188話
耕平が三振に終わり、今打席に入っている龍ヶ崎も打てる様子がない。
ネクストバッターサークルで腰を下ろしながら、俺は呼吸を整える。
川端の投じるボールは最終回を迎えて、今日一番の状態になっている。
初回に比べて球威が上がってるようにも見える。
こればかりは打席に入らなきゃ分からないが、それでもネクストバッターサークルにいるだけで感じるような威圧。
川端は間違いなく、今日最高の調子で俺を迎えるだろう。
ぞわっと背筋に寒気が走った。今まで感じたことのない感覚。
龍ヶ崎が三振で終わった。これでツーアウト。
ネクストバッターサークルから立ち上がる。
足が震えている。もしかして俺…緊張してるのか?
最終回ツーアウト。
俺が打たなきゃ負ける…。そう考えると余計に震えてきた。
こんな感覚初めてだ。
「大輔!」
ふと英雄の声が聞こえた。
振り返る。ベンチにいる英雄と目があった。
彼はどこか楽しそうに笑っていた。
「…英雄」
にっこりと笑う英雄の笑顔。彼なりに俺を緊張させないために無理して笑顔を浮かべてるんだろう。
本当なら一番泣きたいのはあいつのはずだ。自分の失点のせいで負けてると思ってもおかしくないしな。
なのに、気丈に笑顔を浮かべる英雄。本当、あいつらしい。
「いつも通り、来た球を打てば良いんだよ! ホームランならそれでオッケー! ヒットなら俺が決めてやる! 打てなかったらしゃーない! お前が打てないなら誰も打てねーよ!」
明るく声を張り上げる英雄。
彼の言葉に、いくぶん気が楽になった。
そうだな。いつも通りやればいい。無理してホームランを狙う必要もない。後ろには英雄がいる。その後ろには修一が、その後ろには新座がいる。
だから俺が決めなくても良い。
いつも通り、来た球を打つのみだ。
≪四番レフト三村大輔君。レフト三村大輔君≫
球場は今日一番の熱気に包まれていた。
あとアウト一つで優勝。だが打席には四番、マウンドにはエース。試合を決める最後のエース対四番の一騎打ち。
ここで盛り上がらない方がおかしい。
だが俺はこの熱気に惑わされる必要はない。俺はいつも通りで良いんだ。
「お願いします!」
打席に入る前に、一度深く頭を下げて挨拶をする。
そうして右足から打席へと入っていく。
マウンド上の川端は帽子のつばをつまんで俺を見ている。口元は歪んでいて、どこか楽しそうだ。
あの様子じゃ、優勝に緊張して失投という展開は望めないか。
足場を軽く固めて、ホームベースをバットの先で小突いて、そのままピッチャーへとバットを向ける。
俺が打ち損じれば試合は終わるという状況なのに、不思議と緊張していない。
英雄の言葉で我に返った。俺はいつだってホームランを狙ってはいなかった。だから、ここでもホームランは狙わない。
あくまでもヒット。あとは英雄に任せる。
バットをゆっくりと構える。
打ち損じるイメージが全然沸かない。
どんな球でも弾き返すイメージしか沸かないんだ。
スタンドから聞こえる太鼓の音が、ラッパの音が、生徒たちの応援歌が、球場のボルテージを高めていく。
それに合わせて、俺の心臓の鼓動も早まっていく。
マウンド上の川端はキャッチャーのサインを拒むように何度も首を左右に振っている。
さっきまで楽しそうにしていたのに、表情が機嫌悪そうだ。
「すいません! タイム!」
ここでキャッチャーが声を張り上げた。
なに? ここでか? 俺は不思議に思いつつも、マウンドにいる相手バッテリーの様子を伺うのだった。
「遊星! どういうことだ!」
達男はマウンドに来るなり、俺の名前を呼び、怒った顔を浮かべて声を荒らげた。
「それはこっちのセリフだ達男」
達男が怒っているのは、俺が言うことを聞かなかったからだろう。
だが、俺だって怒っている。
「せっかくの三村との最終決着だぞ? なんで敬遠のサイン出すんだよ」
俺が怒っている原因はこれだ。
