第189話 監察局
翌朝、レオは昨夜持ち帰った革手袋を机の上へ置いた。朝日を受けて、白い鳥の刺繍が静かに浮かび上がる。
「……監察」
小さく呟く。それは王宮で見慣れた紋章ではなかった。少なくとも、現在使われている部署の印ではない。手袋の革はすでに古びて硬くなっていたが、刺繍の糸だけは不思議なほど色褪せずに残っていた。誰かが長い年月、大切に保管していたのかもしれない。そう思うと、この手袋の持ち主が今もどこかで生きているような気がしてくる。
しばらく手袋を見つめていると、部屋の扉が叩かれた。
「失礼します」
入ってきたのはエレナだった。その後ろにはガレスとリアムもいる。三人とも、昨夜の一件についてすでに何か調べを進めてきたような、少し張り詰めた表情をしていた。
「昨夜の件ですが」
エレナは数冊の資料を机へ並べた。表紙は色褪せ、綴じ糸もほつれかけている。長い間、誰も開かなかった記録であることが一目でわかった。
「王宮の組織記録を調べてみました」
「何か分かりましたか」
「はい」
彼女は一冊の古い記録を開いた。ページをめくる乾いた音が、朝の静かな部屋に響く。
「現在、王宮には監察局という部署は存在しません。ですが二十年ほど前までは、確かにありました」
レオは顔を上げた。
「やはり」
「正式名称は王宮監察局。各部署の監査、不正調査、機密文書の管理などを担当していたそうです」
ガレスが腕を組む。
「そんな部署があったのか」
「はい。ですが十七年前に突然廃止されています」
「理由は」
レオが尋ねる。エレナは首を横へ振った。
「公式記録では『組織再編』としか書かれていません。詳しい理由は残されていませんでした」
リアムが別の資料を開いた。眉間に皺を寄せ、指先でページをなぞりながら口を開く。
「もっと不自然なことがあります。監察局に所属していた職員名簿が丸ごとありません」
「ありません?」
「ええ。存在したことは記録されています。ですが誰が働いていたのかだけが消えています」
その言葉に、レオは椅子にもたれ、天井をしばらく見上げた。
「また名前だけが消されている……」
これで三度目だった。特別監督官、第三保管庫の貸出記録、そして監察局職員。どれも人物名だけが消えている。まるで、記録そのものを残しながら、そこに関わった人間の存在だけを丁寧に削り取っていくような、執拗な作業の跡だった。
「偶然ではありませんね」
「はい」
エレナも頷いた。
「誰かが意図的に、人だけを歴史から消しています」
部屋の空気が、わずかに重くなった。ガレスも黙り込み、リアムは資料を見つめたまま動かない。四人とも、この違和感がただの事務的な手違いではないことを、すでに肌で感じ始めていた。
◇ ◇ ◇
その時、控えめなノックが響いた。コン、コン。
「殿下」
衛兵の声だった。
「グレイストーン様がお見えです」
「通してください」
ほどなくしてグレイストーンが部屋へ入ってきた。長年王宮に仕えてきた老臣らしい、落ち着いた足取りだった。彼はレオたちを見るなり、すぐに何かを察したように静かに口を開いた。
「昨夜、保管庫へ入ったそうだな」
「はい」
レオは革手袋を差し出した。
「これを見つけました」
グレイストーンは手袋を受け取った。そして刺繍を見るなり、その表情がわずかに変わった。長年見せたことのない硬さが、一瞬だけ顔に浮かんだ。
「……まだ残っていたか」
その一言に、全員が息を呑んだ。
「ご存じなのですか」
レオが身を乗り出す。グレイストーンは静かに頷いた。
「若い頃、一度だけ見たことがある。監察局の印だ」
彼はしばらく手袋を撫でるように見つめていたが、やがてゆっくりと語り始めた。
「監察局は普通の役所ではなかった。王直属の秘密監察組織だった。表向きは監査を行う部署。だが実際には、王命を受けて極秘任務も担当していた」
ガレスが眉をひそめる。
「つまり情報機関か」
「それに近い。ただし」
グレイストーンは少し言葉を切り、視線を窓の外へ向けた。
「彼らは王にしか従わなかった」
その言葉には、単なる説明以上の重みがあった。まるで、その組織がかつて王宮の中でどれほど特別な、そして危うい立場にあったかを、身をもって知っている者の口ぶりだった。
「十七年前、監察局は消えた。それと同時に、多くの記録も失われた。私は組織が解散したと聞かされた」
レオは静かに尋ねる。
「実際は違った?」
グレイストーンは即答しなかった。しばらく革手袋を見つめ、やがて低く言った。
「……昨夜、お前たちが追っていた人物。もし本当にこの手袋の持ち主なら、監察局は今もどこかで活動を続けていることになる」
部屋に沈黙が落ちた。十七年前に消えたはずの組織。名前を消された職員たち。第三保管庫。そして白鴉。それぞれが一本の線で繋がり始めていた。誰も口を開かず、それぞれが頭の中でその線をたどっているようだった。
◇ ◇ ◇
しかし、その時。
リアムが一枚の資料を見つめたまま、小さく声を上げた。
「レオ様。こちらを見てください」
全員が資料へ視線を向ける。それは監察局の沿革を記した古い文書だった。紙は黄ばみ、端はぼろぼろに崩れかけている。そこには、最後の局長について一行だけ記されていた。
――王宮監察局長 就任。
その次の行だけが、鋭利な刃物で切り取られていた。名前も、退任理由も、すべて。断面はまっすぐで、迷いのない一太刀だったことがわかる。長い年月の劣化によるものではない。明らかに、人の手によって意図的に切り取られたものだった。
誰かが最初から、その人物だけを歴史から消そうとしていた。
レオはその切り取られた跡をしばらく見つめていた。指先でそっと紙の断面に触れる。そこにはもう、何も書かれていない。だが、何かが確かにそこにあった、という気配だけが強く残っていた。
「……この局長が、鍵になりそうですね」
レオが呟くと、エレナが小さく頷いた。
「ええ。誰かがこれほど徹底して消そうとした人物です。見つけ出す価値は、十分にあると思います」
ガレスも腕を組んだまま、低く唸るように言った。
「厄介な相手を敵に回しているのかもしれんな」
誰もそれを否定しなかった。窓の外では朝の光がすでに高く昇り、王宮の庭を静かに照らしていた。だがこの部屋の中だけは、まだ昨夜の闇を引きずっているかのように、重く張り詰めた空気が漂い続けていた。
レオは手袋をもう一度手に取り、白い鳥の刺繍をじっと見つめた。
「見つけ出そう。この監察局が本当は何だったのか、そして今も動いているのかどうか」
その言葉に、三人はそれぞれ頷いた。まだ何も明らかになってはいない。だが、少なくとも進むべき方向だけは、ようやく見え始めていた。




