190話
秀平のエラーに思わず口を開けて硬直してしまった。
勝ったと、優勝したと思った瞬間に起きたミス。
一塁側スタンドからの歓声と三塁側スタンドからの落胆の声は一転し、三塁側スタンドからは拍手と歓声が沸き起こり、一塁側スタンドからは歓声が消えた。
バックスクリーン。センターのフェンスの向こうに設けられた巨大な電光掲示板に「E」のランプが灯った。
ツーアウト一塁。
そして迎えるバッターは…。
「ありえねぇ」
何故だろう。優勝目前で起きたチームのエラー。普通なら落胆するはずなのに、俺の気分は高揚していた。
やはり抗えないものだな。ピッチャーとしての本能には…。
確かに、あのまま三人で終わってしまったら、俺の感情は不完全燃焼のままくすぶり続けていただろう。あの男と最終決戦しないと気がすまなかったはずだ。
なるほど、川端が大輔との対決を強行した気持ちが分かった。
やはり俺と川端は、似た者同士だ。
≪四番ライト鵡川君。ライト鵡川君≫
さぁ、最後の一山だ。
甲子園目前なんだ。最後にこれぐらいデカイ山がなきゃおかしいわな。
空を見上げる。あぁこれだよ。この感覚だ。
頭のてっぺんから足の先まで走るビリビリした刺激。
気分の昂ぶりは抑えられない。胸を左手で抑え、大きく深呼吸する。
ここで哲也がタイムをかけて、マウンドへと内野手を集めた。
その中で一人、秀平が今にも泣きそうな顔を浮かべてやってきた。
「す、すいません…お、俺が弾かなければ…」
震えた声で秀平は深々と頭を下げた。
「謝る事じゃねぇよ秀平。三年の俺らがビビってんのに、一年坊主のお前が、この場面で緊張するのは当然なんだ。だから、気にすんな」
俺は秀平の頭に左手をポンッと置きながら、優しく言う。
「それに修一もミスしたしな」
「うるせぇ! それを言うな誉!」
ニヤニヤ笑いながら中村っちをからかう誉と、誉を恥ずかしそうに睨みつける中村っち。
それを見て笑う恭平と哲也。良かった。他のやつらは言うほど緊張していないようだ。
「むしろ秀平に感謝だ。あいつとまた戦えるんだからな」
そういって俺は、打席へと目を向ける。
そばで俺を睨みつける鵡川良平と目があった。
ここでベンチから鉄平が飛び出した。
マウンドにやって来る彼は伝令係。まもなくマウンドの円陣の輪に加わった。
「監督からの伝言。鵡川と川端と勝負を避けるかは好きにしていいってさ」
佐和ちゃんは、俺がどうするか分かってるらしい。
だからこそ勝負避けろなんて指示しなかったのだろう。
「どうする英雄? 鵡川君と川端君、両方と勝負を避ける?」
哲也が聞いてくる。あくまでこれも業務的な質問だ。
おそらく哲也も俺がどの選択するのか予測付いているだろう。
俺は首を左右に振って即答した。
「相手は全国クラスのバッター。下手すりゃプロにも行けるほどバッティングセンスを持った選手だ。そんな奴らから逃げてちゃ甲子園優勝なんて、夢のまた夢の冗談話になっちまう」
自分の意見を語り、ニヤリと笑う。
俺の目標はあくまで甲子園優勝。その目標を果たすには、ここで逃げるという選択肢はない。
哲也はやっぱりと言わんばかりの顔を浮かべて、呆れたように小さくため息をつく。
「そっか。…よし、じゃあそうしよう!」
「おっしゃあ! そうと決まれば英雄! 最後は俺のところに打球飛ばせよ! それを華麗に処理して、千春ちゃんに婚姻届渡すぜ!」
「あとで覚えてろよ」
そう恭平の一言に俺が舌打ちしてから釘をさしておく。
この野郎、俺の妹にそんな事したら絶対に許さないからな。
だが、この恭平の気楽すぎる言葉に内野にいた選手たちが呆れたように笑った。秀平もその一人。
恭平のバカ発言が合図になって、各々が各ポジションへと戻っていく。
「なぁ哲也」
「ん? どうしたの?」
哲也が戻る直前、俺は哲也に声をかけた。
「甲子園、行こうぜ!」
「…うん!」
俺の一言に、哲也は笑顔で返す。
思わず俺も笑みを浮かべた。
そういえば小学生の頃、哲也と約束したな。あれは俺の家のテレビで高校野球の実況中継を見ていた時だったか…。
高校生になったら二人で甲子園を目指す。
忘れかけていた記憶が蘇り、思わずほんわかとしてしまう。
まったく、なんで野郎とこんな約束しちまったんだか。できれば可愛い幼馴染と約束したかったぜ。
帽子を目深にかぶりなおす。
夏の日差しを遮る帽子のつばの向こう、右打席に立つ鵡川良平を睨む。
さて…最後の大勝負と行きますか…。
試合が再開する。
打席で構える鵡川良平を見て、先ほどのホームランが頭によぎる。
それすらも俺を興奮させる材料となる。
抑えるか、打たれるかの瀬戸際。
ここを乗り切れば、俺は怪物になれる…いや近づけるはずだ。
哲也のサイン。インコースへのストレート。
強気なリードは相変わらず。どんなバッターであろうと攻めのリードは崩さない。
最高だ。やっぱりお前とバッテリー組んできて正解だ。
盗塁されるの覚悟の上で、俺はゆっくりと振りかぶった。
クイックモーションで抑えられる程のバッターだと思わないし、クイックモーションで抑えられるバッターと俺は認めない。
ここは全力、全身全霊をもってして鵡川良平を抑え込む!!
