第1話 ただの、修学旅行。この時までは、そう思っていた。
前の方で誰かが笑っていた。それに三人が続いて、笑い声が厚くなる。
通路側の座席から、スマートフォンの小さなスピーカーが割れた音を鳴らした。曲名まではわからない。誰かが手拍子を入れ、別の誰かがそれを止めろと言って、その言い方でまた笑いが起きた。修学旅行の二日目、貸切バスの中というのは、そういう場所らしい。
久世映司は、最後部の窓側で、ぼんやりと外の景色を眺めていた。輪に入れないのではない。入る用事がないだけだ。
席順はくじで決まった。映司が最後部の窓側を引いた時、周りから軽い笑いが起きたのを覚えている。当たりだとも外れだとも誰も言わなかったが、引き直しを申し出る者もいなかった。映司はそのまま荷物を置いて、それきりだ。
後からわかったことだが、くじで席を決めるというのは建前で、他はみんな自由に名前を書き換えていたらしい。
(あーあ。こんなことなら、バックレればよかったな)
そうぼやきながら、景色をぼんやりと眺める。
窓の外を、削られた山肌が後ろへ流れていった。杉の列。斜面に沿って走る送電線。空は朝から曇ったままで、稜線の輪郭が溶けかけていた。
路面の継ぎ目をバスが越えるたび、映司の右耳のあたりで、金属の当たる音がした。座席のすぐ横にある非常扉だ。錠の受けが摩耗して、掛かりが浅くなっている。走行のたびに扉が枠へ当たり、乾いた音を返していた。
(耳障りだなぁ)
直すなら、受け金具の交換で済む。あるいは蝶番の側へ薄い板を一枚噛ませればいいだけだ。
この夏、祖父の工房で似た症状の物置戸を扱ったことがある。焼けついたベアリングを打ち替え、歪んだ枠を万力で挟んで戻し、八月をほとんど作業台の前で使い切った。油と鉄粉の匂いが、まだ指の皮膚に残っていた。
工房へ来る物は、たいてい一度は捨てられかけている。買い替えたほうが安いと言われ、それでも持ち込まれた物ばかりだ。新しい部品を並べた棚より、削れて艶の出た木の柄のほうが、映司の手にはよく馴染んだ。
もっとも、他人のバスの扉を勝手にいじる理由はない。映司は音を数えるのをやめた。
癖なのだと、自分でも思う。教室の机がぐらつけば脚の高さが揃っていないことに気づくし、傘立てが傾いていれば底の一箇所が割れているのだと分かる。無論、分かったところでたいてい放っておくのだが。指摘すれば直せる人間だと思われて、頼まれごとが増える。頼まれごとが増えれば、断る回数も増えるだけだ。
昨日、寺の門前で撮った集合写真では、映司は左端の後ろにいた。並べと言われた場所に並んだだけだ。カメラマンが「もう少し寄って」と言った時、隣の男子が半歩ずれて、その半歩ぶんの隙間はそのまま写真に残ったはずだった。
通路を歩いてきた女子生徒が、最後部で足を止めた。
「あっ。久世くん、あとで写真の順番回すから」
「……ああ」
映司が短く答えると、彼女はにこっと笑みを浮かべ、前へ戻っていった。写真の順番が何なのかはわからないが、どうせ映司には大して意味はないだろう。
映司は膝の上の鞄を抱え直し、また窓のほうへ体を戻す。
体を戻しきらないうちに、通路に人が立った。
「隣、いい?」
幼馴染の白河優菜が、前の座席の背に手を置いていた。
腰のあたりまで伸びた黒髪が、天井の照明を細い筋にして返している。癖のない直毛で、毛先まで全く傷んでいる様子がなかった。肩から滑ったぶんが、片側だけ前へ落ちている。
制服がよく似合っていて、華奢な身体がより一層引き立っていた。制服の着方にも崩したところがない。リボンの結び目は喉の下で真横に整い、袖口のボタンは両方とも留めてあった。
伏せていた睫毛が上がると、黒目のはっきりした瞳がまっすぐ映司へ向いた。白い頬のあたりに、曇った窓の光が薄く落ちている。
清楚可憐な美少女──幼馴染の目からみても、彼女はそんな風に映っていた。
優菜の声に、通路の何人かが首を回し、映司と話しているとわかると、舌打ちが聞こえてきた。優菜が男子の隣に立てば、基本こうなる。特に、映司の隣の時にその舌打ちはよく聞こえるような気がするが、きっと気のせいだろう。
