第8話「落とした物がどこで止まるか分かる男」
五百円玉が指から滑った。
落ちる。
床に当たる。
その瞬間、和也には分かった。
自動販売機の右奥、脚から二十センチ。
「そっち」
転がる硬貨を追わず、和也は先回りした。
五百円玉は予想どおり靴の前で止まった。
「またそれ?」
恋人の由衣が呆れた顔をする。
「便利だろ」
「落とさなければもっと便利」
和也には、落とした物が最終的にどこで止まるか分かる能力がある。
手から離れ、重力で落ち、跳ねたり転がったりした物限定。
投げた物は分からない。
風で飛んだ物も分からない。
人が蹴った時点で予測は消える。
使い道は、ほとんどない。
しかし和也は、物をよく落とす。
ペン。小銭。鍵。箸。スマホ。
そのため本人にとっては、そこそこ便利だった。
「今日、緊張してる?」
由衣が聞く。
「別に」
「朝から三回物落としてる」
「偶然」
「今ので四回」
二人は付き合って四年になる。
今日は記念日だった。
夕食の予約をしている。
そして和也のジャケットの内ポケットには、小さな箱が入っていた。
婚約指輪である。
由衣は知らない。
たぶん。
レストランへ向かう途中、和也は何度もポケットへ触れた。
「さっきから何?」
「何でもない」
「怪しい」
「本当に何でもない」
予約した店はビルの最上階にあった。
食事が進んでも、和也はタイミングを逃し続けた。
デザートが来る。
もう後がない。
由衣がコーヒーへ砂糖を入れている。
今だ。
和也はポケットから箱を出そうとした。
指が滑った。
小さな箱が床へ落ちた。
「え」
由衣が見る。
箱は椅子の脚に当たり、跳ね、テーブルクロスの下へ滑り込んだ。
その瞬間、和也には停止位置が分かった。
由衣の右足のすぐ横。
最悪だった。
「何落としたの?」
「いや」
由衣が屈もうとする。
「待って!」
声が大きくなった。
近くの客が振り返る。
由衣も止まる。
「何?」
和也は床へしゃがんだ。
当然、箱は予想どおりの場所にあった。
拾う。
立つ。
もう隠せない。
由衣は箱を見ている。
「それ」
「うん」
予定していた言葉が全部飛んだ。
夜景が見える席。
記念日。
デザート。
完璧に準備したはずだった。
なのに和也の手には、床を一回転した小箱がある。
「……結婚してください」
それだけ言った。
由衣は口元を押さえた。
数秒、何も言わない。
和也の能力はこういう時には何も教えてくれない。
返事がどこへ転がるかは分からない。
「ほんと、締まらないね」
由衣が笑った。
目の端に少し涙があった。
「悪かった」
「でも、和也っぽい」
そして手を出した。
「お願いします」
和也は息を吐いた。
指輪を取り出す。
由衣の指にはめようとした、その時。
また滑った。
「あ」
指輪が床へ落ちた。
和也にはすぐ分かった。
隣のテーブルの下。
「右、二メートル」
「何が?」
「指輪」
「なんで分かるのよ!」
二人で床を覗き込む。
隣の客まで一緒に探してくれた。
無事に見つかった。
帰り道、由衣が言った。
「その能力、今日だけは役に立ったね」
「いつも役に立ってる」
「物を落とす前提でね」
和也は反論できなかった。
その夜から、婚約指輪だけは絶対に落とさないよう、由衣の方が気をつけるようになった。




