第179話 先を読む者
地下書庫に重い沈黙が落ちた。
レオは木箱の中に残された紙を静かに畳む。指先に触れる紙質は上等で、間違いなく王宮の書庫から持ち出されたものだと分かった。畳んだ紙をそっと箱の底に戻すと、その奥に一枚だけ、明らかに他の書類とは違う筆致で記された紙片が挟まっていた。
――遅かったですね。
たったそれだけの言葉。
だが、その一文には明確な意思が込められていた。挑発でありながら、余裕の滲む書き方だった。まるで、レオたちがここへ辿り着くことをあらかじめ計算していたかのように。
「完全に挑発されていますね」
部隊長が苦い表情を浮かべる。眉間に深い皺が刻まれ、拳が微かに震えていた。
「ああ」
ガレスが低く答えた。低い声には抑えきれない苛立ちが滲んでいる。
「しかも、こちらの動きを正確に読んでいる」
ガレスの言葉に、部隊長は黙り込んだ。誰もがその意味を理解していた。今回の急襲は、王宮内でもごく限られた人間しか知らなかったはずの作戦だ。それにもかかわらず、白鴉は先回りしていた。つまり、情報の漏れは末端の兵士ではなく、もっと上――信頼されるべき立場の誰かから出ている可能性が高い。
レオは空になった棚を見つめた。埃の輪郭が、そこに何があったかを物語っている。
六つの箱。
持ち去られたのは、それだけ。
周囲には他にも無数の箱が積まれたままだったが、白鴉が選んで持ち去ったのは、その中でもごく一部だった。乱雑に荒らされた形跡もなく、まるで最初から目的の箱だけを知っていたかのように、迷いなく運び出されている。
つまり白鴉は、この地下書庫の価値を理解していた。
「偶然ではありません」
レオは静かに言う。声は落ち着いていたが、その奥には確信が滲んでいた。
「エドガー殿下が拘束される前から、ここを整理していたのでしょう」
「証拠が押収されると分かっていた?」
部隊長が眉を寄せる。
「あるいは」
レオは首を横に振った。
「エドガー殿下が拘束されても困らないように準備していた、と考えた方が近いかもしれません」
その言葉に、ガレスが腕を組んだ。
「切り捨てたということか」
「ええ」
「ヴィクターも」
「黒蛇会も」
「そしてエドガー殿下も」
レオは短く息を吐いた。白鴉にとって、これまで手を組んできた者たちは、決して対等な仲間ではなかったのだろう。必要な間だけ利用し、用が済めば躊躇なく切り離す。その徹底ぶりに、レオは背筋の冷える思いがした。
「最初から捨て駒だったのでしょう」
ガレスは何も言わず、ただ拳を握り直した。
兵士たちは書庫の調査を続けていた。松明の灯りが石壁に揺らめき、埃っぽい空気の中に紙とインクの匂いが混じっている。
「こちらは異常ありません!」
「この箱も帳簿だけです!」
次々と報告が入る。声には焦りと落胆が入り混じっていた。
だが決定打は見つからない。残された帳簿の多くは、表向きの取引記録に過ぎず、白鴉の関与を直接示すものではなかった。
白鴉が持ち去った六箱こそが核心だった。その事実だけが、皮肉にも彼らの重要性を証明していた。
「レオ様」
エレナが一冊の帳簿を持ってきた。歩調は落ち着いていたが、目には隠しきれない緊張が浮かんでいる。
「これを」
レオは受け取る。古びた革表紙は角が擦り切れ、長年繰り返し開かれてきたことを物語っていた。中を開くと、商会名が年代順に几帳面な字で並んでいた。
「これは……」
「寄付金の記録です」
「寄付?」
「表向きは」
エレナが静かに言った。
「孤児院や教会への寄付という名目になっています」
レオはページをめくりながら耳を傾けた。一見すれば、慈善事業への継続的な支援を示す、何の変哲もない記録に見える。
しかし金額を追っていくと違和感があった。
一つの教会へ送られた翌月、ほぼ同額が別の商会へ流れている。さらに翌月には、また別の領地へと形を変えて流れていく。金額は微妙に上下しながらも、総額としてはほぼ一致していた。まるで一つの資金が、名目を変えながら国中を巡っているかのようだった。
