第9話 破れた服と、ソーイングセット
それから、ふたりでたらふく水を飲んだ。
思えば、異世界に飛ばされてからずっと喉の渇きさえも我慢していた。水袋の残量を気にしてふたりとも口にはしなかったものの、ずっと喉は乾いていたのだ。
砂漠の中でオアシスに巡り合う気持ちは、きっとこういうものなのだろう。
喉の渇きが癒えたら、今度は顔を洗い、頭から水を被る。
気持ちがいい。生き返る気分だ。もし今隣に優菜がいなければ、素っ裸になって川床に飛び込んでいたところだ。
「いいなぁ……」
水でびしょびしょになった映司を見て、優菜が羨ましそうに呟いた。
「お前も髪洗えば?」
「だって……私、髪長いから」
優菜は自分の髪をちらりと見て、困ったように笑った。長さ的に乾かすのに時間が掛かる、ということだろう。或いは、シャンプーなどで洗いたいのかもしれない。
「そっか。じゃあ……うりゃ!」
手で水を少しだけ掬って、優菜にかけてやる。
「きゃ! もう、何するの?」
すぐに、頬を膨らませる優菜。
それから悪戯っぽい笑みを浮かべたかと思うと──。
「仕返しだよ!」
両手で水を掬って、かけてきた。
それからふたりでわーきゃーいいながら水遊びを楽しんだ。
まさか、高校生にもなって幼馴染と水遊びをすることになるとは思ってもいなかった。
お互いの服がびしょ濡れになる前にブレーキをかけて、それもお開きになり。
やがて、優菜がおずおずと口を開いた。
「映司くん。その……制服、脱いで」
「は? なんで」
冗談を言っているのかと思っていたが、その表情からはこれまでのお遊び感は抜けていて。神妙な顔つきになっていた。
「背中のところ、破けたままでしょ? 血もずっと着いたままだし」
「傷なら治ったし、もういいよ」
「治したのは、背中の怪我だけだよ」
言われてみれば、そのとおりだった。
今も制服の背中部分は、みすぼらしい浮浪者のようにボロボロだ。
今にして思えば、映司がこういう状態だったこともあって、余計に映司を追放しやすい状況になっていたのかもしれない。
仕方なしに、シャツのボタンを外し、袖から腕を抜いた。背中の布が肩甲骨のあたりで引っかかる。乾いた血が皮膚に貼りついていて、剥がすと粉になって落ちた。
「ひゃっ」
上裸になったところで、優菜が小さく悲鳴を上げて、反対のほうへ顔を向けた。それから、ちらりとこちらを見る。目が合うと、また逸らされてしまった。それを二度繰り返してから、三度目でようやく手を出してきた。
(恥ずかしいなら、見なきゃいいのに……)
落ち着かないのは、見られているほうも同じだった。
映司は井戸の縁へ腰を下ろし、脱いだシャツを膝の上へ置いて、裂け目のほうを表にする。
「……縫えるのか?」
「ソーイングセット、持ってきてるから」
「修学旅行に?」
「うん」
優菜は隣へ腰を下ろすと、鞄を膝へ載せてファスナーを開けた。中から出てきたのは、掌に載る大きさの布製のケースだ。開くと、糸巻きが四色と、針が三本、小さな鋏が並んでいた。
「なんでまたわざわざ」
「だって、しおりに書いてあったし」
「……なるほど」
しおりに書いてあった物を、全部そのまま鞄へ入れてくる人間がいることを、初めて知った。
(っていうかこれ、俺が直せないのか?)
脱いだシャツの裂け目へ指を当てた。
しかし、何も起きない。おそらくこれは『まだ着る物』で、『まだ服』だからだ。
映司がシャツを渡すと、優菜はそれを膝へ広げた。裂け目の両端を指で合わせてから、針を通しはじめる。糸を引く手が止まらなかった。縫い目の幅が、端から揃っている。
半分ほど進んだところで、優菜が手を止めた。横目でちらりと隣の映司の背中へ目をやる。
「……傷痕、残ってないね」
「お前が治してくれたんだろ」
「それは、そうなんだけど。でも、こうして見ると、ちょっと安心する。結構大怪我だったんだよ?」
針を持った手を膝へ下ろした。それから、ちゃんとこちらを向き直って。
「守ってくれて……ありがとう」
嫣然として、優菜はそう言った。
その笑みは、これまで見たどの笑顔より綺麗で、可愛くて。
思わず、胸がどきっと高鳴ってしまった。
「……おう」
何とかそれだけ、返事をした。正面から言われると、反応に困る。
優菜はそんな映司を見てくすくす笑うと、裁縫を再開した。
そして、数分後。見事にシャツの裂け目は綺麗さっぱりなくなっていた。
「縫い目はこれで大丈夫かな。あとは……」
立ち上がると、彼女はシャツを井戸の水で洗いはじめた。
乾いた血は、やっぱり簡単に落ちてくれない。桶がないので、掬った水を何度もかけて、そのたびに布を握って絞った。五回ほど繰り返したところで、血の色は薄まっていた。
「水洗いだけだと、やっぱりこれくらいが限界だよね……」
「十分さ」
絞ったシャツを受け取り、映司も縁から腰を上げた。それを井戸のそばの平らな石へ広げる。
日はもう昇りきっていた。石は乾いているし、触れると温かい。この分なら、昼を回る頃には乾くだろう。
水路には、まだ水が走っていた。溝を伝う音が、村の外れのほうから途切れずに返ってくる。
(とりあえず、ちょっとは生き返った感あるよな。でも──)
村のほうへ体を向ける。
屋根の落ちた家。抜けた壁。折れた車軸。錆びた鍬の頭。落ちた橋。
どれも壊れている。まさしく、人が住める場所ではない。
しかし──壊れているということは、直せるということだ。
「よし、次は家を何とかするか。さすがに屋根のあるところで寝たいからな」
「え? そんな家、ある?」
「ないよ。だから作るんだ」
「え!?」
優菜が鞄を抱えたまま、素っ頓狂な声を上げて、こちらを見上げた。
映司は答えずに、一番手前の家の戸口へ目を向ける。
柱に刻まれた傷の段が、昇りきった日の光で影を浅くしていた。




