第180話 消えた王弟
王宮は騒然としていた。近衛兵が廊下を駆け回り、伝令が次々と各部署へ走っていく。普段は静けさに包まれているはずの王宮の空気が、今は張り詰めた糸のように緊張していた。松明の炎が揺れ、壁に映る人影までもがどこか落ち着きなく揺らめいて見える。
レオとガレスは無言のまま拘束区画へ急いだ。石畳を踏む足音が廊下に響き、すれ違う兵士たちの表情は一様に強張っている。誰もが何か重大な事態が起きたことを察していながら、その詳細を知らされていない様子だった。
「――何があった」
ガレスが低く呟いたが、レオは答えなかった。答えを持っていなかったからだ。ただ、胸の奥でひとつの予感だけが確かな重みを持ち始めていた。これは単なる警備上の不手際などではない。もっと根の深い、何者かの明確な意志が働いた結果だという予感だった。
拘束室の前まで来ると、グレイストンが険しい表情で待っていた。普段は感情を表に出さない男が、珍しく眉間に深い皺を刻んでいる。
「来たか」
「状況を」
レオは短く尋ねた。無駄な言葉を交わしている余裕はないと、その声音が語っていた。
「言葉で説明するより、部屋を見てもらった方が早い」
グレイストンはそう言うと、重い鉄扉に手をかけた。蝶番が軋んだ音を立てて扉が開かれる。中から流れ出てきた空気は、思いのほか静かだった。
拘束室の中は、驚くほど落ち着いていた。机はそのままの位置にあり、椅子も倒れていない。壁際に置かれた水差しも、注がれた時のまま静かに佇んでいる。争った形跡はどこにもなく、壁や床が壊された痕跡も見当たらない。まるで、つい先ほどまで誰かがそこで静かに座っていたかのような、そんな穏やかささえ漂っていた。
そして、拘束されていたはずのエドガーの姿だけが、忽然と消えていた。
「縄は」
レオが尋ねる。
「切られていない」
グレイストンが答えた。
「鍵にも、開けられた形跡はない」
つまり、縄を解いて出ていったわけでも、鍵をこじ開けて逃げ出したわけでもないということだ。レオは部屋の中央へと静かに歩を進めた。視線を巡らせ、部屋全体の空気を確かめるように、しばらくその場に佇む。
「ガレス」
「何だ」
「床を見てください」
ガレスが視線を落とす。石畳の上に、かすかに擦れたような跡が残っていた。
「……擦れた跡か」
「ええ」
「椅子を引きずった跡には見えんな」
「もっと細いものです。それも一本だけ」
椅子の脚が引きずられてできる跡は、もっと太く、複数の線が交錯するものになる。だが目の前にある跡は、まるで一筋の糸を引いたように細く、迷いなく一直線に伸びている。
レオはその場に膝をつき、指先でそっと跡をなぞった。石の表面に残ったわずかな削れ具合、そして跡の縁に残る微細な光沢。それらを確かめると、レオは静かに言った。
「金属です」
「鎖か?」
ガレスが尋ねる。だがレオは首を横に振った。
「違います。鎖ならもっと太く、跡も途切れ途切れになるはずです。これは――」
指先でもう一度、その線をたどる。
「細い針金のようなものだと思います」
その跡は部屋の壁際まで続いており、そこでふつりと途切れていた。まるで、そこで初めて空中へ持ち上げられたかのように。
「壁を調べろ」
ガレスの号令一下、兵士たちが壁を叩き始めた。硬い音が室内に響く。だが、いくら叩いても空洞を示す軽い音は返ってこない。
「異常ありません!」
「こちらもです!」
次々と報告が返ってくるが、どれも同じだった。隠し扉らしきものも、壁の継ぎ目に不自然な点も見当たらない。
「そんなはずは……」
ガレスが低く唸った。目の前の壁は、どこからどう見ても普通の石壁でしかない。だが、エドガーは確かにこの部屋から消えている。矛盾した現実を前に、兵士たちの間にも困惑が広がっていった。
レオはそうした喧騒から一歩引くように、静かに天井を見上げた。
古い石造りの天井には、通気口がひとつだけ設けられている。だが、その大きさはとても人が通り抜けられるようなものではない。子供でさえ難しいだろう。それでも、レオの視線はその通気口の縁に吸い寄せられていった。
「……待ってください」
その声に、部屋の空気がわずかに変わった。
「何かあります」
兵士のひとりがすぐに梯子を持ってくる。レオは梯子を上り、通気口の縁に顔を近づけた。目を凝らすと、縁の部分にごく小さな白い粉が付着しているのが見えた。指先でそっと少量をすくい取る。
「薬品か」
下からガレスが尋ねる。レオは粉を指の腹で擦り合わせ、鼻先に近づけて匂いを確かめた。
「いえ」
「石灰です」
「石灰?」
ガレスが怪訝な声を上げる。
「はい。新しい石材を削った際に出る粉です。この粒の細かさと質感は、加工されて間もない石のものだと思われます」
レオは梯子を降りながら続けた。
「つまり、最近この近くで何らかの工事が行われたということです」
グレイストンが目を細めた。その視線には、これまでとは違う緊張が宿っている。
「つまり?」