「洗っていますね」
レオが呟く。
「はい」
エレナも頷いた。
「慈善事業を利用して資金を移しています。表向きは善行に見えるため、誰も疑いません」
ガレスが顔をしかめた。
「胸くその悪いやり方だ」
その声には、単なる憤りだけでなく、こうした手口がどれほど発見しにくいかを理解している者の苦さがあった。善意の仮面をかぶった資金移動は、監査の目をすり抜けるどころか、むしろ称賛の対象にすらなる。
レオはさらにページをめくる。年月を追うごとに、資金の規模は少しずつ大きくなっていた。最初は小さな慈善の名目から始まり、やがて複数の商会、複数の領地を巻き込む規模へと膨れ上がっている。
突然、その指が止まった。
「……ここだ」
「何かありましたか」
エレナが覗き込む。
ある年だけ、寄付額が異常に多い。他の年と比べて桁が一つ違うほどの規模だった。しかもその使途は、それまで以上に細かく分散され、追跡を困難にする工夫が施されている。
しかも十七年前だった。
「また十七年前か」
ガレスが低く言う。その声には、偶然では片付けられないという確信が滲んでいた。
閲覧記録。
王位継承文書。
そして、この資金。
すべてが同じ年へ収束している。バラバラに見えていた事件の断片が、一本の線で繋がっていくような感覚に、レオは静かに息を整えた。
「何かが始まった年です」
レオは確信し始めていた。単なる偶然の一致で片付けるには、あまりにも符合しすぎている。
「黒蛇会ではありません」
「もっと前」
レオは帳簿を閉じ、静かに続けた。
「白鴉自身が動き始めた年なのかもしれません」
その言葉に、ガレスもエレナも息を呑んだ。もし十七年前に白鴉がすでに動き出していたのだとすれば、これまで彼らが追ってきた事件の構図そのものを、根本から見直す必要が出てくる。ヴィクターも、黒蛇会も、そしてエドガー殿下すらも、白鴉が長年かけて描いた絵図の一部に過ぎなかったのかもしれない。
◇ ◇ ◇
その時、一人の兵士が駆け込んできた。息が乱れ、額には玉のような汗が浮かんでいる。
「失礼します!」
「どうした」
ガレスが鋭く振り向く。
「王宮から急使です!」
息を切らせながら報告する。
「グレイストン卿がお呼びです!」
「何がありました」
兵士は緊張した面持ちで答えた。声が一瞬詰まる。
「エドガー殿下が……」
一瞬、言葉を詰まらせる。周囲の視線が一斉に兵士へ集まった。
「拘束室から姿を消しました」
部屋の空気が凍りついた。松明の炎さえも、その瞬間だけ揺らぎを止めたように感じられた。
「消えた?」
ガレスの声が低くなる。刃のように鋭い響きだった。
「牢番は?」
「全員その場にいました」
「では、どうやって」
「それが……」
兵士は悔しそうに拳を握る。
「鍵は閉まったまま。窓も壊されていません。争った跡もありませんでした」
まるで最初から誰もいなかったかのように、拘束室はただ静かに空いていたのだという。牢番たちは異常な物音も気配も感じておらず、それだけに事態の異様さが際立っていた。
レオはゆっくりと目を閉じた。
白鴉。
また一歩、先を越された。地下書庫での手がかりも、拘束室からの脱出も、すべてが白鴉の掌の上で進んでいるかのようだった。
だが今度は逃がさない。
レオは静かに目を開くと、部隊長へ向き直った。その瞳には、先ほどまでの静かな思索ではなく、はっきりとした決意が宿っていた。
「王宮へ戻ります」
「全ての出入口を封鎖してください」
「エドガー殿下は、まだ王都の中にいるはずです」
その一言に、部隊長もガレスも頷いた。地下書庫に残された謎は、依然として多くを語らないままだったが、少なくとも一つだけは確かだった。この夜のうちに、決着をつけなければならない。




