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人を殺すと、小便がしたくなる。  作者: 源


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第四話

橋本は3人を殺し、200万円を手にした。ネットニュースにまでなったその事件は世間で大きな騒ぎを生み出しているものの、橋本が犯人であるということには誰一人として気づかない。彼は手に入れた200万で今までの不遇を取り消すような豪遊を始めるが、それが極まるよりも前に別の仕事が入ってくる。

「とある書類を取ってくれば300万」。橋本はまたもや人の家に忍び込むことを決めた。


誤字脱字等、ご容赦ください。

「ここに住んでる奴は相当な金持ちらしいな。書斎なんてもん作ってお高くとまりやがって。……イラつくぜクソが」


 忍び込んだ書斎を見渡しながら、橋本は愚痴をこぼした。自分は狭くて古いアパートの一室で窮屈に暮らしているというのに、ここに住んでいる者は生活に必需でない部屋を作るほど余裕があるようだ。それが彼にとっては非常に腹立たしかった。ここに住んでいる者が誰かは詳しく知らないが、どうせ碌でもない人間なのだろうと決めつけていた。


「……何だっけか、『誓約書』が必要なんだっけか。……この中から一人で探せって、正気かよ」


 橋本はまず書斎の机に手を伸ばした。使う者の性格がよく現れており、机の上には何本かペンが入ったペン立てしか置かれていない。机には引き出しが三つついているが、一段目には小さな鍵穴もある。重要な何かはここに仕舞われている可能性が高いだろう。彼はまず二段目の引き出しを開けた。


「……ペンの予備、ハンコ……。仕事のための机か」


 彼が捜している『誓約書』も、何かしら金目の物が入っているわけでもない。勝手に期待しておきながら「期待外れだな」とつぶやいて引き出しを閉じ、下の引き出しに手をかける。


「おっと、これは……」


 三段目の引き出しに仕舞われていたのは菓子だった。飴やラムネなど、簡単に口にできるものばかり。この机を使う者はずいぶんと甘い物好きらしい。彼はそこから飴を一つ取り、封を切って口の中へと放り込む。彼が選んだのはブドウ味だ。彼は「うま」とつぶやき、包装をズボンのポケットに押し込んだ。


「……さて、問題はここだな」


 彼は口の中に飴を含んだまま、鍵穴がついた一段目の引き出しを睨みつけた。大切なものをしまうのなら、鍵をつけるのは当然。内容はほとんど知らないが、「誓約書」などもってのほかだろう。


「鍵を探すために歩き回るのはさすがにな……。壊すしかねえか」


 一通り部屋を調べたが、引き出しの鍵穴にはまりそうな小さな鍵はどこにもない。もしかするといずれかの本に挟んで隠しているかもしれないが、優に千を越えそうな蔵書の中からそれを探し出すのはほぼ不可能だろう。他にも、この部屋の主が肌身離さず鍵を持ち歩いている可能性もあり、探し回るのは得策ではないと彼は考えた。


「頼むから、馬鹿みたいに寝ててくれよ……」


 彼は鞄からバールを取り出し、引き出しと棚のわずかな隙間にバールの先をねじ込む。隙間に食い込んだことを確かめると、力の限りにバールを動かし、引き出しを壊しにかかった。メキメキと木材が砕ける音が響き、引き出しの板が割れていく。乾いた破裂音を立て、板は完全に割れた。


「……今の音はちょっとまずいか?急いだほうがいいな」


 壊れた引き出しを引っ張り出し、中にあった物を床へとぶちまける。鍵がかかっていたことからも予想は出来ていたが、そこからは大量の書類がこぼれ出た。そのいずれもが何かしらの契約書や宣誓書のような物らしく、これを書いた者の地位の高さがひしひしと伝わってくる。


「これじゃねえ。これでもねえ。……これか、誓約書」


 橋本は紙束を乱雑に漁り、目的の物である「誓約書」を見つけ出した。署名欄には宮本と大友という二人の名が記されている。どこかで聞いたような名だが、橋本はそれを思い出すことはなかった。


「……せっかくだし、ちょっと読ませてもらうか」


 助手席の男からは「お前が内容を知る必要はない」と突き放されていた。だが、金目のものでもなさそうなこの紙切れ一枚が、一体どれほどの重要な物なのか。どうしても気になってしまったのである。