正直ありえない。水を差すサインにも程がある。
せっかく俺は最高の気分で三村を迎えたのに、あんまりだ。
「常識的に考えろ遊星。三村と佐倉。どっちが抑えやすい?」
「どっちが楽しいかなら三村だ。俺は楽しい方を選ぶ」
俺はいつだってそうやってきた。
だから今回も楽しい方を選ぶ。
「…三村にホームラン打たれて負けたらどうするつもりだ?」
「負けるわけないだろ。勝負する前から負けること考えてんじゃねーよ達男」
俺と達男は睨みあう。
ここで達男は外野へと視線を向けた。ライト方向、あっちにいるのは…良平か。
もうまもなく、良平はライトから走ってやってきた。律儀な奴だ。
最終回ツーアウトで、バッテリーがタイムをかけて、あろう事か外野にいるキャプテンがマウンドに走ってやってくる。
異例な事態にスタンドはどこか騒然としている。
「どうした達男?」
走ってやってきた良平が達男に用を聞く。
達男は一度俺を指さした。
「遊星が三村と勝負したいらしい」
機嫌悪そうに達男がいう。
良平は俺と達男を交互に見た。
「…ベンチの指示は敬遠だったよな?」
「あぁ」
「ベンチなんか関係ねぇ。俺が三村と対決したいんだ」
キャプテンの良平に俺の思いをぶつける。
単純に三村と勝負して勝ちたい。あんなスゲェ奴と戦える機会はもう少ない。きっとあいつは甲子園に行っても早々いないレベルのバッターだ。
「…抑える自信あるのか?」
「もちろん!」
そこに関しては問題ない。俺が絶対に抑える。
良平は一度俺を睨みつけて、ベンチへと視線を向けた。おそらく監督に視線を向けているのだろう。
俺も監督を見る。監督は呆れたように首を左右に振り、そこから一度頷いた。
「達男、三村と勝負で行こう」
「マジか?」
「マジだ。最悪打たれても、裏で俺に打席が回る。だから俺が決める」
良平と達男が早口で話し合う。
そろそろタイムの時間も終了だろう。球審がまだかまだかと待ちわびている。
「安心しろ。俺は一度佐倉英雄からホームラン打ってる」
自信のこもった良平の力強い声。
それが達男の意見を封じ込める材料となった。
「…分かったよ。抑えられるよう配球する。だから遊星。頼んだぞ」
その言葉に俺は嬉しくなった。
やったぁ! 三村と対決できる!
「ありがとう達男! ありがとう良平!」
俺が笑顔で二人に感謝する。
二人は呆れたように溜息をついてから、各ポジションへと戻っていく。
残った俺は抑えられない笑みを浮かべながら、打席そばにいる三村へと視線を向けた。
マウンド上で行われていた相手チームのバッテリーとキャプテンの話し合いが終わり、キャッチャーとキャプテンが各ポジションへと戻っていく。
一人残った川端だけが、嬉々とした表情を浮かべて俺へと視線を向ける。
おそらく、俺との勝負を避けるかどうかで意見が割れたのだろう。それでもまさか外野にいるキャプテンを呼ぶほどとはな。外野のキャプテンがマウンドに向かった時は一時スタンドも騒然としていたしな。
しかし、結果は対決を選んできたわけか。
いや、マウンド上での議論は聞こえなかった。当然議論の結果は分からない。だけど川端の表情を見ればわかる。あいつは俺と勝負したがっている。
一度、邪魔された気分になったし仕切り直しだ。
俺は気持ちを切り替えるように大きな溜息を吐いた。
マウンド上の川端はニヤニヤと嬉しそうに笑っている。
よほど俺との対決を心待ちにしていたらしい。今すぐそのニヤケ顔を変えてやる。
初球は外角低めへのストレート。
投じられた瞬間、前の打席までとは違うストレートに一瞬動揺したが、すぐさま意識を切り替えて打ちに行く。
力に逆らわず振りぬいた打球は、ライナーで一塁側のベンチすぐ横のフェンスに直撃する。
ガシャン! という音とスタンドの生徒から漏れた悲鳴が耳に入り、俺は一度深い溜息をついた。
今のボール、最終回なのに、今日一番の球威があるんじゃないだろうか?