先ほどの対決の時にあった違和感はない。震えもない。
意識は集中し、哲也のミットだけを見据える。
スタンドからの応援も聞こえない。夏の暑さも感じない。俺は純粋に投げるということに意識を傾倒していく。
初球、インコースへのストレートを放つ。
指先に残るのは完璧に決まった時に感じる感覚。
ゼロコンマのスピードで、ボールはマウンドからキャッチャーミットへと収まった。
迫力ある音が哲也のミットから響いた。
鵡川良平は打ちに来ず、そのまま見送った。
「ストライィィク!」
ここぞとばかりに球審が吠えた。
最後の大事な一戦。審判もドキドキしながら見てるんだろうな。
審判だけじゃなく、この球場にいる誰もがドキドキしながら、この試合の結末を見ようとしている。
エース対四番の一騎打ち。
表の攻撃では四番に軍配が上がった。さて、この攻撃ではどっちに軍配があがるか?
二球目、今度はアウトローへのストレート。
小さく頷いた。
息を吐き、一度一塁ランナーを見る。猪俣は盗塁する様子はない。
もう一度息を吐いて意識を整え、ゆっくりと振りかぶる。
夏のクソ暑い中で行われる高校野球。だが今の俺は夏の暑さよりも熱い戦いの中にいる。それだけでも俺の気分は馬鹿になったぐらいに高まった。
左腕を唸らせて、白球を投擲する。
力いっぱい振られた腕から放たれた白球は、真っ直ぐにミットめがけて飛んでいく。
鵡川良平が動いた。
前の打席で俺のボールを粉砕したあの一撃。
手本を極めたような綺麗なスイングなのに、凶暴な肉食獣のように白球を迎え撃つ一発。
快音が木霊した。
打球はライナーで一塁線の右へと飛んでいく。当然ファールだ。
これでツーストライク、追い込んだ。
三球目、一度チェンジアップでカウントを稼ぎ、ワンボールツーストライク。
次のサインはフォークボール。
決め球として去年の秋頃から練習し始めた変化球。
まだまだ甘いコースに行くから不安だが、こういう場面で決められなきゃ覚えた意味がない。
ゆっくりと頷く。
イメージは丘城の伊良部に投げた時のように。
あの時も同じような場面だったな。まぁ今の方がスゲェ興奮してるけど。
四球目、ゆっくりと振りかぶる。
低めに落とす。ワイルドピッチは恐れない。哲也がきっと受け止めてくれる。
そう信じて、俺はラストボールを投げる。
最終回ツーアウト。ここに来て俺の感覚は鋭利に研ぎ澄まされるようになった。
今投じた一球も完璧だったと確信するほどに指先に残る感触は良かった。
鵡川良平が打ちに来ようとして、紙一重バットが制止した。
下へと落下するボールにバットは出ることなく見送られた。
球審が一塁審判にジャッジを求める。一塁審判の両手は左右に広げられ、ボールの判定がされた。ぎりぎりバットは回っていないと判定が下ったか。
「はぁ…」
自然とたまった緊張をほぐす。
これでツーストライクツーボール。平行カウントとなった。
今のフォークを見逃されたんだ。
スライダーを投じても、カットボールを投じても、チェンジアップを投じても、確実に合わされる。そんな気がする。
そうなると投げるボールは一つしかない。
哲也だって気づいている。そしてあの強気なリード大好きな哲也なら、どんなサインを送ってくるかも予測がつく。
五球目。哲也が選んだサインは…アウトローへのストレート。
先ほどの打席で俺がホームランを打たれたコース。
ここでそれを要望するあたり、哲也は案外腹黒いのかもしれん。だが、こういうバカすぎる強気なリードは好きだ。俺はゆっくりと頷いた。
完璧な一球を…ここで決める。
大きく振りかぶる。
体は勝手に動いていくのに、脳は一つ一つの動作を確認し、正常に動いているのを認識する。
前へと突き出された右足は、杭のように地面を突き刺し、左足はわずかの回転で地面をえぐる。そこから、ふくらはぎ、太もも、腰、背筋、肩、二の腕、手首、指先が、一連の動作のように動いていく。
投球フォームから生み出された力は余すことなく、左手に収まる白球へと込められていく。
そうして、指から放たれるその最後まで、力を込め続けて…振り抜いた。
今日投げた126球の中で一番と自信を持って言えるぐらい、満足できる投球フォームだった。
そして、そこから投げられたボールも、自分の出し切れる最高の一球だと言い切れる。
これを打たれたなら、俺は甲子園優勝ピッチャーになれる器じゃないって事だ。
行け…!
投げ抜いた姿勢のまま、勝負の行方を見守る。
鵡川良平は打ちに来た。こちらも最高の一撃で迎え撃つ。
去年の夏見せたあの一撃が、今日打たれたあの一撃が、脳裏によぎる。
鵡川良平のスイング。世界はスロー再生のように遅くなっていく。
極限まで集中した状態になると、世界がスローモーションになると前にどこで聞いた気がする。
それぐらい俺は集中しているということか。
最後の一騎打ち、鵡川良平のスイングは……。
聴覚は確かに乾いたミットの轟音が鼓膜に届いた。
視覚は確かに鵡川良平がバットを空を切る姿を視認した。
「うおぉぉぉぉぉぉ!!」
その瞬間、俺は無意識に吠えていた。