「……『甲は乙の協力者であることをここに示す』……。協力って何をだ?」


 それより下に書かれた文は、協力者となったことで可能になったことと、制限されることがずらりと書かれているのみであり、何を協力するのかは一切書かれていなかった。


「とにかく……。目的のブツは手に入った。あとはさっさとここからおさらばするだけ……」


 だったのだが。さすがに引き出しを壊した音は大きすぎたようだ。何者かの足音が橋本のいる書斎へと近づいてきている。スリッパを履いているおかげで、足音が聞き取りやすいのは不幸中の幸いというべきだろう。橋本はすぐに部屋の明かりを消し、机の陰に身を潜めた。「誓約書」を折り畳んで鞄の中にしまい、バールを握りしめる。


「誰かいるのか?」


 部屋の外から若い男の声が聞こえてくる。当然橋本は返事をしない。部屋のドアがゆっくりと開く。部屋の外から懐中電灯の光が飛び込んできた。


「物音がしたはずなんだが……。逃げたのか?」


 部屋に入ってきた男は、書斎の明かりをつけた。彼は一目見て、書斎の異常に気が付いた。床に散らばった書類の山だ。その近くには引き出しだった木くずも散らばっている。


「そんな、これは……。一体誰がこんなことを。……とにかく、何か盗られてないか確かめなければ」


 若い男がゆっくりと机に近づいてくる。橋本はわずかに腰を浮かせ、足にさらに力を込めた。もうすぐで、バールが届く。


「あっ!誰だ⁉」


 その瞬間、鉄の塊が思いきり振るわれた。若い男は顔面を思いきり殴られ、衝撃そのままに床に手をつく。しかしそれでも、彼の視線だけは橋本から外れることはなかった。橋本は何も言わずに立ち上がり、頭目掛けてバールを振り下ろす。若い男は左手をとっさに出して受け止めようとしているが、鉄の塊を素手で受け止めるのはあまりにも無謀だった。


「ぐあっ!」


 左手のひらを思いきり殴られ、痛みがじんじんと骨を伝わっていく。腕が痺れ、左手を出すことすらできなくなった若い男は何とか立ち上がり、部屋の外に逃げようとした。だが。


「逃げんなよ!」


 橋本がその後頭部を狙った。相手の命を奪うかも知れないという躊躇すらない一撃は、若い男を動けなくさせるには十分すぎた。床に倒れた男はピクリとも動かない。橋本がその男の髪を掴んで頭を持ち上げるが、小さく「うう」とうめくばかりである。


「まだ意識があるか。……顔も見られたし、生かしていくわけにはいかないな」


 以前、一度人の命を奪ったからだろうか。彼の頭の中には、「命は大切なもの」という一般常識と呼ぶことすらはばかられる事実が抜け落ちていた。……否、彼は日々の生活の中でその考えを捨てたのだ。何故ならば、誰一人として彼の命を尊重しなかったからだ。橋本は寝転がる男の頭に狙いを定め、大きくバールを振りかぶる。そして。


「恨むんなら、書斎の物音に気付いてしまった自分を恨むんだな。俺を恨むのはお門違いだ」


 寝転がる男に言い聞かせるようにつぶやき、バールを振り下ろした。もともと部屋に敷かれていた赤いカーペットは、その一部だけみずみずしさを手に入れた。




「さて、そろそろ出るか」


 殺した男の服でバールに付いた血を拭い取り、橋本は静かに書斎を出る。廊下は暗く、先ほどまでの一幕が嘘であるかのように静まり返っていた。季節は春先。昼間は暖かくなってきたものの、朝夕はわずかに冬が残っているように感じられた。


「……少し冷えるな」


 廊下の床は冷たく、足先からどんどんと冷えていく。人を殺した興奮で顔や心臓のあたりはあり得ないほど熱を持っているというのに、手や足の先は、まるで自分の物ではないのではないかと思えるほど、冷え切っていた。かじかむ両手を上着のポケットに突っ込み、わずかな暖を得ようとする橋本。自分が入ってきた雨戸の小さな隙間を見つけた時、その安堵と冷えた体からあの時のような感覚を覚えてしまった。……尿意を催したのだ。


「……いや、我慢できねえな」


 すでに目的は達している。これ以上ここに居座るのは発見されるリスクが高い。以前のように、住んでいる者を全員殺したわけではないのだ。悠長に便所などに入っていれば、後から住人が起きてくるかも知れない。……しかし、耐えられそうもなかった。車に乗っている男たちに「コンビニに寄ってほしい」と頼むことはできるが、それが受け入れられるとは到底思えない。こんな悪事を働いているのだ、なるべく人目に付きたくはないはずである。橋本は少し悩んだ結果、便所を借りることにした。幸い、彼が入ってきた雨戸の隙間の近くに便所がある。万が一が起きたとしても逃げるのはたやすいはずだ。


