第186話 削られた名前
削り取られた名を前に、誰もすぐには口を開かなかった。
古い人員名簿。工事監督の欄には「建設局長オズワルド・レイン」と記されている。そして、その下に記された役職――特別監督官。名前だけが、鋭利な刃物で完全に削り取られていた。
「ここまでして消したかった人物……」
エレナが小さく呟いた。レオは名簿を机の上へ置く。
「白鴉本人かもしれません」 「あるいは」とリアムが続ける。「白鴉へ繋がる人物ですね」
ガレスが腕を組んだ。「削られているなら読めない。これで終わりか?」
「いいえ」レオは首を振った。「名前そのものが消えていても、役職は残っています」
特別監督官。それが正式な役職なのか、それともこの工事だけの臨時職なのか。
「王宮の人事記録を調べれば分かるかもしれません」とエレナが言った。「特別監督官という肩書きが正式なものなら、任命記録が残っているはずです」
「戻って調べましょう」
その時だった。
「待ってください」
リアムが棚の奥を覗き込んでいた。「何かあります」
三人が振り返る。棚の最下段、帳簿の陰に、小さな木箱が置かれていた。他の箱とは違い、埃の積もり方が薄い。
「最近、誰かが触っています」リアムが低く言った。
ガレスが剣へ手を伸ばす。「罠かもしれん」
「確認します」
リアムが慎重に木箱を持ち上げる。重くはない。振っても音はしない。箱には小さな鍵が付いていた。
「開けられるか」 「やってみます」
先ほどと同じように細い工具を差し込む。数秒。カチリ。鍵が外れた。リアムはすぐには蓋を開けず、糸や仕掛けがないかを確認してから、ゆっくりと蓋を持ち上げた。
◇ ◇ ◇
中に入っていたのは、一枚の紙――いや、正確には紙の切れ端だった。
「これは……」エレナが息を呑む。
レオもすぐに気づいた。人員名簿から切り取られた紙と、色が同じだった。
「帳簿の一部ですね」
紙には文字が残っている。ただし完全な文章ではない。端が破れているため、一部しか読めなかった。
――……監督官。 ――王宮内務…… ――任命…… ――クロ……
そこで文字は途切れていた。
「クロ……」ガレスが眉をひそめる。「名前か?」
「分かりません」レオは紙を慎重に持ち上げる。「クロード、クロヴィス、クロフォード……候補はいくらでもあります。これだけでは特定できません」
エレナが紙を見つめる。「ですが、王宮内務、という文字が残っています。つまり、この人物は王宮内務部門に所属していた可能性が高い」
「ええ」レオは頷いた。「十七年前の内務部門の人事記録を調べれば、候補を絞れます」
◇ ◇ ◇
リアムが木箱の中をさらに確認する。「もう一つあります」
箱の底、薄い板を外すと、その下から小さな金属製の札が出てきた。
「何だ、それは」ガレスが覗き込む。
銀色の札。表面には数字が刻まれている。――17-4-3。
「日付でしょうか」エレナが言う。「十七年、四月三日?」
「違うかもしれません」レオは札を裏返す。裏には小さな紋章が刻まれていた。翼を広げた鳥。
「鴉……?」リアムが呟く。「白鴉の印でしょうか」
しかしレオはすぐには頷かなかった。「色が違います」 「え?」 「白鴉の印は、これまで白い鳥として描かれていました。これは銀です」
ガレスが肩をすくめる。「金属だから銀色なんじゃないのか」
「そうかもしれません。ですが」レオは札を光へかざす。翼の下に、小さな文字があった。――第三保管庫。
「保管庫……」エレナが顔を上げる。「番号ではなく、場所を示す札かもしれません」
「17-4-3が棚番号?」リアムが言う。「十七列、四段、三番」
「その可能性があります」
レオは周囲の棚を見る。この部屋には番号がない。「ここではありません」
「なら、どこの保管庫だ」ガレスが尋ねる。
答えたのはエレナだった。「王宮には、かつて三つの地下保管庫がありました」
全員が彼女を見る。「第一と第二は今も使われています」 「第三は?」 「閉鎖されています」
◇ ◇ ◇
「いつからです」レオが尋ねる。
エレナは少し考えた。「確か……十七年前です」
部屋の空気が変わった。また十七年前。地下工事。オズワルドの失踪。白鴉の記録。そして閉鎖された第三保管庫。
「理由は」 「水漏れによる資料損傷だったと記録されています」 「場所は?」 「王宮西棟の地下です」
レオは金属札を握った。「戻りましょう」 「第三保管庫へ行くのか」 「はい。ただし、その前に一つ確認します」
レオは削られた人員名簿を見る。「十七年前の王宮内務部門。名前が『クロ』から始まる人物。そして、特別監督官に任命されるだけの立場にいた者。先に候補を絞ります。そのうえで第三保管庫へ行く」
ガレスが頷いた。「今度は、名前が出るかもしれんな」
◇ ◇ ◇
レオは最後にもう一度、記録室を見回した。誰かが最近ここへ入っている。だが、資料をすべて処分したわけではない。むしろ、この木箱は見つけられることを前提に置かれていたようにも見える。だとすれば。
「……誘導されている?」
レオが小さく呟いた。
「何か言いましたか」エレナが振り返る。
「いいえ」レオは首を振った。だが胸の奥に生まれた違和感は消えなかった。
誰かが、自分たちを第三保管庫へ向かわせようとしている。白鴉か、それとも別の誰かか。答えはまだ分からない。ただ一つ確かなのは、自分たちは今、誰かが十七年前に残した道を、そのまま辿っているということだった。