「最近、この王宮内のどこかで、石を削るような工事が行われている――ということです」
「王宮内で? そんな報告は受けていないぞ」
「表向きには、でしょうね」
レオはそう言うと、すぐ近くの壁へと歩み寄った。ひとつひとつの壁石に触れ、色合いや質感を丹念に見比べていく。
古い石。長い年月を経て角の丸くなった石。表面に苔の名残がわずかに残る石。どれも似たような、時を重ねた石ばかりだった。
だが、そのうちの一つだけ、明らかに色合いが違っていた。周囲の石よりもわずかに白く、角の削れ方も鋭い。まるでそこだけ最近まで新品だったかのような、そんな違和感を放っていた。
「ここです」
レオが静かに指を差す。
兵士が槌を手に取り、軽くその石を叩いた。
コン。
鈍く、それでいて周囲とは明らかに違う音が返ってくる。中に空洞があることを示す音だった。ガレスと兵士たちの間に、緊張とも興奮ともつかない空気が走った。
「壊します」
「頼みます」
兵士が槌を構え直し、力を込めて打ち下ろす。一度、二度、三度。石が軋み、細かな破片が飛び散る。そして数度の打撃の末に、石はついに崩れ落ちた。
崩れた石の奥には、人がひとりようやく通れるほどの、細く暗い通路が隠されていた。冷たい空気がその奥から流れ出し、松明の炎を小さく揺らす。
「隠し通路!」
兵士たちの間にどよめきが広がった。誰もがその存在を知らなかったのだろう、驚きと戸惑いの入り混じった声があちこちから上がる。
ガレスは苦々しく舌打ちをした。
「王宮の中に、こんな物が隠されていたとはな……」
長年この王宮に仕えてきた彼にとってさえ、初めて目にする通路だった。それはつまり、王宮の記録にも残されていない、ごく限られた者だけが知る秘密の通路だということを意味している。
レオは崩れた石の縁に手をかけ、通路の中へと足を踏み入れた。中の空気はひんやりと冷たく、外の喧騒が嘘のように静まり返っている。松明の光を頼りに足元を照らすと、埃の積もった床に、比較的新しい足跡がいくつも残されていた。
「間違いありません」
レオは足跡を見つめながら言った。
「エドガーはここを通りました」
「なるほどな」
グレイストンが険しい顔で頷く。だが、その言葉にレオは静かに首を振った。
「いえ」
「?」
「一人ではありません」
その一言に、その場にいた全員が息を呑んだ。
「足跡が、二人分あります」
レオは屈み込み、足跡を注意深く見比べた。ひとつは踵のしっかりした革靴の跡。もうひとつは、それよりもずっと軽く、底の薄い靴による跡だった。
前者の足跡は歩幅がやや乱れており、時折足を引きずったような痕跡も見える。おそらく長い拘束生活で体力が落ちていたエドガー自身のものだろう。
だが後者の足跡は違った。歩幅は終始一定で、迷いというものが一切感じられない。まるで何度も歩き慣れた道を進むかのように、まっすぐで淀みない足取りだった。
「迎えに来た者がいます」
レオは足跡の先、通路の奥の闇へと視線を向けながら言った。
「王宮の構造を熟知し、この通路の存在をあらかじめ知っていた人物です」
ガレスが低く声を絞り出す。
「内通者か」
「ええ」
レオはゆっくりと頷いた。
「しかも、かなり以前からこの王宮に出入りしている人物でしょう。この通路の存在を知り、迷いなく歩けるほどに」
その言葉の重みに、グレイストンもガレスも、しばし言葉を失った。王宮の内部に、それも長年にわたって潜んでいた者がいる――それは、これまでの前提そのものを揺るがす事実だった。
通路の奥は、松明の光すら届かない闇へと続いていた。冷たい風がかすかに吹き抜け、遠くどこかへと繋がっていることを示している。
レオは兵士から松明を受け取り、その闇をじっと見据えた。
「追いますか」
兵士のひとりが尋ねる。誰もが、すぐにでも後を追うべきだと考えているのが、その声からも伝わってきた。
だがレオは少しの間だけ考え込み、やがて静かに首を横に振った。
「いいえ」
その場にいた全員が、驚いた表情を浮かべる。
「今追っても、白鴉の思う壺です」
「では、どうする」
グレイストンが問う。
「まず、この通路がどこへ繋がっているのかを、慎重に調べる必要があります」
レオは闇の奥を見つめたまま、静かに続けた。
「敵は、私たちよりも一歩先を読んでいます。この隠し通路も、内通者の存在も、おそらくすべて計算の上でのことでしょう。だとすれば――」
言葉を切り、レオはゆっくりと振り返った。その瞳には、これまでとは違う、確かな覚悟の光が宿っていた。
「ならば次は、こちらが敵の一歩先を読みます」
その言葉に、ガレスが小さく笑みを浮かべた。
「ようやく、らしくなってきたな」
レオも静かに頷いた。まだ何もかもが手探りの状態だった。だが、少なくともひとつだけ確かなことがある。この事件はもはや単なる失踪ではなく、王宮の奥深くに巣食う何者かとの、本格的な戦いの始まりなのだということだ。
白鴉との本当の勝負は、まさにここから始まろうとしていた。