「げっ、令和の時代に和式かよ」


 便所へと続く扉が木の引き戸であった時点で、彼はすでに嫌な予感がしていた。引き戸を開けた瞬間、嫌な予感は現実となる。真っ白な和式便座が、そこに鎮座していた。


「……マジかよ……。でも、しょうがねえな」


 橋本は小さくつぶやき、諦めたようにズボンに手をかけた。いくら掃除されているとはいえ、なぜか和式便所は洋式と比べると汚く見える。床が丸出しの石材だというのも、嫌悪感に拍車をかけていた。橋本は用を足しながらわずかに上を見上げる。そこにあった小さな小窓の先から隣家が見えた。もう夜も遅いというのに、まだ起きているのか。のんきにそんなことを考えていた橋本だったが、すぐに「あっ」と声をあげる。


「まさか、聞かれたか?……通報しやがったか?」


 用は足し終わった。橋本はズボンをあげ、便所の水を流す。トイレタンクの上に備え付けられた小さな手洗い場で簡単に手洗いを済ませ、手に付いた水気を丁寧にふき取る。なるべく音を立てないように引き戸を開け、外の様子を窺う。すると、廊下を曲がった先から「ギシギシ」と床がきしむような音が聞こえてくる。誰かが起きて来たのだろう。


「……やべえ、早く出ねえと」


 橋本は引き戸を開けたまま、滑り込むように雨戸の隙間から外へと抜け出す。雨戸を閉めるか少し悩んだが、閉めるところを見られるのはまずいと判断してそのまま車の方へと戻っていった。




「……もう少し早く戻ってくると思っていたんだが」


 橋本が車の後部座席に乗り込むと、助手席の男がそう言った。車はすでに走り出している。


「ヒントもなしに紙一枚を探し出すのはどれだけ面倒か、あんたは知らないんだろうな」


「ああ知らないね。……で、件の物は?」


「これ」


 橋本は鞄の中にしまい込んでいた折り畳まれた紙を手渡した。助手席の男は、車に備え付けられた弱々しい明かりを頼りに紙に書かれた内容を読んでいる。


「……よし、上出来だ。……誰かに見られたりしたか?」


「若い男に見られたが、殴り殺した。他には見られていない」


「……やっぱイカレてるよ、お前。人一人殺したって、冗談じゃないんだろ?なんでそんなに落ち着いてんだ?」


「他人の命なんかどうでもいい。あいつらを生かしておいたところで、俺の人生が好転するわけないしな」


 合理的か、即物的か。それともただ人として破綻しているだけなのか。よどみなくそう告げた橋本に対し、助手席の男は恐怖すら感じていた。「こいつは、金さえ渡せばなんでもやりかねない」という危機感が心の中で湧き上がっていく。


「……何はともあれ、頼んだ仕事はやり遂げたんだ。報酬は後で振り込んでおく。……降りろ」


 橋本を乗せた車は新宿駅の東口近くに停まった。周りに人影はなく、街灯だけが道路を照らしている。


「……このことは誰にもしゃべるなよ」


「しゃべるわけねえだろ。俺としても、こんなうまい『仕事』、やめる気はないからな。……報酬、忘れずに振り込んでおいてくれよ」


 橋本はまるで忠告をするように言葉を残して車を降りて行った。後部座席の扉が閉まり、車はまたもや走り出す。助手席の男は、「冗談じゃない」とため息をついた。




 翌日。橋本は昼近くに目を覚ました。夜遅くまでの「仕事」のせいで、疲れていたのだ。寝床から起き上がり、便所で用を済ませながらスマホの画面を見つめる。また知り合いの企業のサイトのサクラをする仕事の話が来ていたが、もはや彼にこんな仕事をする理由などなかった。メッセージを送ってきた相手を何も言わずにブロックし、やり取りも削除する。