川端の奴、やっぱり調子を上げてきている。
奴の表情を見るに、最高にこの場面を楽しんでいるのだろう。
「…英雄みたいなやつだな」
思わずぼやいていた。
英雄もこの場面、きっと楽しんでいただろう。
だが川端と英雄は、なんか大きな部分で違う気がする。どこが? と聞かれたら答える自信がないがな。
個人的には英雄と対決したほうが楽しめた気がする。
それにしても、最終回で今日一番の球威とは恐れ入った。
火事場の馬鹿力なんつう言葉もあるし、人間の奥底に秘めた力とは恐ろしいものだ。
二球目、今度は内角から外角へと向かうカーブ。
投じられた瞬間からバッティングフォームが崩れた。完璧にタイミングを外された。
ここは無理して打ちに行かない。素直に見送った。
「ストライク!」
球審の判定はストライク。今、若干外れたようにも見えたのだが…。これをストライクにされるか。
今日は朝の天気予報で猛暑日になると言っていたし、現に暑い。球審も早く終わらせたいのだろう。そう自分の中で不満を完結させて、気持ちを切り替える。
これでツーストライク。
次は何で来る? 決め球のフォークか? カウント稼ぎにスライダーか? ストレートでストライクか? あるいはカーブを続けて?
…深く考えるな。直感を信じろ。いつだってそうやってきただろう?
そう自分に暗示をかけるように、胸の内で呟く。
来た球を打ち抜く。それが俺の信条だ。再確認するように、そう自分に言い聞かせた。
三球目、川端は投球動作に入る。
クイックモーションから放たれたのは低めのストレート。
…いや、これは…。
手元で落ち始めるボール。
動きし王になったスイングを停止させ、そのまま見送った。
「ボールッ!」
球審の声に安堵の息を漏らす。
やはり、フォークで空振りを狙いにきたか。危なかった。もうちょい反応が遅れたら空振りを取られていたかもしれん。
だがこれで、相手バッテリーもフォークを投げづらくなったはずだ。
「っち!」
俺の耳に聞こえるぐらい大きな舌打ちをキャッチャーがしてきた。
今ので下手すりゃ優勝が決まっていたんだ。機嫌を悪くするのも当然か。
四球目。
今度は明らかボールになるチェンジアップ。
これをタイミング取るだけで見送りボール。
カウントはツーボールツーストライク。平行カウントになった。
まずいな。スリーボールになったら最悪歩かされるかもしれん。現に前の打席は敬遠された。この打席だって、おそらく敬遠予定から対決するよう切り替わっただろうし、さすがにスリーボールになれば歩かされそうだ。
まぁそれでも出塁できるから良いが、せっかく川端と一騎打ちなんだ。打つか抑えるかで決着つけたい。
俺も川端と同じで、この場面を楽しんでいるようだ。もしかしたら口元が緩んで笑っているかもしれんな。
試合を決めるかもしれない緊迫したエースと四番の一騎打ち。
この張り詰めた空気は、観客も肌で感じているだろう。どこかで試合を見ている里奈も、固唾を呑んで見ているだろう。
そうだ。勝とうと負けようと、この試合が終わったら、里奈と遊びに行こう。
そんな事が頭の中で不意に出てくる。
どうやら、俺は緊張していないようだ。いつも通りに出来ている。そしてこれからもいつも通りこなすのみ。
「大輔! 頼むぞ!」
「行け大輔! 決めろ!」
ベンチからの仲間たちの声援を耳にしながら、俺は川端を見据える。
五球目。
川端がクイックモーションから右腕を振るった。
ゾクリと背筋に何かが走った。
この感覚は…これまでの試合で何度も感じてきた打てる時の感覚。
放たれたのはインコースへのストレート。
それを俺は力一杯振り抜いた。
これまで何千何万と繰り返してきたスイングの中で、きっと一番と言える程の完璧な一振り。
足、腰、腕、手首、あらゆる部位が求める完璧な動きでボールを迎え撃つ。
そんな完璧な自画自賛してしまうほどのスイングで捉えたボールは、わずかに両手に心地よい衝撃を残して、弾け飛んだ。
電撃が走ったように、俺の心は晴れていく。
ヘルメット内に反響する金属バットの快音は、鼓膜を通り脳みその奥底で何度も波のように押し寄せ、引き、また押し寄せた。
かつてないほどの爽快感が体に走った。
弾け飛んだ打球は、レフトスタンドに向かってグングングングンと伸びていく。
そうしてまもなく、打球はレフトフェンスを高々と越えて、スタンド最上段に飛び込んだ。




