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人を殺すと、小便がしたくなる。  作者: 源


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第五話

前回のあらすじ

「仕事」を済ませ、日常を送ろうとしていた橋本。そんな彼のもとに松井という男が現れる。彼は少年犯罪対策係であると名乗りだし、橋本に事情聴取を仕掛けて来た。


誤字脱字等、ご容赦ください。

「あんまり掃除してないですが、どうぞ」


「失礼しますよ」


 橋本が宮本壮一を殺害して、依頼されていた「誓約書」を盗み出した次の日。三百万の報酬を受け取ってほくそ笑んでいた橋本のもとに、とある客人が訪れた。名を松井と言い、警視庁の「少年犯罪対策係」で働いているという。あまりにも唐突な来客ではあったが、ここで感情的に追い返したりすれば猶更怪しまれる。橋本はひとまず松井の要求通りに長話に付き合うこととした。古臭いアパートの一室、来客など考えたこともなかった橋本の部屋には誰かが腰を落ち着けることができる場所等ほぼない。松井は悩んだあげく畳の上に腰を下ろし、橋本は彼から少し離れたところに腰を下ろした。


「それじゃ、訳を聞かせてもらえますか?なぜ少年犯罪対策係のあなたが俺のところに現れたのか。この、少年とは言えない俺を目当てに」


「そこまで複雑な事情はないけど、話しておかなきゃね。……まず、ちょっと話はそれるんだが。『闇バイト』ってのに聞き覚えは?」


「まあ、ネットニュースで何度も」


 闇バイトとは、SNSやインターネット掲示板などで都合のいい言葉を使い、犯罪行為の駒を募集する求人のこと。ニュースで何度も見た橋本はそれぐらいは知っていた。松井は「なら話が早い」と続ける。


「これは大まかな統計なんだが、闇バイトに駒として巻き込まれるのは、大抵が若い男……。いや、男の子と言っても差し支えない。まだ世間を知らない中高生の男子がほとんどなんだ。だから、少年犯罪対策係に闇バイトの調査という仕事が加わったんだ」


 巻き込まれるのが少年ばかりだから、少年犯罪対策係が担当となって業務にあたるということなのだろう。……ただ、だからと言って松井が橋本の家に現れる理由は説明されていない。橋本は少し強気に尋ねる。


「それで、それが俺と何の関係が?」


「……怒らないで聞いてほしいんだが、君の父親から相談を受けたんだよ。『うちの息子が闇バイトに関わっているかもしれない』と」


 橋本は眉間に深くしわを寄せた。やはりあの男だった。父親気取りの邪魔しかできない馬鹿男。彼は大きく息を吐き、高ぶった気を静め、努めて冷静に返事をする。


「俺に父親はいませんけど」


「え?でも、橋本栄治というのは君の父親の名前なんじゃないのかい?」


「違います。俺に父なんかいません」


「……何か事情があるみたいだけども、あまりこちら側からは聞かないようにしておいた方がいいようだね」


 松井は「そうか、なるほど」などとつぶやきながら、ポケットから取り出したスマホを操作している。おそらく橋本から聞き出した言葉をメモしているのだろう。橋本は少し苛立ちを見せた。


「あの、いつになったら帰るんですか?面倒なんですけど」


「あと少し、いくつか質問するだけだから。……昨日の夜、何してた?」


「寝てました」


「……じゃあ、四日前の夜」


「寝てました」


「それを証明できる人は」


「一人暮らしなのでいません。……なんの意味があるんですかこれ。一人暮らしの人間にどうアリバイを証明しろと?」


 橋本の苛立ちはさらに加速していた。今ここで彼が正直に答えたところでそれを証明する術もないし、嘘だと断ずる証拠もない。この問答は形式だけの無駄な行為なのだ。ただでさえ自分一人で過ごしていたいという願いを邪魔されているというのに、それがいつまでも長引くとなっては苛立つのも仕方のないことだった。しかし、橋本の前に座る松井はそんな感情を読み取ることもせず、悪びれずに言う。


