裏切り者に仕立てた」「クロイスが?」ガレスが尋ねる。「まだ断定はできません」そう答えながらも、すべての線が一人へ集まり始めていることを、レオも感じていた。最後の監察局長。地下工事の特別監督官。記録を選び、歴史を書き換えるべきだと主張した人物。クロイス。そして、白鴉。


   ◇ ◇ ◇


「まず棚を調べましょう」レオの言葉で、五人は手分けして第一記録庫の資料を確認し始めた。部屋は思っていた以上に広い。左右の壁には天井近くまで棚が並び、中央にも低い書棚が何列も設けられている。資料には番号が振られていた。王宮監査、貴族会計、軍需品、裁判記録、地方税。監察局は王宮内部だけでなく、王国全体の不正を調べていたらしい。ただし保存されているのは調査結果そのものではなく、いつ何を調査したか、どの資料を集めたか、どこへ移したかを管理するための台帳が中心だった。


「第一記録庫は、記録の入口だったのでしょう」エレナが一冊の台帳を開きながら言う。「ここで資料を分類し、重要なものだけを最終記録庫へ移す」「だから第一と最終なのか」ガレスが納得したように頷く。「第二がないのではなく、段階を表しているのかもしれんな」レオも同意した。第一記録庫は最初に記録が集められる場所。最終記録庫は確認を終え、決して失われてはならない真実が保管される場所。


「ありました」リアムの声が響く。彼が持っていたのは分厚い索引帳だった。表紙には「――最終移送記録 王暦三百八十六年」と書かれている。十七年前の記録。一覧表に書かれた番号を照合していく。一つ目、王宮地下工事費の不正流用。二つ目、監察局職員への秘密命令。三つ目、王位継承に関する非公開調査。四つ目、黒蛇会前身組織の資金記録。黒蛇会。その名に、全員の動きが止まる。「十七年前から存在していた?」エレナが驚く。「少なくとも、前身となる組織はあったようです」


レオは索引帳を受け取り、さらに下へ目を通す。五つ目、アークライト公爵家と王宮監察局の接触記録。六つ目、エドガー王子付き侍従の秘密報告。七つ目、監察局長による記録改ざんの証拠。「これです」リアムが言う。「裏切りを証明する資料」レオは記録番号を確認した。一覧表にも同じ番号がある。移送済み。つまり、その証拠は最終記録庫にある。「クロイスという人物の正体も、最終記録庫で分かるかもしれません」エレナが言った。「姓まで記された任命書や、人事記録が残っていれば」


その時、索引帳の最後の項目が目に入った。八つ目、**白鴉計画 最終報告書。**レオの呼吸が止まる。白鴉は人物の呼び名ではなかった。少なくとも、この記録上では。「計画……?」ガレスが険しい顔になる。「組織でも、人でもなく?」「分かりません」レオは記録番号を指でなぞった。「白鴉という名の計画があった。そして、その最終報告書は最終記録庫へ運ばれている」黒幕を示す名だと思っていた白鴉。黒蛇会の背後で動き、エドガーを利用し、王宮内部の記録を消し続けた存在。だが白鴉が計画名なら、その計画を実行した者が別にいる。クロイス。最後の局長。白鴉計画。まだ両者の関係は分からない。


カン――。再び、最終記録庫の方向から音が響いた。今度は先ほどより大きい。続いて、何かを引きずるような音。ギ……ギギ……。「扉を開けようとしている?」リアムが入口へ駆け寄る。ガレスも剣を構えた。「先に行った者が、最終記録庫へ入ろうとしているのか」「あるいは」グレイストーンが低く言う。「中から出ようとしている」その言葉に、全員が沈黙した。足跡は最終記録庫へ向かうものだけだった。戻った跡はない。先行した人物がまだ奥にいると考えていたが、最終記録庫の中に最初から誰かがいた可能性もある。


「必要な記録は確認しました」レオは索引帳と封筒をまとめる。「最終記録庫へ向かいます」「今度は追うんだな」ガレスが尋ねる。「はい。第一記録庫が伝えようとしたことは分かりました。裏切り者は、記録を改ざんした最後の局長。名前はクロイス。そして白鴉は、少なくとも最初は何らかの計画名でした」エレナが人形を振り返る。「封筒は持ち出しますか」「すべて持っていきます。ここへ戻れる保証はありません」レオは封筒を外套の内側へ収めた。


その時、人形の胸元に隠れていた小さな金属片が床へ落ちた。乾いた音。拾い上げると、細長い札だった。表には一つの番号――零。裏には短い文字。**局長室。**「零番……」リアムが呟く。「最終記録庫の鍵でしょうか」「青銅の鍵とは別に?」エレナが尋ねる。レオは札を握りしめた。「おそらく、最終記録庫の中にある局長室を示しています」監察局長だけが使った部屋。そこに、クロイス本人の記録が残っている可能性がある。


   ◇ ◇ ◇


五人は第一記録庫を出た。扉は閉めなかった。もし戻る必要が生じた時、組み合わせ錠を再び解く時間を失わないためだ。分岐へ戻ると、最終記録庫側の通路には変わらず一人分の足跡が続いている。だが、先ほどまではなかったものが床に落ちていた。細い黒布。「外套の切れ端です」エレナが拾い上げる。第三保管庫で見た、小柄な人影。黒い外套。「同じ人物でしょうか」リアムが尋ねる。「可能性はあります」布の端は刃物で切られたのではなく、何かに引っ掛かり裂けたようになっている。ガレスが通路の壁を照らすと、石の角に黒い糸が残っていた。「急いでいたようだな」


足跡も先ほどとは変わっている。第一記録庫へ入る前には一定の歩幅だったが、ここから先は間隔が広くなり、ところどころ滑った跡がある。「走っています」レオが言う。「何かから逃げている?」エレナが声を潜める。その直後、回廊のさらに奥で激しい音が響いた。ガンッ!何かが扉へ衝突したような音。続いて、人の声。「開けて!」女の声だった。かすかだが、確かに聞こえた。「中に誰かいます!」リアムが叫ぶ。


レオたちは一斉に走り出した。暗い回廊を、ランタンの光が激しく揺れる。「聞こえますか!そこにいるのは誰です!」レオが呼びかける。少し間を置いて、再び声が返った。「近づかないで!扉に触れたら、回廊が閉じる!」レオたちは足を止めた。前方、ランタンの光の先に巨大な鉄扉が見える。最終記録庫の入口。その前の床には、小柄な人物が倒れていた。黒い外套――第三保管庫で逃げた人影だ。だが、声は扉の向こうから聞こえている。つまり、倒れている者とは別に、最終記録庫の中にも誰かがいる。


レオが近づこうとした瞬間、倒れていた人物が顔を上げた。外套の頭巾がずれ落ちる。現れたのは、白髪交じりの女性だった。年齢は六十を超えているだろう。青ざめた顔、額から血を流している。そして彼女は、レオを見るなり震える声で言った。「その鍵を……使ってはいけません。青銅の鍵は、最終記録庫を開くためのものではない」


レオは息を呑んだ。「あなたは誰です」女性は苦しそうに体を起こす。その胸元には、白い鳥の印が刺繍されていた。右の翼の羽が一本欠けた印。第一記録庫の封蝋と同じものだった。「私は……」彼女は扉を振り返り、声を絞り出す。「最後の監察局長クロイスを止められなかった者。ルイス・アルデンの妹――リディア・アルデンです」

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