「こんな舐めた仕事やる訳ねえだろ。二度と話しかけんな」


 聞こえているわけもないはずのメッセージ相手に暴言を吐き、便座から立ち上がる。水を流して便所から出ると、彼は手を洗って冷蔵庫の方へと赴いた。よく冷えた水が入ったペットボトルを取り出し、一息に口の中へと流し込む。……規則正しい生活はとうの昔に捨て去った。そのせいか、寝起きは滅多に腹が減らない。彼はわずかに中身が残ったペットボトルを持ったまま、リビングへと向かう。椅子に乱暴に腰かけ、机の上に置いていたノートパソコンを開いた。


「今時は便利だよな。銀行に行かなくてもネットで口座の確認ができるんだからよ」


 彼は自分の銀行口座を確かめていた。時刻はすでに昼が近く、銀行もすでに営業を始めている。昨日の報酬はすでに振り込まれている可能性があるのだ。少しの待機時間の後、彼の口座が表示される。入っている金額は、四百九十六万円と端数であった。以前の仕事での二百万、そして昨日の仕事での三百万。食事やゲームの購入費でわずかに使っているため、少し減っていた。


「……この年で、これだけの貯金……。まともに働いてたら絶対に無理だ。……それにしても、あいつらは何者なんだ?俺みたいなやつにポンと大金を渡せるなんて、ただものじゃなさそうだが……」


 彼は真っ当に大学を卒業しているため、それなりに頭はいい。世間との常識観もそれほどずれてはいなかった。……彼は、社会から「役立たず」の烙印を押された者だ。いかなる職に就くことも許されず、ただその日を生き延びているだけ。そんな人間に目をかけ、大金を簡単に手渡す人間などこの世にいるのだろうか。……そんな疑問が、彼の頭の中を支配する。


「金持ちなんてのは、自分のことしか考えられないクズどもばかりだ。ただ善意で俺に金を渡しているわけがねえ。……いや、『物を盗んで来い』なんて言ってるんだから、善意なんてもんは最初からないんだが……。ただの紙切れ一枚で三百万だろ?普通に考えてありえねえ」


 パソコンの画面に表示された口座の額面を見つめながら、橋本はああでもないこうでもないと思案を巡らせている。飲み干しかけていたペットボトルの中身をすべて流し込み、大きくため息をついた。


「やめだ。こんなこと考えてたところで何にもなりゃしねえ。あいつらがどんな奴らか知らねえが、俺に大金をくれる慈善家ってことでいいじゃねえか。……ああ、そうだよ。これまでの人生で一度も報われなかった俺は、ようやく救われるんだ」


 彼は銀行口座のサイトを閉じ、デリバリーサービスのサイトを検索した。寝起きで頭を使ったからか、腹が減ってきてしまったのだ。




 一方、とある一室。橋本に「仕事」を任せた者達が集まっている部屋では。


「しかし、誓約書を盗んだだけで、大友は諦めるでしょうか。別に以前のように協力者自体を殺害してしまったわけではないですし」


「……その点については、問題ないでしょう。当事者でなくとも、宮本の家族が一人死んでいますから。……あれは確か、孫でしたかね」


「ええ。宮本壮一。宮本林蔵の孫で、秘書も務めていたようです。……宮本林蔵は、自分の後釜に孫を座らせる気だったようです」


「日本の政治家が考えそうなことですね。……まあ、無残にも殺されてしまいましたが。宮本自身も相当高齢ですし、今から後釜を探しなおしたても間に合わないでしょう」


 社長と名乗る男は、まるで宮本壮一の死がうれしいことであるかのようにつぶやき、椅子に深く身を預ける。報告に来ていた二人は、その振る舞いに少し鳥肌を立てていた。


「……これから、どうなさるので?」


「しばらくは様子見ですね。大友がどうするか、それで私たちの動きも変わりますから。……あの、橋本という青年ですが」


「……ああ、彼がどうかしましたか?」


「彼は使える。……彼の機嫌を損ねないように。……はした金で殺しを請け負ってくれる人材など、滅多にいませんから」




 デリバリーで頼んだ昼食を平らげ、暇をつぶすためにネットサーフィンをしていた橋本。適当にSNSを眺めていると、とある事件の記事が目に入った。


「……『政界のドン、宮本林蔵の邸宅に強盗か⁉孫の宮本壮一が殺害』……ね。どうせならジジイの方を殺せばよかったのにな。何が政界のドンじゃボケ。ただちんたら生き残っただけだろ。……へえ、強盗が入ったくせに金は盗んでねえのか。……あ、なるほど。『犯人は書斎に侵入し金品を物色していたようだが、被害者である宮本壮一はその物音に気付き犯人と出くわしたのではないか。犯人は焦って目撃者を殺害し、そのまま何も盗まずに逃走』……。腑抜けた野郎だな。一人殺したぐらいで焦りやがって……。ん?書斎?」


