第192話 託された証拠
燃え残った裏庭には、まだ湿った煙の匂いが薄く漂っていた。焼け焦げた木材の間を縫うようにして、レオは慎重に金属製の筒を両手で持ち上げた。表面は煤で黒く汚れているが、封蝋そのものは焼け落ちていない。よく見れば、蓋の部分には白い鳥の紋章が浮き彫りにされている。監察局の印だった。
「火の中でも残るように作られていますね」
リアムが筒の表面をそっと指でなぞりながら、静かに言った。触れた感触からしても、これは鉄ではない。熱に強い特殊な合金だ。ずしりとした重みの奥に、精緻な工作の跡がうかがえる。
「最初から、長期間保管するための容器だったのでしょう」
レオは小さく頷いた。誰かがこれを、いつか誰かの手に届くようにと、あらかじめ用意していたのだ。そう考えると、筒そのものが一つの意志を持っているように思えてくる。
「ここで開けますか?」
エレナが尋ねる。レオはすぐには答えず、周囲をゆっくりと見回した。焼け跡の向こうには野次馬が群れをなし、消火活動を続ける兵士たちが行き交っている。何人もの視線が、こちらへ向いていた。好奇心か、あるいは別の思惑か。今はまだ判別がつかない。
「いいえ」
レオは短く答えた。
「王宮へ持ち帰ります。ここで中身を見せるべきではありません」
ガレスも同意するように頷いた。
「誰が火を放ったか分からん以上、情報は漏らさない方がいい。この筒の中身が何であれ、迂闊に晒せば厄介事を呼び込みかねん」
その言葉に、誰も異を唱えなかった。焼け跡という場所そのものが、既に十分すぎるほど不穏だった。
そのとき、一人の近衛兵が息を切らして駆け寄ってきた。
「殿下! 火元を調べました」
「どうだった」
「暖炉からではありません。油が撒かれていました」
レオの表情が、すっと引き締まる。
「放火ですね」
「はい。しかも複数箇所から同時に火が出ています」
偶然の火災ではなかった。誰かが意図的に、証拠を消すためにこの家を焼いたのだ。その事実は、筒の存在そのものに新たな意味を与えていた。誰かがここに何かを隠し、そして別の誰かが、それを闇に葬ろうとした。二つの意志がこの焼け跡でぶつかっている。
しかし、レオは焼け跡をもう一度見回しながら、小さく首を傾げた。
「……妙ですね」
「何がだ」
ガレスが尋ねる。
「放火犯は、この筒を見つけられなかったのでしょうか。これほど徹底的に燃やしたのなら、家の中も外も、隅々まで探したはずです」
リアムがしゃがみ込み、筒が埋まっていた辺りの土を丁寧に調べ始めた。指先で土をすくい、層 の重なりを確かめるように、しばらく無言のまま作業を続ける。やがて顔を上げた。
「違います。この土は、火事のあとに掘り返された形跡がありません。表面の焼け方と、下の土の締まり方が一致しています。もし放火犯がここを掘っていたなら、土の色も硬さも変わっているはずです」
全員が息を呑んだ。沈黙が焼け跡に落ちる。
「つまり」
エレナがゆっくりと口を開いた。
「筒は火事の前から埋められていた、ということですね」
「ええ」
レオは頷いた。
「そして放火犯は、それを知らなかった。この家に何が埋まっているかも知らないまま、証拠隠滅のために火を放った。皮肉なことに、その放火のおかげで、この筒はかえって見つかりやすくなったわけです」
誰かが用意周到に隠したものを、別の誰かが何も知らずに暴き出す。十七年という歳月を経て、ようやくその歯車が噛み合ったのかもしれない。レオは筒を布でくるみながら、そんなことを考えていた。
◇ ◇ ◇
王宮へ戻ると、レオたちはそのまま足を止めることなく執務室へ集まった。扉の前には近衛兵が二人立ち、誰も中へ入れないよう厳重に守らせている。すでにグレイストーンも合流しており、狭い部屋の空気は張り詰めていた。誰も口を開かず、机の上に置かれた金属筒だけが、静かに全員の視線を集めていた。
「開けます」
レオはそう告げると、机の上へ金属筒を丁重に置いた。封蝋を傷つけないよう指先に慎重に力を込め、蝋の縁をそっと外していく。それから、ゆっくりと蓋を回した。
カチッ。
乾いた音が、静まり返った部屋に響いた。その小さな音だけで、部屋の緊張が一段と増したように感じられた。
中に入っていたのは、一冊の小さな手帳だった。革表紙で、大きさは手のひらほど。長い年月、湿気からしっかりと守られていたためか、保存状態は驚くほど良好だった。表紙には何も書かれておらず、ただ使い込まれた革の質感だけが、それが長く誰かの手元にあったことを物語っている。レオは息を整えると、静かに最初のページを開いた。
そこに記されていたのは、名前ではなかった。日付だった。
――王暦三百八十六年、四月十二日。
十七年前。地下工事が始まった頃と、時期がぴたりと一致する。その下には、几帳面な字で次のような文章が続いていた。
「本日より記録を残す。もし私が姿を消したなら、この手帳を読んだ者に真実を託す」
誰も言葉を発しなかった。部屋には、ページをめくる紙の音だけが響いていた。書き手が何者であるかはまだわからない。だが、この一文だけで、これがただの業務日誌ではないことは明らかだった。
二ページ目には、監察局の日常が淡々と綴られていた。地下工事の進捗、資材の搬入記録、監査の結果――どれも表向きは公的な記録と何ら矛盾しない、平凡な内容だった。
「普通の日誌ですね」
エレナが言う。
「そう見えます」
レオも頷いた。だが、そのままページをめくっていくと、五日目、六日目、七日目と記述は淡々と続き、そしてある日の記述で、レオの手がふと止まった。
そこには、これまでとは違う筆致で、短くこう書かれていた。
「本日、監察対象が変更された。地下工事ではない。我々が監視すべき相手は、王宮の外ではなく、王宮の中にいる」
ガレスが息を呑む。
「王宮の中……」
グレイストーンの表情も、みるみる険しくなっていく。これは反乱軍でも、黒蛇会でもない。十七年前という、誰もが平穏だったと信じていた時期に、監察局はすでに王宮内部の誰かを密かに追っていたのだ。その事実の重みが、部屋の空気をさらに冷たくした。
レオはさらに次のページを開こうとした。その瞬間、手帳の間から一枚の紙がひらりと床へ滑り落ちた。
リアムがすぐに拾い上げる。
「地図……でしょうか」
古い羊皮紙だった。描かれていたのは王宮の見取り図。線は薄れかけているが、建物の配置ははっきりと読み取れる。そして、その図の中で一か所だけ、赤い印が付けられていた。
第三保管庫でもない。オズワルドの屋敷跡でもない。印が示していたのは――。
「旧・謁見の間……?」
エレナが驚いたような声を漏らした。その場所は十五年前に取り壊され、今は誰も足を踏み入れない、忘れられた区域のはずだった。
レオは地図をじっと見つめながら、静かに言った。
「次に向かう場所が決まりました。監察局が最後に残した手掛かりは、まだ王宮の中にあります」




