幕間 僕の知らない声(海斗視点)
三日目の夜も、部屋の配置は同じだった。
寝台がひとつ、卓がひとつ、椅子が二脚。燭台の火が卓の上で揺れている。違うのは、卓の隅に置かれた水差しが、昨夜のものより大きくなっていることだけだ。
堂島海斗は寝台の縁に腰を下ろして、二人を待っていた。今日も昼間は座学と訓練の続きで埋まっていて、報告会は湯のあとと決めてある。廊下の足音が近づいて、扉が開いた。岳人が先で、美羽が後ろだ。二人とも髪が湿っている。岳人はやはり手拭いを首にかけていた。
「今日の湯は綺麗だったなー。桶も増えてたし」
岳人は椅子へ座るなり、機嫌よく言った。美羽はもう一脚の椅子を引きながら、卓の隅の水差しへ目をやる。
「水差しも来てたしね。あれ、ほんと助かる。夜、喉渇いても部屋出なくていいし」
「よかった。言ってみるもんだね」
海斗は寝台の縁から答えた。昨夜、宰相の机に置いた紙の中身は、一日でほとんど通っている。湯は入れ替えられ、桶は倍になり、水差しは各部屋に配られた。塩も出たし、布も出た。文化のちがう相手でも、数字で出せば動く。それが確かめられて、海斗は満足していた。
岳人が首の手拭いで顎の下を拭った。
「けど飯はまずいままだったぞ」
「そこは一日じゃ無理でしょ。塩は出てたじゃん」
「味付けはもう少しかかると思う。さあ……座って。始めようか」
美羽は椅子に腰を下ろして、湿った髪を背中へ払った。
岳人も昨日と同じく足をぐでんと伸ばす。
最初に口を開いたのは美羽だった。
「あと、佐伯さん経由でひとつ。その、まずいご飯絡みよ」
「ん?」
「支援の子で、厨房に入りたいって言い出してる子がいるって」
「厨房?」
海斗が訊き返すと、美羽は頷いた。
「うん。家庭科部の子。スキルの判定が低かったらしくて、それなら戦いより料理のほうが役に立てるからって」
岳人が椅子の背へ体を預けた。
「いいじゃん、それ。飯が美味くなるならありじゃね?」
「まあ、それは一理あるけどさ」
美羽は肘を卓へ突いて、指の先で木目をなぞった。認めるところは認めて、そのうえで言い足すのが美羽のやり方だ。
「でも、ひとりがそれやりだしたら、みんな別のこと探し始めると思う。誰も戦わなくなるよ」
「そんなもんかね」
「そんなもんだって。あたしだって、本音言えば戦いなんてしたくないし。っていうか、戦いたい子なんていないでしょ」
「……あー。それもそうか」
岳人は首の手拭いを持ち替えて、それきり反論しなかった。
前衛職に選ばれた連中は、身体そのものが跳ね上がっている。昨日まで走れなかった距離を走れて、持てなかった重さが持てるようになっているのだ。動けるようになった実感というのは、それだけで人を前へ向かせるらしい。岳人がそうで、海斗もそうだった。
しかし、後衛職は違う。生身の身体に、新しいスキルが一枚乗っただけだ。前へ出れば、普通に怪我をする。しかも怪我を治せる者は、優菜が抜けた分が足りていないままだ。
そこまでは、海斗も正確にわかっていた。
わかっていて、話が半分も頭に入っていない。
美羽の指が、木目をなぞるのをやめた。
「ねえ、海斗。聞いてるの?」
「……え? うん。聞いてるよ」
「ちょっと、そんなテキトーに返事しないでよ。こっちもどうすればいいかって迷ってるのに」