 記事の内容にそれほど不審な点はない。移民が増えた日本ならば特に珍しくもないただの凶悪な犯罪だ。……ただ、何となく、橋本はこの事件を知っているような気がした。それも、誰よりも。


「家の外観はねえのか?……あった。いや、昨日は夜で碌に見えてなかったな。昨日は行った家な気もするし、そうじゃない気も。……あ。『侵入経路は、庭に面した雨戸』。……これ、昨日の俺の話か?書斎もそうだし、金目のものも取ってねえ。男を一人殺したのもそうだし、侵入経路もあってる。……宮本壮一の死因は頭部への打撲。……やっぱり、この事件は……」


 途端に背筋が冷えていく。だらけていた姿勢が正されていく。昨日の今日で、まだ半日ほどしか経っていないというのに、これほどの記事になっている。その上。


「『中華チェーンの社長が殺害された事件と手口が酷似しており、警察は同一犯による犯行ではないかと考えている』……。クソ、余計な考えを……」


 バールで殴り殺すという方法が悪かったのか、以前の事件との関連性が見出されてしまい、橋本は舌打ちをしながら悪態をつく。……ただ。


「目撃情報はねえ。殺された奴らと俺との接点もねえ。証拠も残してねえ。……俺にたどり着くなんて不可能だ、ありえねえ。そうだ、そうに決まってる」


 橋本は乱雑にノートパソコンを閉じた。口では自分の身の安全を確信したような物言いだが、その振る舞いはまるで指名手配犯のように焦りに満ちていた。


「気分転換だ」


 彼は机のわきに置いていたゲーム機のコントローラーを手に取り、モニターの電源をつける。前に買ったゲームはまだクリアしていない。余計なことを考えている暇があるのなら、ゲームでもしていた方が有意義だろうと判断した。……だが、それも長くは続かなかった。一度身の危険を意識してしまえば、それは頭の中にこびりつく。無理やりゲームに没入しようとすればするほど、自分が人殺しだということを強く忘れようとしなければならなかった。それがかえって意識を強めていく。……結局三十分もしないうちに彼はコントローラーを手放し、床に敷いたままの布団へと寝転んだ。




「どうすりゃいいんだ。俺が犯人だと気づかれないためには……」


 時刻は午後三時。かれこれ一時間半以上、彼は布団に寝転がりながら悩み続けていた。どうすれば捕まらずに済むのか。別に人を殺したという事実自体におののいているわけではない。ただ捕まるのが嫌なだけなのだ。刑務所に入れば自由な生活などできなくなる。今の悠々自適な生活を侵害されることが、彼はどうしても耐えられないのだ。


「……でも、現場には何も証拠を残してねえし、目撃情報も今の所出てねえ。唯一バレそうなきっかけと言えば車を用意してくるあいつらだが、あいつらはほぼ共犯みたいなものだ。俺のことをバラそうとするはずもねえ。……大丈夫だ、警察の奴らが俺の所にたどり着くことなんて、絶対にない」


 彼は落ち着きのない様子で何度も寝返りを打ちながらぶつぶつとつぶやく。そうして導き出した結論で無理やり自分を納得させるが、すぐにその自信が崩れ去る。


「でも、なんかの間違いで俺の所に来たりするんじゃねえのか?……例えば、あのクソ親父が『自分の息子が闇バイトに手を出しているかもしれない』なんて警察に相談したら……。いや、ここに来られたところで、俺がその時に使った道具は家にはねえんだ。アリバイはないにしろ、強く怪しまれることもない。……やっぱり、俺は安全圏にいるんだ」


 再度自分を納得させる結論に着地し、荒れた海のようになっていた心に少しの静寂が訪れようとしたとき。彼が住んでいるアパートの古臭いドアベルの音が鳴った。「ピンポン」のような軽快な音ではなく、隣室にも響くような重苦しい音が彼の住んでいる部屋に響く。敷布団に寝転がったままの橋本はその上半身を素早く起こし、壁越しに玄関の方を睨みつけた。


「……何か、頼んだっけな」


 彼は上半身だけを起こした姿勢のまま、玄関をじっと見つめながら小声でそうつぶやく。枕元に置いていたスマホでデリバリーの注文履歴を見るが、注文したものはもうすでにすべて届いている。ならば通販サイトかとも思ったが、通販サイトはここ二年検索すらしていなかった。最後の注文履歴も二年前で止まっている。


