第191話 ルイスの足跡
翌朝。
王宮の文書管理室には、机いっぱいに古い帳簿や名簿が広げられていた。埃をかぶった革表紙の台帳が幾重にも積み上げられ、窓から差し込む朝の光の中で紙の匂いが漂っている。
レオ、エレナ、リアムの三人は、夜明けから一言も無駄話をせず資料を読み続けていた。ページをめくる音と、時折羽根ペンが走る音だけが室内に響く。
ガレスだけが腕を組み、大きく息を吐いた。
「書類というのは、戦場より疲れるな」
その言葉に、エレナが思わず小さく笑う。
「お気持ちは分かります」
「ですが、今は一枚でも多く確認しなければ」
エレナはそう言いながらも、目の前の名簿から視線を離さなかった。何百という名前の中から、たった一つの手がかりを探し出す作業は、剣を振るうよりよほど根気を要する。
ガレスも苦笑しながら椅子に腰を下ろした。
「俺にも何かできることはあるか」
「あります」
レオは一冊の名簿を差し出した。
「同じ人物が別の部署へ異動していないか確認してください。名前が変わっている場合もあります。同じ筆跡や、同じ生年月日を手がかりに探してください」
「任せろ」
そう言うと、ガレスも資料へ目を通し始めた。武骨な指で紙をめくる様子は不慣れながらも、真剣そのものだった。
時間だけが静かに過ぎていく。誰も口を開かず、ただ紙をめくる音だけが積み重なっていった。
◇ ◇ ◇
昼近くになって、ようやく空気が動いた。
「ありました」
最初に声を上げたのはリアムだった。手にした資料を握りしめ、興奮を隠しきれない様子で顔を上げる。
「ルイスです」
全員が振り向く。
リアムは数枚の資料を机の上に並べ、指でなぞりながら説明を始めた。
「正式名はルイス・アルデン。王宮書庫管理部所属。二十一年前に採用され、十七年前に退職となっています」
「退職理由は?」
レオが尋ねる。
リアムは静かに首を横へ振った。
「やはり書かれていません。しかも――」
言葉を切り、リアムはもう一枚の書類を示した。
「退職届そのものが残っていないんです」
「普通は残るはずですね」
エレナが眉をひそめて言う。
「はい」
リアムも頷いた。
「王宮では退職者の届出も保管されます。規則で決まっていることですから、抜けているはずがないんです。それなのに、ルイス・アルデンの分だけがない」
レオは資料を受け取り、ゆっくりと目を通した。指先が紙の上を滑るように動き、一行一行を確かめていく。
不自然だった。
ルイスという人物は確かに存在している。採用の記録も、勤務中の評価も、給与の受け取りの記録さえも残っている。しかし、十七年前を境に、まるで断ち切られたように記録が途切れている。
まるで、その先だけが誰かの手によって切り離されたようだった。
「住所は」
レオが尋ねる。
リアムは一枚の住民台帳を差し出した。
「王都南区、第六街区です」
「現在は?」
「空き家です」
その答えに、四人の間に沈黙が落ちた。
またかー―誰もがそう思った。
オズワルドの屋敷跡と、まったく同じだ。住む者のいない家。それでも税だけは毎年きちんと納められている。まるで、そこに誰かが今も生きているかのように。
「納税者は」
「代理人名義です」
「代理人の名前は?」
リアムは書類の該当箇所を指でたどり、そこで手を止めた。
「……ここも消されています」
インクで塗りつぶされたのか、それとも紙ごと切り取られたのか、名前があるべき場所には不自然な空白があるだけだった。
ガレスが机を軽く叩いた。
「いい加減、このやり口にも慣れてきたな」
誰も笑わなかった。同じ手口が繰り返されているということは、それだけ組織立った隠蔽が長く続いているという証でもある。レオは腕を組み、しばらく黙って空白の部分を見つめていた。
◇ ◇ ◇
その時だった。
部屋の扉が勢いよく開く。
「レオ殿下!」
飛び込んできたのは若い近衛兵だった。肩で息をしながら敬礼する。全速力で駆けてきたのだろう、額には汗が浮かび、声には焦りが滲んでいた。
「何があった」
ガレスが立ち上がる。
「王都南区で火事です!」
「火事?」
「古い空き家が燃えています!」
レオの表情が変わる。それまで書類に向けていた冷静な目に、鋭い緊張が走った。
「住所は」
近衛兵は一枚の報告書を差し出した。
そこに記された住所を見た瞬間、リアムが息を呑む。
「ルイス・アルデンの家です……!」
偶然であるはずがなかった。ついさっきその名前と住所を突き止めたばかりの家が、今まさに燃えている。誰かが、こちらの動きを察知したとしか思えなかった。
レオは即座に立ち上がった。
「馬を」
「すでに用意しております!」
「行きましょう!」
四人は文書管理室を飛び出した。長い廊下を駆け抜け、中庭へ出る。待機していた馬へ飛び乗ると、王都南区へ向けて一斉に駆け出した。蹄の音が石畳に響き渡り、道行く人々が驚いて振り返る。
◇ ◇ ◇
現場へ着く頃には、多くの野次馬が集まっていた。
近衛兵と消防隊が懸命に消火活動を続けている。バケツを運ぶ声、水を撒く音、燻る木材の匂いが辺り一面に立ち込めていた。炎はすでに弱まっていたが、二階建ての木造家屋は大きく焼け落ちていた。焦げた柱がむき出しになり、屋根の一部は崩れ落ちて黒い骨組みだけを晒している。
「遅かったか……」
ガレスが低く呟く。
レオは答えず、燃え残った建物を見つめる。その視線は、崩れた玄関ではなく、家の裏手へ向いていた。何かを確信しているような、静かな眼差しだった。
「どうしました」
エレナが尋ねる。
レオは静かに指差した。
「見てください」
◇ ◇ ◇
裏庭へ回ると、そこだけ地面が不自然に掘り返されていた。周囲の土は乾いて硬いのに、その一角だけが盛り上がり、色も明らかに違っている。しかも土はまだ湿っていた。
「最近掘られています」
リアムがしゃがみ込み、土の質感を指で確かめながら言った。
「火事の前です。乾く時間がなかったということは、今日か、せいぜい昨日のうちに掘られたということでしょう」
レオも跪き、土を指で払った。細かい土の粒が指の間からこぼれ落ちていく。
すると、焼け焦げた木箱の破片が現れた。もとは頑丈な箱だったのだろうが、火の熱でひどく歪み、蓋の一部は炭化して崩れかけている。
さらに、その下から金属製の筒が半分だけ姿を見せた。
「これは……」
エレナが息を呑む。
レオは慎重に筒を拾い上げた。両手で包み込むように持ち上げ、周りの土を丁寧に払い落としていく。黒く煤けてはいるが、封はまだ破られていない。中身は無事のようだった。
そして蓋には、見覚えのある紋章が刻まれていた。
翼を広げた一羽の白い鳥――。
監察局の印だった。
その場にいた誰もが、しばし言葉を失った。誰かが火を放つ直前、この筒だけは土の中へ隠したのだ。まるで、後から来る誰かに見つけてもらうことを願うかのように。
レオは筒を胸に抱くようにして立ち上がると、燃え落ちた家をもう一度見渡した。風に混じって、まだ燻る煙の匂いが漂ってくる。
「持ち帰りましょう」
静かな声だったが、そこには確かな決意が込められていた。
「この中に、何かがある」




