第6話「誰かがくしゃみする2秒前だけ分かる女」
「はい」
宮下はティッシュを差し出した。
向かいの席の田中が怪訝な顔をする。
「何?」
「使うから」
「何に」
「二、一」
「はっ……くしゅん!」
田中は目を丸くした。
宮下は何も言わずパソコンへ視線を戻した。
「怖っ」
「慣れて」
宮下には、半径十メートル以内にいる人間がくしゃみをする二秒前、それが分かる。
誰がするのかも分かる。
二秒前だけ。
止めることはできない。
原因も分からない。
役に立つことといえば、ティッシュを差し出すくらいだった。
春は地獄である。
朝の電車では絶え間なく感覚が来る。
右後ろ。
二秒。
左前。
二秒。
斜め向かい。
二秒。
花粉症の季節には、人混みにいるだけで頭が忙しい。
「宮下さんって、田中さんの時だけティッシュ出すよね」
昼休み、同僚の山本が言った。
「席が近いから」
「私も近いけど」
「山本さん、あんまりくしゃみしないじゃん」
「そういう問題かな」
田中は同じチームの同期だった。
よく話す。
昼食もたまに一緒になる。
そしてかなりの花粉症だった。
だから宮下は毎日のようにティッシュを差し出している。
本人はそれ以上の意味はないと思っていた。
たぶん。
四月のある日、田中がマスクを外して言った。
「明日休むわ」
「なんで」
「病院。花粉症の治療」
「そんなひどい?」
田中は言った。
「毎年死にそうだから」
「大げさ」
「宮下には分からない」
分かる。
少なくとも、くしゃみの回数だけなら誰より分かる。
翌週。
田中のくしゃみが減った。
翌々週には、ほとんどしなくなった。
宮下の机の右端には、箱ティッシュが置かれたままになった。
「最近田中さんにティッシュ渡してないね」
山本が笑う。
「治療効いてるみたい」
「寂しい?」
「なんで」
「いや、なんとなく」
宮下は返事をしなかった。
午後三時。
田中が隣の席で資料を見ている。
何も来ない。
三時半。
何も来ない。
四時。
何も来ない。
以前なら一時間に何度も感じていた二秒前がない。
仕事はしやすい。
静かである。
なのに宮下は、時々右側を見るようになった。
「何?」
田中が気づく。
「別に」
「今日それ三回目」
「気のせい」
金曜の夜、部署の数人で飲みに行った。
店を出ると、雨が降っていた。
山本たちは駅とは逆方向へ帰る。
宮下と田中だけが同じ道になった。
「傘ある?」
「ない」
「入る?」
田中がビニール傘を少し傾けた。
二人で歩く。
肩が近い。
宮下は妙に落ち着かなかった。
能力とは関係ない。
そういう感覚だった。
交差点で信号を待っている時、久しぶりに来た。
田中。
二秒。
宮下は反射的に鞄へ手を入れた。
一秒。
田中が顔を背ける。
「はっくしゅん」
宮下はティッシュを差し出した。
田中が笑う。
「久しぶりだな、これ」
「そうだね」
「なんで毎回分かるの?」
いつもなら適当にごまかしていた。
でも今日は、少しだけ話したくなった。
「二秒前に分かるから」
「何が」
「誰かがくしゃみするの」
田中は立ち止まった。
雨粒が傘を叩く。
「……マジで?」
「マジ」
「特殊能力?」
「たぶん」
「しょうもな」
宮下は笑った。
「知ってる」
田中も笑った。
駅前で別れる直前、田中がティッシュをポケットへ入れながら言った。
「じゃあさ」
「何」
「俺がまたくしゃみ増えたら分かるんだ」
「分かる」
田中は言った。
「治療効かなくなったら教えて」
「病院行けば自分で分かるでしょ」
「まあね」
田中は少し考えた。
「でも、宮下が教えてくれた方が早い」
宮下は傘の柄を握り直した。
「二秒だけね」
「短っ」
翌週。
田中は一度もくしゃみをしなかった。
宮下は少し残念だった。
もちろん、本人には言わなかった。