「……何も頼んでねえ。……誰かからの宅配、か?」


 彼はそうつぶやいたところで、すぐにその場で自分の首を横に振った。彼に何か物を送ろうとする人間などいる訳がない。小中高そのいずれもで彼はほぼ絶縁状態である。唯一大学の知り合いが口コミサイトのサクラをするという仕事を持ってきてくれるが、あれはつい今朝に手ひどく縁を切った。……もし何か送ってくれるというのなら、仕事の話の際に話題に出したりするものだろうが、その時に荷物の話はなかった。残る可能性としては……。


「まさか、あのクソ親どもが?」


 それしか考えられなかった。橋本の現在の住居を知り、なおかつ橋本と連絡を取ろうとする酔狂な存在。それは彼の両親に他ならなかった。彼が初めての殺しをした次の日の朝、勘当を言い渡した父親の方からわざわざ電話をしてきたことも踏まえると、なおさらである。……だが、一体何のつもりなのか。


「説教こそすれ物をよこすだと?あのクソジジイにそんな殊勝な心掛けができるのか?」


 橋本は法がなければ父を殺したいと願っていたほど、父親を嫌っている。その思いが伝わっているのか、彼の父親もまた橋本のことを殺したいほどに嫌っていた。殺したい人間に何か贈り物をしようとするなど、常識を備えている人間ならば考えようともしないだろう。橋本は「何のつもりだ」とつぶやく。すると、それが聞こえていたのか再度ドアベルが鳴らされた。……怒りが透けている、どうやら指ではなく拳をドアベルに押し付けて鳴らしているようだ。これ以上待たせれば次は拳でドアを殴りつけ始めるだろう。


「はーい!今でまーす!」


 橋本は便所に行っていたフリをするために使っていない便器に水を流し、水が流れる音を出す。便所の場所は玄関にほど近い、聞こえているはずだろう。これでまた急かすためにドアベルを押すようなことはしなくなるはずだ。彼は棚の小さな引き出しにしまっていたハンコを取り出し、玄関へと急ぐ。そして、のぞき穴から外を見た。


「……誰だろう」


 そこにいるのは一人の男だった。ただ、全くもって見覚えがない。着ている服は私腹らしく、宅配業者のような制服ではない。橋本の父親がしびれを切らしたのかとも思ったが、ドアの先にいるのはどう見積もっても三十後半の男、奴は五十代であり見た目がまったく違う。どうにも怪しい人物を前に橋本は「出ない方がいいか」とすら思い始めてきたが、先ほど「今出ます」と言ってしまっている。今さら居留守の選択はできるはずもなかった。彼はささやかな抵抗としてドアのチェーンをかけたまま、ゆっくりとドアを開けた。




「……あの」


「ここ、橋本一誠君が住んでいる家だと聞いたんだけど、間違いない?君が、橋本一誠君だね?」


 ドアの先にいる男は、小さく声をかけるとなれなれしく物を尋ねてくる。そのあまりにも無遠慮な態度に、橋本は嫌な気配を感じ取っていった。


「……そ、そうですけど。あなたは?」


「俺は警視庁の『少年犯罪対策係』で働いている松井正司だ。よろしくな」


 橋本の口からは「え?」という声が漏れていた。警視庁?少年犯罪対策?目の前にいる男がそうなのか。彼の背中に汗が湧き出る。彼は震える口調で審議をただした。


「ほ、本当ですか?なら、警察手帳を見せてください」


「ああ。今時の子はしっかりしてるね」


 松井は事もなげに上着の胸ポケットから昔の刑事ドラマでよく見たものを取り出した。ドラマは意外と小物を丁寧に作っているものである。橋本は額にも汗をかきながら続ける。


「な、なんで俺のところに?そもそも俺はもう成人してるんですよ。少年って言われるほどじゃ……」


「……そのことを話すには少し長くなる。立ち話は疲れるから、できればあがらせてほしいんだが、どうかな?」


 松井は「どうかな」と尋ねてきてはいたが、その眼はしっかりと橋本を睨みつけ、見下ろしていた。「断ったらどうなるか、わかってるよな」と彼の目が悠然と語っている。橋本は「少し待ってください」という他なかった。ドアに掛けていたチェーンを外すために、一度ドアをしめなければならないからだ。

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