映司は言った。
「……前、空いてるだろ」
「うん。でもここがいい」
「勝手にしろ」
「じゃあ、勝手にしちゃう」
優菜はスカートの後ろを押さえて腰を下ろすと、膝に鞄を載せた。ファスナーを引いて、中をしばらく探っている。
そして、何かを差し出した。
「はい、飴」
「飴?」
「酔い止め代わりになるかなって」
「酔ってないっての」
差し出された手のひらの上で、小さな包みが揺れていた。映司が受け取らなくても、優菜はその手を引っ込めない。しばらくそのままの姿勢でいて、指先だけを二回、催促するように動かした。
「知ってる。私のお気に入りは、このプリン味」
「それ、逆に酔いそうな味じゃないか?」
「でも、美味しいよ?」
「…………」
美味しいと車酔いに関係はないのだが、そこは気にならないらしい。
彼女は昔からこうだ。少しずれたことを、大真面目に言ってくる。
小学生の頃には、雨の日に長靴を左右逆に履いてきて、歩きにくいねと真顔で言っていた。中学の遠足では、酔うといけないからと言って出発前に自分だけ酔い止めを二錠飲み、バスの中でずっと眠っていたという。悪気はなく、本人の中では筋が通っているらしい。それを指摘したところで、優菜は困った顔で笑うだけだった。
「じゃあ……一個だけ」
話を終わらせるために、映司は包みをつまみ取る。封を切ると、乳くさい甘さが鼻に抜けた。舌へ載せてみると、思っていたよりも角のない味がする。
優菜もそれで満足したのか、自分の分を口へ放り込み、背もたれへ体を預けた。頬の片側が、飴の形にわずかに膨らんでいる。
どこか、幸せそうな横顔。そんなにこの飴が好きなのだろうか。
「夏休み、ずっとおじいちゃんのお店だったんだね」
唐突に優菜が言った。
思わず、顔を顰める。
「……なんで知ってんだ?」
「お店の前、何回か通ったから」
「気づいてたなら声かけろよ」
優菜は少し首を傾けて、鞄の持ち手を指で撫でた。
「だって映司くん、集中してたし。邪魔したら悪いかなって」
「別に。あんなの片手間だよ。俺はずっと暇してた」
「そうなの? じゃあ……今度からそうしようかな」
優菜は前の座席の背に膝を当て、行程表の紙を鞄から引き出した。折り目のついた紙面を広げ、明日の欄を指でなぞる。
「明日の自由行動、班ごとだって」
「らしいな」
「映司くんの班、誰がいるの?」
「さあな。名前だけ書いた」
優菜は紙を畳んで、それを膝に置いたまま少し黙った。それから、思いついたような調子で顔だけをこちらへ向けてくる。
「じゃあ、私の班に入れてもらう? 人数、ひとり足りないから」
「足りてるだろ、どう考えても」
「足りないよ?」
念を押すように、もう一度言った。指は行程表の折り目を往復している。
足りないわけがなかった。足りなかったら、きっと映司の方にもっと早くそういう話が来ているはずだ。
「映司くんが嫌だったなら、無理しなくていいけど……」
優菜は寂しそうにそう漏らすと、行程表を鞄へ戻した。そのついでに映司の膝の鞄の位置を直す。持ち手が座席の縁に引っかかっていたのを、指で外して置き直しただけだ。断る間もなかった。
映司は彼女から景色へと視線を移し、ぽそりと返した。
「別に……嫌じゃないけどさ」
「え、ほんと!? じゃあ、班の子達に言っていい?」
途端に、目を輝かせる。
どうしてそんなに嬉しそうなんだか。
「……勝手にしてくれ」
「うんっ。じゃあ、勝手にするね?」
そう言って、優菜はスマホを取り出し、何かメッセージを送り出した。
どうやら、映司の自由行動班は変わってしまうらしい。
というか、班の子達は嫌がらないのだろうか。彼女は彼女で、仲良しの友達と班を組んでいるはずなのだが。
(やれやれ……どうしてそんなに構うかな。そんなんだから、勘違いされるんじゃねーの?)
喟然としつつ、嬉しそうにしている幼馴染の横顔を眺めた。
優菜がこうして話し掛けてくるせいで、彼女が時折映司と噂になっているのを耳にしたことがある。訂正すれば説明が要るから、面倒で放置してきたが……彼女は迷惑に感じないのだろうか?