「まあまあ、一応で聞いているだけなんだからさ。そんなにイライラしないでよ。なんか予定でもあるの?ないでしょどうせ」


「……『ないでしょどうせ』ってなんだよ。偉そうな口聞きやがって舐めてんのか」


「……君の父親から聞いてるんだよ。交友関係なし、就労経験もなし。絶対にいつでも家にいるはずだ、とね。……いい歳して無職かよガキ」


「殺すぞ馬鹿が。てめえ一人造作もねえぞ」


 橋本は完全に怒りで我を忘れていた。ただでさえ限界に近かったというのに、松井からの舐めた態度の物言いがとどめを刺したのだ。松井は橋本の言葉を冗談だと決めつけていたようだが、彼の鬼気迫る表情にわずかに冷や汗を浮かべている。


「……何が『成人してる』だ。まともな奴は面と向かって殺すとか言わねえぞ」


「そっくりそのまま返すぜ阿呆が。面と向かって人様のことガキ呼ばわりしやがって。それってまともな人間の言動か?」


「生憎な、そんな言葉には慣れてんだ。高校生のチンピラ補導すればいくらでも聞こえてくるんでな。でも、誰も本当にはやろうとしねえ。……ただの脅しとしてしか思ってねえ言葉なんかこわくねえよ」


「あっそ。じゃあそこから動くなよ。今すぐさっきの言葉を現実にしてやるよ」


 橋本はそう言って立ち上がり、松井を押しのけて普段全く使わないキッチンへと向かった。今ではキッチンを全く使っていないが、ここに越してきた当初は「自炊の方が安いから」と調理道具は一通りそろえていた。キッチン棚下の収納を開け、ホルダーにしまわれていた包丁をつかみ取る。松井はここでようやく、橋本が冗談を言っていないことを理解した。


「待て!落ち着け!俺が悪かった。だから、その手に持っているものを置いてくれ。謝る、この通りだ」


 松井はその場から素早く立ち上がり、深く頭を下げる。ここまで謝意を見せれば立ち止まってくれるはず、そう高をくくっていたが。


「お前が悪いんだな。なら、罪には罰がいる。そのままの姿勢でいろ。頭を突き出したままだ」


 先ほどまでの小市民を取り繕おうとしていた青年の声ではなかった。機械的ともいえる、あまりにも冷たい声。もはや人から発せられたものかすら怪しいほどの沈んだ声。松井が顔をあげると、包丁の刃が寸前にまで迫っていた。


「うわっ!」


「逃げるな!」


 松井はとっさに身をよじり振り下ろされた刃を避けた。橋本は無事に凶刃から逃げおおせた松井に怒号を飛ばし、あきらめることなく追いかける。ただ、この追いかけっこは最初から勝負が決まっていた。この部屋の出口はキッチンの近くにあり、安アパートゆえに部屋は狭い。つまり、松井は刃物を持った橋本の横を通りぬけない限りこの部屋から逃れることはできないのだ。


「落ち着け!よく考えなおせ!……わかるか、俺は仕事でここに来てるんだ。俺が死ねば、仕事場には帰れねえ。当然同僚もおかしいと思うだろう?お前ひとりで殺しを隠し通せるわけない!ご両親にも迷惑がかかるだろう?」


「……両親、か……。あんなクズどもに迷惑かけられるなら、なおさらお前を殺すことにも熱意が向くもんだ。……冥途の土産に教えてやるよ。最近ニュースになってる二つの事件、犯人は俺だ。合計四人、全員俺が殺した」


「なっ!」


 驚いている松井の身体にさらなる衝撃が走る。橋本が握っていた包丁がついに松井の身体に突き刺さったのだ。刺さった場所は左胸部、橋本は心臓を狙っていた。包丁が引き抜かれるとせき止められていた血が出口を求めてあふれ出す。碌に手入れもしていない荒れた畳の上に血がぼたぼたとこぼれた。