美羽の声が尖った。岳人が椅子の上で姿勢を起こす。
「おい。堂島だって疲れてんだ。あんま責めてやんな」
美羽は口を閉じた。
岳人は手拭いを膝へ落として、続ける。
「俺たちはまだ自分のことだけに集中すればいいけど、堂島は訓練の上に声掛けや宰相側とのパイプもやってんだぞ」
「……ごめん」
美羽が卓へ目を落とした。海斗は苦笑いを作って、頭の後ろへ手をやる。
「いや、こっちこそごめん。やっぱり僕も、慣れない生活で結構疲れてるみたいなんだ。勇者なのに、ざまあないね」
「勇者だなんだって色々言われてるけど、俺らただの高校生だろ」
「そうそう。なんか頼れる人、海斗しかいなくて。ごめんね」
美羽が顔を上げて、少しだけ笑った。庇い合いの形をしていたが、三人とも声が低い。
海斗は寝台から立って、卓の縁へ手を置いた。
「いや、僕はみんなをまとめる役だからさ。頑張るよ。絶対に元の世界に戻ろう」
言った言葉に、嘘はなかった。
まとめる役は自分だし、みんなと一緒に元の世界へ帰る気でもいる。
それでも、頭の中の半分は、ここにない人に向いていた。
岳人が手拭いを丸めながら、天井のほうへ顔を向けた。昨夜も同じようなことをしていた気がする。
「そういや、白河。今日も戻ってこなかったな」
「──ッ」
海斗の肩が、先に跳ねた。
岳人はこちらを向いていない。天井の梁へ顔を上げたまま、ただ心配そうにしていた。
「……そうだね」
「なあ。その汚染地帯ってとこ、魔物がいて殺されたとかねえよな?」
魔物に殺された──。
もしそうなら、久世についていくと言った優菜を、無理にでも引き留めなかった自分にも責任がある。そう考えるくらいの分別は、海斗にもあった。
だから、初日のうちに確かめてある。宰相はこう言っていた。
あの土地には魔物の住む気配がない。水も草も何もないのだから、寄り付く理由がそもそもない、と。
海斗はそれを、そのまま岳人へ渡した。
「それなら、僕も初日の時点で宰相に確認してるよ。あの汚染地帯には魔物が住んでる気配もないし、水も何もないからそもそも魔物が寄り付く理由がないんだってさ」
「そっか。じゃあ、大丈夫か」
岳人が安堵したように表情を緩ませ、天井から目を戻す。安心したついでか、次の疑問が口から出た。
「でも、それなら何で戻ってこないんだ? 食料も水も、とっくに切れてるだろ?」
「……だと思うんだけどね」
答えが短くなった。岳人も美羽も、それには気づかなかったようだ。
美羽が椅子の上で脚を組み替えて、別の方向から口を挟む。
「案外、どっちも何とかなったんじゃない?」
「え?」
岳人の口から短い声が出た。
「だって、白河さんって〝聖女〟でしょ? 汚染を何とかするスキルとか色々ありそうだけど」
「あー、そういや最初の選別ん時、浄化とか結界とか色々言われてたもんな」
岳人が指を折って数えはじめた。
そういえば、そんなことを言っていたのを海斗も聞いた記憶がある。そこで、はっとした。
(浄化、だって?)
昨日の夜、宰相が世間話のような調子で言っていた。東の、汚染地帯のあたりに光の柱が立った、と。
どうせ魔物でしょう、と答えたのは自分だ。
だが、もしかすると、それは優菜が何かしらやったのではないだろうか? だからこそ、宰相も気にしていたのではないか?
