第9話「靴下の左右が分かる女」
「それ右」
洗濯物を畳んでいた母が手を止めた。
「何が?」
「その靴下」
「左右ないやつだけど」
「右」
母は言った。
「同じでしょ」
「違う」
沙耶には分かる。
どんな靴下でも、右と左がある。
新品でも分かる。
左右対称の商品でも分かる。
一度も履かれていなくても、右は右で左は左だった。
何を基準に決まっているのかは知らない。
メーカーに問い合わせたこともある。
『左右共通仕様となっております』と丁寧に回答された。
それでも沙耶には分かる。
「これ左」
「もう好きにして」
母は諦めた。
沙耶は左右を揃えて畳み直す。
小学生の頃からそうだった。
左右を逆に履くと、気持ちが悪い。
物理的な違和感はない。
ただ、「逆だ」と分かってしまう。
大学生になり、一人暮らしを始めても習慣は変わらなかった。
ある日、恋人の亮介が泊まりに来た。
朝、彼が床に落ちていた靴下を拾う。
「これ借りていい?」
「いいけど」
亮介が履く。
沙耶は固まった。
「逆」
「何が?」
「左右」
「これ左右ないよ」
沙耶は言った。
「ある」
「ないって」
「右を左に履いてる」
亮介は自分の足を見た。
「違いなくない?」
「ある」
「どこ」
「分からない」
亮介が尋ねた。
「分からないのにあるの?」
「あるの」
亮介は笑った。
「沙耶、そういうとこ細かいよな」
その言葉に、沙耶は少しだけ引っかかった。
細かい。
昔から言われる。
ペンの向き。食器の位置。充電ケーブルのまとめ方。
確かに自分は細かい。
でも靴下だけは違う。
本当に分かるのだ。
「もういい」
沙耶が言うと、亮介は首を傾げた。
「怒った?」
「別に」
声が少し短くなった。
亮介はしばらく黙っていた。
その日の夕方、二人で買い物へ行った。
靴下売り場で亮介が足を止める。
「これ買おうかな」
三足千円の無地ソックス。
「好きにしたら」
「沙耶」
「何」
会計を済ませると、亮介は袋から一足取り出して両手に持った。
「どっちが右?」
沙耶は見る。
「そっち」
「こっち?」
「うん」
亮介はタグの裏に小さくペンでRと書いた。
「何してるの」
「分かんなくなるから」
「左右ないって言ってたじゃん」
「俺には分からないけど、沙耶にはあるんでしょ」
沙耶は何も言わなかった。
亮介はもう片方にLと書く。
「これで合ってる?」
「……合ってる」
「じゃあ今度からちゃんと履く」
「別にそこまでしなくていいよ」
亮介は言った。
「さっき怒ってたじゃん」
「怒ってない」
「怒ってた」
「ちょっとだけ」
亮介が笑う。
沙耶も少し笑った。
帰宅後、新しい靴下を洗濯した。
翌朝。
亮介が履いている。
沙耶は足元を見る。
「逆」
亮介が止まった。
「え?」
「Rって書いた方、左に履いてる」
亮介は靴下を脱いだ。
「字が内側で見えなかった」
「意味ないじゃん」
「じゃあ外にでっかく書く?」
「それはダサい」
二人で笑った。
靴下に左右があることを理解してもらえたわけではない。
たぶん一生、亮介には分からない。
でも、分からないものを分からないまま合わせてくれる人もいる。
沙耶は右の靴下を亮介へ投げた。
「ほら」