白河優菜──彼女とは、物心がつく前からの知り合いだった。いうなれば、幼馴染。
家が近い……それだけの理由で、小学校に上がる前から同じ通学路を歩いてきた。中学に上がって、高校に上がって、映司がクラスの輪から外れていっても、優菜は距離の取り方を変えない。弁当のおかずを分けてくることも、休んだ日の連絡が届くこともあった。
幼馴染だから気にかけている。それ以上の理由を、映司は考えたことがなかった。それほどまでに、映司と優菜は住んでいる世界が違ったからだ。
自分は、世界の端っこ。彼女は真ん中。そんな印象を、ずっと持っていた。そう、このバスの座席表みたいなものだ。
それなのに、優菜はわざわざ後ろの隅っこまで、こうして話し掛けにくる。まるで、世界の隅っこで忘れ去られそうな映司を、忘れないようにするために。
そこで、前方の座席で、堂島海斗が立ち上がった。荷物棚のあたりへ手を伸ばしながら、通路の先へ声を投げる。
「岳人、荷物ぜんぶ載せてくれたんだって? お前がいると助かるわ」
「おう、任せろ」
剛田岳人が振り向いて、片手を挙げた。周りの男子が笑い、岳人の肩を叩いている。岳人は満更でもない顔をして、挙げた手をそのまま髪へやった。
海斗の褒め言葉は、いつも「助かる」で終わる。
球技大会でも、体育祭でも同じだった。誰かの働きを数え上げて、最後に助かると付け足す。言われた側は悪い気がしないし、実際に助かってもいるのだろう。
海斗は座席の背を順に掴みながら、通路を後ろへ歩いてきた。歩き方に迷いがない。誰の隣で足を止めても、その場が自然に彼を中心にして組み替わる。教師の前を通る時には軽く会釈をして、そのあいだも笑顔を崩さなかった。
「白河、こっちに来ないか? 後ろ、暗いだろ」
彼はちらりと映司の方を見やると、優菜に声をかけた。
「ううん、そんなことないよ。ここがいい」
優菜は彼に視線も返さず、即答した。
ちょっと冷たくないか、と思ってしまうほどの素っ気なさ。基本的に誰にでも愛想がいい彼女からすれば、珍しい反応だ。
「そっか。僕はてっきり、白河も前がいいんだと思ってた」
海斗は落胆した顔を一秒だけ作って、すぐに笑った。二列前の座席から桐谷美羽が身を乗り出す。
「白河さーん、ほんとに来ないのー?」
優菜が困ったように笑って首を横に振ると、美羽は肩をすくめて前へ向き直った。座り直したその背中が、しばらく動かない。
「久世、悪いな。うるさくして」
「……いや」
海斗は軽く手を挙げて、通路を戻っていった。途中で二人の生徒に呼び止められ、そのどちらにも足を止めて返事をしている。片方には明日の集合時刻を答え、もう片方からは充電器を借りていた。借りる時にも礼を言い、相手はそれで嬉しそうにしていた。
悪い奴ではない。少なくとも、この時点ではそうだった。
入れ替わりに、岳人が通路へ出てきた。空いた座席の背を順に蹴りながら、後ろへ歩いてくる。蹴られた背もたれが、そのたびに小さく跳ねた。
映司の一列前の背が鳴って、そこで足音が止まった。岳人が振り向く。
「悪い、白河。うるさかったよな。なんかこういうの見ると、蹴りたくなるんだ」
岳人は優菜にだけそう言って、映司の側へは顎も向けずに前へ戻っていった。前方でそれを聞いていた数人が笑い、そのうちの一人が岳人の背中を押している。笑い声の中に、美羽の声も混ざっていた。
優菜は首を横に振っただけで、特に返事をしなかった。膝の上で、鞄の持ち手にかけた指に力が入っている。
映司は跳ねた背もたれの上端に手を当て、指の腹で当たりを確かめた。
……留め具のひとつが、内側で外れかけている。座席の骨組みまでは傷んでいなさそうだ。差し込み直して、二度ほど押し込めば戻る類いのもの。
映司は手を離した。自分の席でもない座席を、わざわざ直す理由はなかった。
すると、隣の優菜がスマホを見て、ぱっと顔を輝かせた。
「あっ、見て!」
そして、スマホを見せてくる。
画面は、LIMEのグループチャットだった。自由行動の班でグループを作ってあるらしい。もしかすると、映司の班もあるのだろうか。まあ、あったとしても除け者にされていることが確定するだけなので、知りたくない事実ではあるが。
チャットを見てみると、優菜の映司を班に入れたい旨と、了承のやり取りが続いていた。
「班の子達、いいって言ってくれたよ?」
「そっか」
「明日、一緒に回ろうね」
「……ああ」
どうしてか、にこにこと嬉しそうな幼馴染。
こんな腐れ縁の奴を今更高校のイベントにまで誘ったところでいいことなどないだろうに。
どこまでも、こちらに気を遣ってくれているらしい。
すると──ピコン、と優菜のスマホに新たな通知。
【優菜、やるじゃん! 修学旅行中に進めるといいね! 頑張れ~】
ポップアップで、そんなメッセージが表示された。
慌てて、優菜がばっとスマホの画面を隠す。
「み、見た……?」
「……いや。何も」
そう答えてやると、優菜はほっと安堵の息を漏らした。
本当は見えていたけど、何だか見られたらまずそうなメッセージだったので、見ていないふりをする。
修学旅行中に進める、とは何のことだろうか。
よくわからないが、幼馴染には何か修学旅行中に進めたいことがあるらしい。
(まあ、俺には関係ないか)
プリン味の飴を舐めつつ、外を見やる。
外は相変わらず退屈な景色が続いていた。
普通の、どこにでもある修学旅行。
この時までは、このバスにいる誰もがそう思っていた──。
ずっと書いてみたかったクラス転移ものに、初チャレンジ!
冒頭の情報量が多くなってしまって早々にクラス転移の難しさに頭を抱えておりますが、楽しみながら書いております。※初日は5話(2万字くらい)更新します。安心してブクマしてください!
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