第18話「コーヒーが一番おいしい温度になった瞬間が分かる男」
「まだ」
森田はカップを持ち上げ、また置いた。
後輩の井上が向かいから見る。
「飲まないんですか?」
「まだ早い」
「もう五分経ってますよ」
「あと少し」
三十秒ほどして、森田は目を細めた。
「今」
一口飲む。
満足そうに息を吐く。
井上は呆れた顔をした。
「温度計入れたらいいんじゃないですか」
「そういうことじゃない」
森田には、コーヒーが自分にとって一番おいしい温度になった瞬間が分かる。
豆の種類は関係ない。
インスタントでも缶コーヒーでも分かる。
ただし味そのものが良くなるわけではない。
まずいコーヒーは、最適温度でもまずい。
営業部では、森田がコーヒーにうるさい人間だと思われていた。
実際は豆の違いもあまり分からない。
「先輩、これブラジルですか?」
「知らん」
「さっき偉そうに『今だ』って言ってたのに」
「温度しか分からない」
ある日、部長が新しいコーヒーメーカーを買った。
「これで午後の生産性が上がるぞ」
誰も本気では受け取らなかった。
最初の一杯を森田に渡す。
「判定してくれ」
「何をですか」
「うまいか」
「分かりませんよ」
部長は言った。
「コーヒーに詳しいだろ」
「温度にだけ詳しいんです」
部長は理解できない顔をした。
結局、森田は飲んだ。
熱い。
待つ。
まだ。
待つ。
「今」
飲む。
全員が見る。
森田はゆっくりカップを置いた。
「薄いです」
「温度じゃないのかよ」
部長が言った。
金曜の夜、森田は久しぶりに父親の家へ寄った。
一人暮らしになった父は、古いドリッパーでコーヒーを淹れた。
「相変わらずブラックか」
「うん」
二人でテーブルにつく。
父は先に飲む。
「あつ」
「まだ早いよ」
「お前は昔から猫舌だな」
「そういうんじゃない」
少し待つ。
森田には分かった。
今だ。
けれど父は、窓の外を見ながら話し始めた。
母が使っていた植木鉢のこと。
近所のスーパーが閉店したこと。
どうでもいい話が続く。
森田はカップに手を伸ばさなかった。
数分後、コーヒーは最適温度を過ぎた。
能力が静かになる。
父が言う。
「冷めるぞ」
「いいよ」
森田は飲んだ。
少しぬるかった。
でも、その日はそれでよかった。
帰宅して、インスタントコーヒーを淹れる。
しばらくして能力が知らせる。
「今」
一人の部屋でつぶやいて、森田は笑った。




