03:緑色のドレス
さて、外出のための着替えだ。アビゲイルはクローゼットの中に入り再びため息をついた。何着もの緑のドレスが並んでいる。昨日までのアビゲイルが嬉々としてこれを身につけていたのかと思うとゾッとした。
「このドレス、全て処分してくれないかしら」
アビゲイルの言葉に侍女は目を剥いた。苦労して順番待ちまでして手に入れたドレスだからね。驚く方が正しいよ。
「ああ、緑のドレスだけよ。まとめて売ってきてもらえると嬉しいわ。全て売れたら2割をあなたの取り分にして構わないわ。どう?引き受けてくれるかしら」
呆れるほどウエストが細いドレスだが、この時代はどの女もバカバカしいほどウエストを締め付けている。アビゲイルが際立って細いわけではないから、買い手はつくだろう。たたき売られても構わない。この邸の外に出てくれさえすれば満足だ。そこに僅かでも値がつくなら万々歳ってやつさ。
「本当によろしいのですか?随分とお待ちになったドレスばかりですのに」
「ええ、構わないの。私、もう決して緑は着ないと決めたのよ。あなたもそれを身につけようとは思わないでね。売り払ってちょうだい」
この日のアビゲイルは、外出用にブラウンのドレスを選んだ。邸の外では装備が標準の身だしなみとなりつつあるクリノリンも付けなかった。
「クリノリンもお付けにならないのですか?」
侍女の問いは極めて正しい。貴族女性はクリノリンでふわふわと揺れ動くのが当たり前の時代だからね。
「ええ。パーティに向かうのではないですもの。問題なくってよ」
アビゲイルの支度が整った頃には、既に数人の職人が邸に到着していた。早速アビゲイルの寝室の壁紙を剥がし始めている。「窓を全て開いて作業するように」と伝えて階下へ向かった。
「若奥様、いってらっしゃいませ」
「ええ。任せたことはお願いね」
侍女に見送られて邸の外に出ると、家令が馬車の準備を終えて待っていた。徹底的に無駄を省く合理的な男だ。今のアビゲイルにとってこの上ない相棒と言える。「参りましょう」と最小限の会話のみで馬車は動き始めた。
壁紙は大流行している。それはロンドンから遠く離れたこの地でも例外ではなかった。壁紙店には様々な色や柄をした見本が用意されている。しかし悠長に取り寄せている時間はない。
最初にアビゲイルは夫の執務室の壁紙を選ぶことにした。執務室には他家の人間が頻繁に出入りをする。ここは見栄えも重要だ。だから、少し時間がかかっても納得のいくものを選んだ。執務室用には落ち着いたブルー系のクラシカルなダマスク柄のものを指定した。こちらは取り寄せ次第張替え作業を進めることにすればいい。幸い邸には、代わりに執務を行う部屋の余裕がある。
問題はアビゲイルの寝室だ。既に工事が始まっている。今すぐに用意できるものの中から選ぶのが最善だ。しかし、ここで初めて家令の表情が曇った。用意できるものの中に高級と言える品がひとつもなかったからだ。それを気にする必要はないよ。寝室に入ることが許されるのは家族と使用人だけなのだから、見栄を張る必要はない。アビゲイルは、アイボリーに小さな小花が散った壁紙を指した。
「これをいただこうかしら」
それは最も価格帯の低い壁紙に分類されていた。それはアビゲイルにとって重要ではない。今すぐ手に入ることの方が大切だった。家令は大変渋い顔をしているが、背に腹は代えられないのだよ。それに、このシンプルな柄を私は好ましく思っていた。ソフィーの時代にはこのような柄が流行していたんだ。流行は何度も繰り返す。後にアビゲイルの寝室は最先端だと驚かれるだろうさ。
たったこれだけのことでアビゲイルは既に息切れをしていた。苦しいんだよ。つい1日前まで私はTシャツにフレアースカートで過ごしていたんだ。この不自由な着こなしに馴染むまではもう少し時間が必要なのさ。
「戻りましょう。用事は済んだわ」
アビゲイルの部屋用の壁紙の代金と、執務室用のものの手付金を支払って店を後にした。後は張替えを待つだけだ。ひとつ大きなことを成し遂げた満足感がアビゲイルの胸を満たしていた。
いや、まだ邸の中を隅々まで確認し終えるまで安心するのは早い。そういえば息子の顔すら見ていないことに、この時間になって気がついた。常日頃から息子への関心が薄かったことが伺える。跡取りを産んだ、それだけでアビゲイルにとっては役目を果たしたつもりだったのだろうか。
自らの腹を痛めたわけではないが、紛れもなく今世の息子だ。今後は親子の時間も増やそう、そう決意してアビゲイルはパーカーの邸へと戻った。




