02:シェーレグリーン
何度も言っているように私自身は死なない。死ねないのさ。けれどこのままではアビゲイルは確実に死ぬ。パーシー家の人間も既に衰弱している。義理の母はベッドから出られる日がどんどん少なくなっていた。1日とて無駄には出来ない状況だった。
アビゲイルは朝食の席で今世の夫と顔を合わせた。不思議な気持ちだ。かつてソフィーだった頃には祖父、つまりこの男にも会ったことがなかった。ソフィーが生まれる少し前に亡くなっていたんだ。祖父が遺したのは借金だけだった。
「おはようアビー。今日も美しいね」
呑気にお世辞を言い合っている時間はないんだ夫よ。
「大事な話があるのよデイビット。とても急ぐ話なの」
「どれだけ君が急いでいたとして、この紅茶を楽しむ時間くらいはあるんじゃないかい?」
これだから貴族は嫌なんだ。その気取った皮肉に付き合う時間すら惜しいのさ。アビゲイルは全く優雅に紅茶を飲む気分ではなかったものの、店が開くまでにはまだ時間があることにも気がついた。席には座ろうか。幸い食堂の壁は緑ではない。アビゲイルは小さく息を吐いた。
アビゲイルの前に置かれているカップにも紅茶が注がれた。そこに砂糖を一杯落としてスプーンでくるりと回す。回す手にはレースの手袋をはめたままだった。食事をつまむ気分にはなれなかった。
「お義母さまの具合はいかがかしら」
一度紅茶に口を付けてから、とりとめもない話題を出してみた。義両親が朝食の席につかなくなって、既に数年が経っている。この時間はお2人とも寝室でお過ごしなんだ。義両親がいつ亡くなるのかはわからないが、残された時間は決して長くはないだろう。いや感傷に浸る余裕はない。アビゲイル本人すら危険な状況なのだから。
夫は今度は深刻な顔をしてみせた。
「一向に上向く気配はないね。アビーにも苦労をかけて済まないと思っている」
アビゲイルが直接義母の介護をしているわけではない。家政を任されていることを言っているのだろう。それは次期当主であるデイビットの妻として当然の役目であり、そこを謝られるとこちらも居心地がよくない。が、同時にチャンスでもある。夫が眉尻を下げている今、話してしまおうか。
「苦労とは思っていないわ。それよりも大切な話があるの。私の寝室の壁紙を今日変えるわ。家令を半日ほどお借りできるかしら」
ソフィーだった頃に聞いた話では、アビゲイルはかなりの浪費家だったらしい。何歳で死んだのかは憶えていないが、子供はケヴィンひとりだけだ。既に散財している最中なんだろう。何着も流行りのドレスを仕立てていることも今の身体が覚えていた。だからこの話も「また始まったか」くらいで聞き流すと思ったのだが。
「あの壁紙を剥がすというのかい?君もとても気に入っていたじゃないか。あれは君のために用意したんだってことを忘れたのかい?アビー」
もちろん憶えているさ。結婚が決まってからあの部屋の内装を全て新しくした、その時最先端の壁紙を取り寄せたんだと、何度も聞かされたからね。アビゲイルもそれは喜んだよ。大変美しい緑の壁紙だからね。あれはシェーレグリーンって言うのさ。多くの人を中毒にさせて、死に至らしめてきた恐ろしい染料なんだよ。そのことが明らかになるまでまだ数十年はかかる。それを待っていられるほどアビゲイルの身体は健康ではないんだ。既に症状が出ている。もう1分とてあの部屋にいたくないんだよ。
「忘れてはいないわ。けれど私の体調がすぐれないことも知っているでしょう?ずっと頭が痛いのよ。皮膚だってこんなに醜くなってしまったわ。あなたもそれは知っているわよね。以前の私の手はこんな醜くはなかったわ。あの部屋で寝ていると頭が痛いの。もう限界なのよ」
その後、夫の執務室の話もした。夫の執務室も緑の壁紙が貼ってある。夫の身体に異変がないか尋ねてみた。下痢が続いていると白状したよ。そこは食事の場だからね、上品に言い換えてはいたけれど。
「あなたの執務室も急いで張り替えたいわ。今日から別の部屋で仕事をしてはどうかしら。私に任せてくれるのなら新しいものを選んでくるわ」
「待って。ちょっと待ってくれアビー」
勢いのまま押し切るつもりが、一度夫に遮られた。汚れてもいない口元を拭い、夫は紅茶のカップを持ち上げる。
「なぜ壁紙なんだい?なぜそれが原因だと思うんだ?アビー」
知っているからだ、後の時代にネタにされるほど有名だからだ。とは言えない。だが、説得に足る充分な理由ならあった。
「だって、酷く臭うでしょう?変だとは思わなくて?料理が並び、ろうそくも灯すこの食堂はちっとも臭わないじゃない。なのに私の寝室やあなたの執務室はどう?臭いがキツいのではなくて?」
夫は考え込んでいる。図星だろう。もう反論はできないはずさ。けれど念の為あと一押しすることにした。
「費用は全て私が賄います。いくつかの宝石とドレスを手放せば充分お釣りが来るわ」
ここまで言うと、デイビットに反論する気力は残らなかったようだ。'あの'アビゲイルが私財を投げうってでもやると息巻いているのだ。並々ならぬ決意だと察したらしい。
「わかったよアビー、君の気が済むようにするといい。聞いていたね?彼女の寝室と僕の執務室の図面を至急用意して外出の準備をするように」
前半はアビーに、後半は家令に向けた言葉だ。家令は無言で頷くと静かに食堂を後にした。