訓練で、最初に告げられたスキルから別のものへ派生していく手応えは、もう掴んでいる。クラスメイトにも、そういう者が何人もいた。そして、後衛職ほどそれは顕著だった。海斗だって、いくつかのスキルに目覚めている。知っていたはずだった。知っていたのに、優菜には当てはめなかった。
久世はいい。あれは何をどうやっても無能だ。
だが優菜は、百年に一度だと宰相が言う〝聖女〟である。
(……そうか。あの柱、優菜が)
思い至るのに、丸一日かかっていた。
美羽は、指を折っている岳人ではなく、海斗のほうを見ていた。
そして、冗談を言う時の顔で、こう付け足したのだ。
「それで、そのまま付き合っちゃってたりとかしてね?」
「なっ……」
声が、喉から出た。美羽は冗談の顔のまま、海斗から目を離さない。
岳人が折っていた指を開いて、大げさに手を振った。
「おいおい、さすがにそりゃねえだろ。だって、あの白河だぜ? 今まで何人の男が振られてきたと思ってんだよ」
「──!?」
海斗の膝が、卓の脚に当たった。
夏休みより前の、ある日のことが、聞きたくない順番で頭に並んだ。並んだだけで、海斗はそれ以上を思い出さないようにする。
岳人は気づかずに続けた。
「野球部のキャプテンにサッカー部のエースまで振られてるってのに、あんな久世みたいな奴を選ぶわけねえだろ」
「久世くんだからこそ、でしょ」
「どういうことだよ?」
美羽は椅子の上で少し身を乗り出す。海斗は、その会話へ入る言葉を持っていなかった。
「これ知ってる人少ないみたいだけど、あのふたりって幼馴染っぽいよ?」
「そうなのか!? あー、それでちょいちょい噂になってたんか!」
「そうそう。でも、何で噂になってたか知ってる?」
「え、知らね。何で?」
彼女は一拍ためてから、答えを置いた。
「いつも、白河さんから久世くんに話し掛けてたから、よ」
「あーッ、そういえばそうか! ちょくちょく話してるとこ見掛けてたけど、あれって白河からなんか」
岳人が膝を叩いた。
美羽は頷いて、湿った髪を耳へかける。
「うん。バスの時も、わざわざ自分から久世くんの隣行ってたし。あたしが『ほんとに来なくていいの?』って訊いたの、敢えてなんだよね」
そのことなら、海斗も覚えている。自分で座席の背を順に掴んで、通路を後ろへ歩いていった。そして、こう訊いた。
『白河、こっちに来ないか? 後ろ、暗いだろ』
返ってきたのは、こちらへ目を向けもしない声だった。
『ううん、そんなことないよ。ここがいい』
あの時は、そういう気分なのだと思った。誰にでも愛想のいい優菜が、たまたま疲れていたのだと。だが、今の話を聞いてからだと、意味は変わってくる。
岳人が身を乗り出した。
「そういえばそうだった! 女子すげえな。そんな細けぇ駆け引きしてんのか」
「まあね。あと、気付いてる人少なかったけど、最初の鑑定の時、あのふたり後ろで手繋いでたよ?」
「え!? そうなの!?」
──手を、繋いでいた。
海斗も、それを見ていたはずだった。列の端のほうで、二人が並んで立っていたことは覚えている。あの時は、優菜が怖がっているのだと思った。知らない場所で、知らない大人に囲まれて、震えていたのだと。
震えていたのは、たぶん本当だ。
だが、震えた時に手を握る相手として、優菜は久世を選んだことになる。
鑑定は、長かった。一人ずつ台の前へ出て、水晶へ手を置き、名前を読み上げられて戻ってくる。その繰り返しだ。
海斗の番も、その途中にあった。水晶の光が柱の上端まで駆け上がって、鑑定官が二歩下がって頭を垂れた。岳人が背中を叩いてきて、広間が沸いた。
あの時、列の端では──。
海斗は、そこで考えるのをやめた。
岳人がげんなりと椅子の背に身を預けた。
「じゃあ割とマジで……」
「からの久世くんについて行く、でしょ? 修学旅行の時まで付き合ってるって話はなかったけど、白河さんは久世くんのこと好きだったんじゃないかな?」
「うわぁ、マジかよ! ショックだなぁ。俺も狙ってたのに。白河はあんな奴のどこを──」
「……いつまで、そんなくだらないことを話しているんだ」
思った以上に、低い声が出てしまった。
岳人と美羽が、同時に肩を跳ねさせる。
二人とも、海斗のこんな声を聞いたのは初めてだろう。海斗自身も、たぶん初めてだ。
岳人が手拭いを握ったまま、慌てて椅子の上で背を伸ばす。
「わ、わりぃ。つい」
「ごめん……こんなこと話してる場合じゃないよね」
美羽は謝りながら、海斗から目を離さなかった。
海斗は卓から手を下ろす。
「今日の報告会は終わりだ。僕は、宰相のところに行ってくる」
二人は何も言わずに立ち上がった。岳人が手拭いを肩へ戻し、美羽が椅子を卓の下へ入れる。
廊下へ出ていく足音は、昨夜より速かった。




