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第190話 最後の局長

切り取られた一行を前に、部屋は静まり返っていた。

 監察局長。

 その名前だけが、跡形もなく消されている。

「また……名前だけですか」

 エレナが小さく息をつく。声には、驚きよりも諦めに似た響きがあった。何度も同じ手口を目にしてきたせいだろう。レオは文書をそっと机へ戻した。指先が紙の切れ端に触れる感触を確かめるように、しばらくそのままにしていた。

「ここまで徹底されている以上、偶然ではありません」

「ええ」

 グレイストーンも頷いた。壮年の近衛隊士は、腕を組んだまま文書を見下ろしている。

「誰か一人を守るためか、あるいは誰か一人を隠すためか」

「どちらかだろうな」

 レオは静かに答えた。断定を避けたその言い方に、エレナは少しだけ眉を寄せたが、何も言わなかった。

 リアムは別の資料を広げた。分厚い帳面には、細かい数字がびっしりと並んでいる。

「局長の名前はありませんが、年度ごとの予算書は残っています」

「予算書?」

 ガレスが首を傾げる。武骨な手で頬を掻きながら、資料を覗き込んだ。

「そんなものが役に立つのか」

「人物名はなくても、組織の動きは分かります」

 リアムは数字を指で追っていく。ページをめくる音だけが、しばらく部屋に響いた。

「設立以来、予算は毎年ほぼ一定です。ですが――」

 ある年で指が止まった。

「十七年前だけ、通常の三倍に増えています」

 レオが身を乗り出す。

「理由は書かれていますか」

「ありません」

 リアムは首を横に振る。

「用途も『特別事業費』としか」

「特別事業……」

 エレナが呟く。手元の別の資料と見比べながら、何かに気づいたように声を上げた。

「地下工事と時期が一致しています」

「はい」

 レオも頷いた。頭の中で、いくつもの点が線につながっていくのが分かった。

「王宮地下の工事。第三保管庫の閉鎖。監察局の廃止。すべて十七年前です」

 その符合は、もはや偶然と呼べるものではなかった。

 グレイストーンは腕を組み、窓の外へ視線を向けた。夕暮れの光が、彼の横顔に深い影を落としている。

「私は当時、まだ若い近衛隊士だった。監察局とは何度か仕事をしたことがある」

「どんな人たちでしたか」

 レオが尋ねる。

「優秀だった」

 短い答えだった。だがその一言には、確かな重みがあった。

「無駄口は叩かない。命令だけを遂行する。だが、民を傷つけるような者たちではなかった」

「それが、突然消えた」

 レオが呟くと、グレイストーンは黙ってそれを肯定するように目を伏せた。

 レオは革手袋を見つめる。過去にあった小さな出来事を思い返すように、しばらく黙り込んでいた。

「もし監察局が白鴉そのものなら」

 言いかけて、首を横へ振る。

「違いますね」

「どういうことだ?」

 ガレスが聞き返す。

「第三保管庫で私たちから逃げた人物は、資料を持ち去ろうとしていました。ですが、完全には処分していません。木箱も、金属札も残していた」

「つまり」

 エレナが続ける。彼女もまた、同じ結論にたどり着いていたようだった。

「私たちに見つけてほしかった可能性がある」

「その通りです」

「なら、敵じゃないのか?」

 ガレスの疑問はもっともだった。単純明快な問いに、しかしレオは即座には答えなかった。しばらく沈黙が流れ、彼は一つずつ言葉を選ぶように口を開いた。

「まだ判断できません。味方なら姿を見せればいい。敵なら証拠を残す必要はない。そのどちらでもない行動をしています」

 部屋に重い沈黙が落ちる。誰もが、それぞれの考えの中に沈んでいるようだった。

 その時、グレイストーンが何かを思い出したように口を開いた。

「一人だけいた」

「え?」

「監察局の人間で、私が名前を覚えている者が」

 全員の視線が集まる。エレナもリアムも、手を止めて彼を見た。

「局長ではない。副局長でもない。ただの連絡役だった」

「名前は?」

 レオが静かに尋ねる。

「……すまん」

 グレイストーンは苦笑した。記憶の糸をたぐり寄せるように、こめかみに指を当てる。

「姓までは思い出せん。だが、名だけは覚えている」

「ルイス」

 その名が部屋に響いた。誰もが息を止めたように、しばらく動きを止めていた。

「ルイス?」

 エレナはすぐに手元の資料をめくる。焦る気持ちを抑えるように、指先が微かに震えていた。

「王宮関係者にその名がないか調べます」

 リアムも別の名簿を開いた。ページをめくる音が、二重に重なって響く。

「私も探します」

 しばらくして、リアムが顔を上げた。眉間には、確かな手応えを感じさせる緊張が浮かんでいる。

「一人だけいます」

「どこです」

「監察局ではありません。王宮書庫管理部です。役職は書記官補佐。十七年前に退職」

 レオは眉をひそめた。

「退職理由は?」

「……記録なしです」

 その答えに、部屋の空気が再び張り詰めた。

 さらに資料をめくっていたエレナが、小さく息を呑んだ。

「レオ様」

「こちらにもあります」

 彼女が差し出したのは、第三保管庫の古い出入り記録だった。普段は空欄が続くその帳面に、一か所だけ読み取れる署名が残っている。署名は途中で滲んでいたが、最初の文字だけは判読できた。

 『L』

 その横には、小さくこう記されていた。

 ――監察局預かり。

 レオはゆっくりと帳面を閉じた。手のひらに、革の表紙の冷たさが残る。

「まずは、このルイスという人物を探しましょう」

 監察局の最後を知る者。その糸口が、ようやく一人の名前となって姿を現そうとしていた。

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