第2話 トンネルから、異世界へ
バスが減速した。前方の視界が、灰色のコンクリートで塞がれていく。
トンネルだった。
天井の照明が、規則正しい間隔で後ろへ流れはじめる。窓の外が黒くなり、ガラスに車内が映り込んだ。優菜の横顔と、その向こうに並ぶ座席の列が、そこへ二重に重なっている。
映司は流れる照明の数を追い、十を越えたところでやめた。ここらのトンネルは、どれも短いものばかりだったはずだ。
しかし──そこで、エンジンの音が遠のいた。
(あれ……?)
遠のいた、というより、耳の奥へ引きずり込まれていくようだった。映司は喉に力を入れて唾を飲み下す。それでも、音は戻ってこなかった。右耳のあたりで鳴りつづけていた非常扉の音も、途中で切り取られたように止んでいた。
「え、なに、これ」
前の方の席で、美羽の声が上ずる。前方で立ち止まっていた岳人が、運転席のほうへ身を乗り出した。
「おい、運転手さん。おい!」
運転手の手がハンドルに置かれたまま動いていなかった。教師は口を開けた形で止まっている。
動いているのは、生徒たちだけだ。
(どういうことだ……?)
映司は窓のほうへ体をひねった。対向車線を走っていたはずのトラックが、車体をわずかに斜めにしたまま止まっている。回転しているはずのタイヤに、影の縞が焼きついていた。トンネルの照明も、流れるのをやめている。排気の白い煙が、管の先で塊のまま留まっていた。風に流される形のまま、輪郭だけが固まっている。
通路の前方で、生徒の一人がスマートフォンを頭上へ掲げた。角度を変えても、画面の表示は変わらないらしい。掲げた腕がそのまま下がって、隣の生徒がその肩を掴んだ。
「おい、運転手さん! 何固まってんだよ、おい!」
岳人が運転手の肩を掴んで揺すった。前後には動くのに、揺すった手を離すと、腕も背も元の角度へ戻っていく。バネを押して戻した時の動き方に似ていた。
誰かが立ち上がり、誰かが座席の下へ潜り込もうとした。悲鳴と怒鳴り声が同時に上がって、そのどちらもが車内で反響しない。
(なんか、やばそうだな……?)
映司は外へ出る道を確かめるため、横の非常扉のレバーへ手を伸ばした。掛かりの浅かった錠だ。押し下げれば開くはずだった。
しかし──レバーは動かない。指の力ではなく、扉そのものが枠と一体になっていた。継ぎ目に爪を立ててみる。隙間が、前より減っていた。
優菜が映司の袖をぎゅっと掴んだ。
「映司くん……!」
幼馴染が、今にも泣きそうな顔でこちらをじっと見つめていた。彼女のこういう顔には、昔から弱い。
「大丈夫だから」
咄嗟にそう言ってしまったが、根拠はなかった。それでも少し安心したのか、袖にかかった指の力がわずかに緩んだ。
映司は掴まれたほうの腕を返し、優菜の手を握り直した。
その時だった──。
足の裏から、支えが消えた。
「えっ……!?」
優菜の体が浮く。膝から離れた鞄が、座席の間を斜めに上がっていった。
「掴まってろ!」
そう叫ぶや否や、全てが落ちた。
天井が弛み、荷物棚から鞄が降ってくる。座席の縫い目が裂ける音。窓ガラスの一枚が白く弾けて、粒になって散った。悲鳴が上下に引き伸ばされ、床と天井の区別が消える。誰かの靴が映司の腕をかすめて、そのまま通路の斜め上へ飛んでいった。
考えるより先に、体のほうが動いていた。
「優菜!」
映司は優菜の頭を胸へ抱え込み、天井へ背を向ける。
直後、背中に硬い物が落ちてきた。
「──~~ッ!」
息が詰まる。肩から腰にかけて、熱の筋が一本走った。腕の中の優菜が身をよじろうとしたので、映司は後頭部へ手を回して押さえ込んだ。
二度、跳ねる。二度目のほうが長く、車体は斜めに傾いたまま止まった。
衝撃が止んだあと、車内には細かい粉が舞っていた。床が斜めに傾いている。通路の先で誰かが咳き込み、別の誰かが名前を呼んでいた。窓枠がひしゃげ、割れた面から白い光が差し込んでいる。
映司は腕の中の幼馴染に、そっと問いかける。
「おい、大丈夫か?」
「うん……私は、平気」
実際、優菜は無傷だった。映司が腕、肩、後頭部の順に押さえていっても、痛む様子はない。彼女はされるままになっていた。
二列前で、鞄を抱えた男子が座席の隙間から這い出してくる。天井の照明カバーが割れて、破片が通路に散っていた。誰かの水筒が転がり、傾いた床を伝って前方へ落ちていく。金属が石を打つ音が、車内の外側から返ってきた。
