第188話 追跡
レオは迷わず駆け出した。石畳を蹴る足音が、静まり返った第三保管庫へ響き渡る。前方を走る人影は小柄で、黒い外套を翻しながら、棚と棚の間を縫うようにして走っていく。
「止まれ!」
レオが叫ぶ。しかし人影は振り返りもせず、迷いのない足取りで奥へと消えていこうとする。その動きには無駄がなかった。まるで何度もこの道を通ったことがあるかのように、棚の角を的確に曲がり、影の濃い場所を選んで走っている。
「右へ行った!」
リアムの声が背後から飛んだ。ガレスはすでに剣を抜いており、指示を受けるより早く別の通路へと回り込んでいく。
「挟み込む!」 「了解!」
短いやり取りの中に、これまで積み重ねてきた連携の呼吸があった。レオは速度を落とさない。呼吸を整えながら、視線だけを前方に固定する。保管庫は迷路のようだった。同じ高さの棚が何列も並び、見通しが悪い。灯りは乏しく、埃の匂いが鼻の奥に張り付く。その薄暗い迷路のような空間を、人影は迷うことなく走り抜けていく。
「この場所を知っている……」
レオは歯を食いしばった。単なる逃走ではない。この保管庫の構造を熟知した者の動きだ。だとすれば、相手はここに何度も出入りしていたことになる。誰の許可を得て、何のために――疑問が頭をよぎるが、今はそれを考えている余裕はなかった。
前方で棚が大きく揺れたかと思うと、次の瞬間、ガタンッ、という重い音とともに棚が倒れ込んできた。人影が走りながら棚を押し倒したのだ。
「危ない!」
エレナの声が響く。レオは咄嗟に横へ飛んだ。重い木棚が目の前へ倒れ込み、激しい音を立てて床へ転がる。舞い上がる埃の中、古い帳簿が四方へ散乱し、乾いた紙の匂いが一気に広がった。
「無事か!」
ガレスが駆け寄ってくる。
「大丈夫です!」
レオはすぐに立ち上がり、服についた埃を払う間も惜しんで、倒れた棚を飛び越えた。再び走り出す。人影との距離は、この妨害のせいでわずかに開いてしまっていた。それでもレオは足を止めなかった。
やがて通路は行き止まりになった。目の前には壁しかない。
「行き止まり……?」
レオは息を切らしながら周囲を見回す。だが、そこにあるはずの人影は消えていた。確かに、この先へ走っていったはずなのに――どこにも姿がない。
「どこへ消えた」
追いついてきたガレスが低く唸る。リアムはすぐさま床に膝をつき、足跡を調べ始めた。
「足跡はここまでです」 「消えています」
二人の報告に、その場の空気が張り詰める。レオはゆっくりと壁へ近づいた。指先で石をなぞる。ひんやりとした感触の中に、どこか不自然な違和感があった。周囲の石に比べて、わずかに新しい石が混じっている。継ぎ目の色が、他よりもほんの少しだけ明るいのだ。
「……ここです」
そう言って押してみる。動かない。今度は横へ力を掛けてみる。ゴゴゴ……という重い音とともに、石壁が横へ滑っていった。
「隠し扉!」
エレナが息を呑む。
◇ ◇ ◇
その先には、細い一本道の通路が続いていた。誰の姿もない。空気はひんやりと湿り、遠くから微かな風が流れてくるのが分かる。
「まだ近い!」
レオは再び走り出した。通路は緩やかな上り坂になっており、足元の石はところどころ滑りやすく磨り減っている。長い年月、誰かがここを行き来してきた証拠だった。誰が、何のために――そんな考えを振り払うようにして、レオはひたすら前へ進む。息が上がり始めた頃、やがて前方にわずかな光が見えてきた。
「出口です!」
リアムが叫ぶ声に押されるようにして、四人は光の方向へと駆け抜けた。
◇ ◇ ◇
外へ飛び出すと、そこは王宮西側の中庭だった。夕日が石畳を赤く染め、風が木々の梢を揺らしている。だが、あれほど追い詰めたはずの人影は、もうどこにも見当たらなかった。辺りを見回しても、人の姿はない。まるで最初から誰もいなかったかのような静けさが、中庭全体を包んでいた。
「逃げられたか……」
ガレスが低く唸るように呟く。誰もがその言葉を否定できず、しばらくの間、荒い息だけがその場に響いていた。
「いえ」
レオはそう言うと、地面へ視線を落とした。芝生の上に何かが落ちている。近づいて確かめると、それは黒い革手袋だった。おそらく、急いで走る途中に落としたのだろう。レオはそれを丁寧に拾い上げた。
柔らかく、上質な革の感触が指先に伝わる。ただの逃走者が身につけるようなものではない。そして手首の内側に目を凝らすと、そこには小さな刺繍が施されていた。白い糸で縫われた、一羽の鳥。
「白鴉……」
エレナが小さく呟く。だがレオは、それを確かめるようにもう一度刺繍を見つめてから、静かに首を横へ振った。
「違います」 「え?」 「これまで見た紋章とは、少し違う」
よく見ると、鳥の翼の形がこれまで確認してきたものとは微妙に異なっていた。輪郭の描き方、羽の枚数、どれも似ているようでいて、細部が違う。そして、その紋章の下には、さらに小さく二文字だけ刺繍が施されていることに気づいた。
――監察。
◇ ◇ ◇
「監察……?」
リアムが眉をひそめる。聞き慣れない言葉に、その場の全員が息を潜めた。レオはゆっくりと手袋を裏返す。すると、内側にはさらに薄く、文字が刻まれているのが見えた。おそらくは所有者の名だろう。だが長年使われて擦り切れており、ほとんど読み取ることができない。目を凝らし、指先で表面をなぞりながら、辛うじて判読できたのは、たった一文字だけだった。
――ク。
レオは静かに息を吐いた。
「また『ク』ですか……」
脳裏に浮かぶのは、オズワルドの記録に残っていた、途中で途切れた文字――クロ……という一文。そして今度は、また同じ「ク」という一文字。これが偶然だとは、どうしても思えなかった。
「追跡はここまでです」
レオはそう言って、手袋を大切に懐へしまい込んだ。
「ですが、収穫はありました」 「白鴉は過去の人物ではない」 「今も動いています」
夕暮れの王宮には、静かな風が吹いていた。その風は、まるで二十年前から続く闇が、まだ終わっていないことを告げているかのようだった。




