第183話 空白の屋敷
翌朝。
王都には、昨夜の騒動が静かに、しかし確実に広がり始めていた。議会ではエドガー・ヴァレンの正式調査が決定し、王宮では関係者への聞き取りがすでに始まっている。表向きは平静を装っているものの、廊下を行き交う役人たちの表情はどこか硬く、すれ違う者同士が目を合わせるのを避けているようにさえ見えた。噂は言葉にならないまま、視線と沈黙の中で伝わっていく。
◇ ◇ ◇
特別監査室。
朝の光がまだ低く、部屋の隅には夜の名残の冷たさが残っていた。レオが机へ資料を広げ、昨夜のうちに書き留めたメモをもう一度読み返していると、扉が控えめに叩かれた。
「失礼します」
入ってきたのはリアムだった。昨夜の疲れが顔のどこかに残っているはずだが、その目はむしろ冴えており、何かを掴んだ人間特有の張り詰めた空気をまとっていた。
「頼まれていた件です」
レオは顔を上げた。想定していたよりずっと早い。
「早かったですね」
「夜明けと同時に動きました」
その一言だけで、リアムがどれほどこの件を重く見ているかが伝わってきた。彼は手にしていた数枚の報告書を机へ静かに並べ、まず一枚を指し示した。
「まず、オズワルド・レインの屋敷です。場所は王都北区、旧建設局職員街の一角でした」
「現在は?」
「更地です」
やはり、とレオは思う。予想の範囲内ではあったが、実際に言葉で確認されると、その空白の重みが増すように感じられた。
「ですが」とリアムが続けた。「二十年近く放置されているわりには、不自然でした。雑草が、少なすぎるんです」
ガレスが怪訝そうに首を傾げる。
「草?」
「普通、長年放置された土地なら腰ほどまで草が伸びます。管理する者がいなければ、荒れ放題になるのが当然です。ですが、そこだけは違いました。定期的に、誰かが手入れしています」
レオは目を細めた。何気ない事実のはずが、聞くほどに不穏さを増していく。
「誰が?」
「そこまでは分かりません。ですが、近隣の住民たちも同じように不思議がっていました」
リアムは、住民から聞き取った話を順を追って説明していく。誰も住んでいない。誰も買い取ろうとしない。それなのに、年に数回だけ、まるで思い出したかのように草が刈られている。しかも、実際に作業している人間の姿を見た者は一人もいない。ある朝ふと目を向けると、いつの間にか綺麗に整えられている――住民たちはそう口を揃えたという。
レオは腕を組み、しばらく黙り込んだ。
「監視されていますね」
「私もそう思います」
リアムは静かに頷いた。
「誰かが、今でもあの土地を管理し続けています。理由は一つでしょう」
「何か隠している」
レオがその先を引き取るように言うと、リアムは短く頷いた。誰も住まない土地に、誰かが労力を割いて手を入れ続ける。その不自然さこそが、逆に多くを物語っていた。
「他には」
レオが先を促す。
「建設局の元職員についても調べました」
リアムは別の紙を取り出し、机の上に広げた。細かい文字がびっしりと並んでいる。
「当時の幹部は八名。現在生存しているのは、二名だけです」
「二名」
レオは思わず聞き返した。
「はい」とリアムは頷く。「一人は七年前に退官したヨハン・メルツ。もう一人は、地方都市へ隠居したアルベルト・ノイスです」
「他の六名は?」
「全員、死亡しています」
一瞬、部屋の空気が張り詰めた。
「病死が四名。事故死が二名」
誰も口を開かない。窓の外から差し込む朝の光が、やけに白々しく感じられた。
「……妙ですね」
エレナが、その沈黙を破るように小さく呟いた。
「偶然とは思えません」
レオも同じ考えだった。建設局長、幹部たち、そして地下工事――この一件に関わった者たちが、まるで示し合わせたかのように次々と姿を消している。生きて真実を語れる者が、意図的に減らされてきたかのようだった。
「まるで」
ガレスが低い声で言った。
「口封じだな」
その言葉が、部屋の空気をさらに重くした。誰もそれを否定しなかった。
リアムはさらに続けた。
「ですが、一人だけ気になる人物がいました。幹部ではありません。当時まだ若い、測量士です」
「名前は?」
「エリオット・バーンズ」
レオにとっても、聞いたことのない名だった。
「どうして気になった?」
「死亡記録がありません」
リアムは淡々と答えた。
「退職記録もありません。異動記録もありません。ある時点を境に、突然、記録そのものから消えています」
レオは報告書を受け取り、指でなぞるようにページを追った。確かに、ある年までは毎年きちんと名前が記載されている。しかし十七年前を境に、それ以降は完全な空白だった。存在していた痕跡が、まるで拭い去られたかのようにぱたりと途絶えている。
「失踪か」
「おそらく」
リアムは頷いた。
「ですが、捜索記録も一切残っていません。まるで、最初からこの世に存在しなかった人物のようです」
エレナが報告書のページをめくり、目を通していく。
「年齢は二十六歳……若いですね」
「しかも」
リアムが付け加える。
「担当が、地下測量になっています」
レオは思わず顔を上げた。
「地下測量?」
「はい。地下工事が始まる直前まで、その現場を担当していた人物です」
部屋に、これまでとは質の違う沈黙が流れた。地下構造の詳細を知り得た測量士。十七年前という時期。そして、その後の消息不明。三つの事実が、まるで一本の線でつながるように重なっていく。
「この人なら」
レオは静かに、しかしはっきりと言った。
「地下通路の全容を知っていた可能性があります」
その時だった。地図に視線を落としていたガレスが、ふいに口を開いた。
「待て」
「どうしました」
「この屋敷だ」
ガレスは指先で、オズワルドの屋敷跡と王宮を結ぶ線を引いた。さらにそこから、黒蛇会の施設へと線を延ばす。
「一直線だ」
レオも身を乗り出し、地図を覗き込んだ。確かに、意図してもここまでは揃わないだろうというほど、三点は不自然に一直線へ並んでいた。
「偶然でしょうか」
エレナが小さく呟く。
レオは静かに首を振った。
「違います。地下通路というのは、地上の建物の位置に合わせて造られるものです。つまり」
レオはゆっくりと、地図の上の線をなぞった。
「オズワルドの屋敷の地下にも、何かがあるかもしれません」
その一言に、部屋にいた全員の視線が、吸い寄せられるように地図の上へと集まった。
長く放置され、誰も住まない、ただの空き地。だが、それは単なる屋敷の跡地などではないのかもしれない。十七年前から今日まで、誰かの手によって静かに守られ続けてきた、もう一つの入口――地下へと通じる、隠された扉なのかもしれなかった。