上から落ちてくる物が、まだあるかもしれない。映司は優菜を抱えたまま、丸めた背をそのままにしていた。
「優菜。頭、下げてろ」
優菜は言われたとおりに首をすくめた。それから映司の肩越しに腕を伸ばし、背中のあたりで指を止める。引き戻した手を、自分の顔の前へ持ってきた。
「映司くん、血が……!」
映司はその手首を掴んで、床へ下ろさせた。掴んだ拍子に、背中の一点へ鈍い重さが返ってくる。
(さっきのでやったか……)
肩を回してみると、腕は上まで上がった。幸い、骨までは行っていなさそうだ。
「大丈夫だ、気にすんな」
先に立たせるつもりで、映司は優菜の肘へ手をかけた。優菜はその手を押しとどめる。
「待って。動かないで」
「え?」
「私……たぶん、治せる、かも」
優菜は膝立ちのまま、映司の背後へ回り込んだ。裂けた布の縁に、優菜の指がかかる。その下が生温かく濡れているのは、映司にも分かった。
「は? 治すって、どうやって」
「わかんない。でも、できる気がして」
その刹那。優菜の手のひらが白く光った。
光は指の隙間から漏れて、宙に浮いた粉のひと粒ひと粒を照らし出す。その光に当てられると、背中の熱がするすると引いていった。皮膚の引き攣れが薄れ、濡れた布の重さだけがあとに残る。
(は……?)
映司は身をよじって、自分の背へ手をやった。傷は塞がっている。乾ききらない血が、指の腹についてきた。
「お前、これ……」
「わかんない。わかんないよ……」
優菜は自分の手のひらを持ち上げたまま、言葉を失っていた。光はもう消えている。彼女の指先が、小刻みに震えていた。
「もう、何なの……? 夢なら醒めてよ……」
半分開いた唇から、絶望の言葉が漏れ、その瞳がじわりと滲んだ。
「優菜──」
震えるその肩を抱き締めようとした、その時。
車体の外で、金属の擦れる音が重なった。
割れた窓の向こうに、甲冑の列がある。石を敷き詰めた床。柱が並び、その柱の上端が影に沈むほど、天井は高いところにあった。壁に取りつけられた燭台のような物が、炎ではない光を点している。
傾いた通路を、光の帯が横切っていた。バスの下に、巨大な円が描かれている。線が幾重にも交差し、縁を文字らしきものが埋めていた。その線が、内側から順に光を失っていく。
「勇者様方のご到着だ! 怪我人がいる! 誰か、医療班を呼べ!」
鎧の男が叫ぶと、円の外側にいた者たちが一斉に動きだした。担架らしき物を抱えた者が走り、槍を立てた列がわずかに割れる。
その奥に、床まで届く丈のローブを着た人影が並んでいた。円の縁に沿って等間隔に立ち、こちらへ手のひらを向けたまま動かない。誰かが手を下ろすと、残りも同じ速さで手を下ろした。歓声のようなものが、列の後方から起きていた。
石の床には、砕けた窓ガラスが薄く散っている。まだ誰の靴もそこを踏んでいなかった。兵たちは円の線の手前で足を止めていて、内側へ入ろうとする者がいない。越えてはならないのか、越えたくないのか、映司には判断しかねた。
勇者──この中の誰かが、そう呼ばれているらしい。
前方では、海斗が座席の背を掴んで立ち上がった。
「立てるか? 僕に掴まって」
海斗の声は、こんな時でも通った。差し出された腕を、床に座り込んでいた女子が掴む。美羽はその隣で膝を抱えたまま、割れた窓の外を向いていた。
岳人だけが、運転席の脇から動かずにいる。彼は愕然として言った。
「お、おい……運転手がいねえぞ!」
「先生も! 先生もいない! 消えちゃった!!」
別の誰かが言った。
教師の席も同じだったようだ。岳人が一歩下がり、手をついたシートの背をそのまま握りしめる。誰も、外の連中へ返事をしていなかった。
立ち上がるために、映司はすぐ横の非常扉へ手をついた。枠ごとひしゃげて、半分開いたままになっていた扉だ。
手をついた非常扉が、ひとりでに閉じた。歪んでいた蝶番が元の角度に戻っている。
(あれ……? さっきまで、壊れてたよな?)
映司は手を離し、扉の縁を指でなぞった。錠の受けが、削れる前の面まで戻っている。この夏に何度も指を這わせたものと、同じ形をしていた。
通路へ出ようとして、一列前の背もたれへ手をかける。これも、外れかけていた留め具が、指の下で嵌まっていた。体重をかけても、背もたれはもう跳ねない。
(何で……壊れたものが、直ってんだ?)
それを気に留めたのは、映司だけだった。