「……この、人殺しめが……」


 松井はそう恨み言を残して畳の上に倒れこんだ。橋本は握っていた包丁を松井の身体の上に投げ捨て、足早に部屋を離れる。彼が急いで向かった先は便所だった。松井が死んだと分かった途端、どうにも尿意が抑えきれなくなったのだ。彼は急いでズボンと下着を脱ぎ、便座に座り込む。


「……これは、条件反射ってやつか?『人を殺すと小便がしたくなる』っていう……。もしそうだとすれば、世界に俺一人だけだろうな」


 用を済ませた橋本は便所から出ると、松井の死体が転がっている部屋へと戻った。


「さてと……。この馬鹿どうすっかなぁ……」


 橋本は右足で松井の死体に蹴りを入れる。その後も左右交互に蹴りを入れながら「どうしようか」と唸り声をあげている。そうしているうち、彼は「あっ」と声をあげた。


「そういやこいつはここまでどうやって来た?」


 もし車を使ってきていたのだとすれば、その処分は格段に面倒である。橋本は車の免許を持っていないが、彼はそんなことを気にしているのではない。拙い運転では絶対に人の記憶に残ることが問題だった。どこか遠くの山に乗り捨てようとも、道中他の車とすれ違わない可能性はゼロに等しい。嫌でも「フラフラ走る車」という目撃情報が残ってしまう。


「……車は、ないか。電車と歩きで来たのか?まあそれならいいか」


 彼が住んでいる周辺地域は安アパートばかりということもあり、防犯カメラが置かれていないことが多い。駅を降りたところまでの足取りは警察でも追えるだろうが、それより先は難しいだろう。橋本はドアの隙間から出していた顔をひっこめ、部屋の中に視線を戻す。問題が一つ片付いたとはいえ、それは小さな問題でしかないのだ。一番の問題は、まだ残っている。


「結局……。こいつはどうすっかなぁ……」


 松井の体格は刑事である故か、それなりに立派である。運び出そうにもこの場でバラバラにしようにも、手間がかかりすぎる。その上、血に濡れてしまった畳もどうにかしなければならない。橋本は少し悩んだのち、一つの結論を導き出した。


「燃やすか、家ごと」


 橋本は今住んでいる家に全く思い入れがない。つい最近まで極貧生活を送っていたがゆえに、物も少ない。自分に必要な物はリュックサックに詰め込める程度しかなかった。彼は早速着替えや財布などの貴重品、ゲーム機などの必要最低限の娯楽品をリュックに詰め込んでいく。荷造りを終えた橋本はリュックを玄関の近くに置き、一度部屋の外に出た。


「……誰も騒いでねえよな」


 松井の遺体以外にも問題はあった。隣人が騒ぎを聞いてしまっていた時だ。もしかするとすでに通報されているかもしれない。橋本は思い出したかのように隣室の様子を確かめる。……ドアに耳を当ててみるが、生活の音は聞こえてこない。彼にもまだ良心が残っていた。無関係な人間を焼き殺したくないという良心が。


「どうせ場末のボロアパートだ。火事になろうが事件になるわけはねえ。……問題は新しい家、か」


 物事の完璧な解決というのは難しいものだ。一つ問題を片付ける度に新たな問題が顔を出す。今度は、家を燃やした後が問題だった。橋本はホームレスになる覚悟を決めていない。ならば新たな住居を用意しなければならないが、職がない彼が住宅の契約など、できるものか。彼には頼れる友人もなく、家族も……。


「……じいちゃん家があるか。ここよりも田舎の方だけど、雨風しのげるだろうし……。じいちゃんたちは俺が置かれている状況を知らないはず……」


 自分の息子を勘当したなど、いちいち話すわけもないだろう。祖父母にそれらしい事情を話し、少しの間でも置かせてもらうのが賢いか。……橋本はそう結論付けた。


「……これなら、リュックサックの荷物の言い訳もできる。帰省してたっていえばいいんだからな」


 彼はこのことが万が一事件化した後のことも考えていた。……そもそも、橋本が契約していた部屋から橋本ではない遺体が出ることになるのだ、事件化しない方が難しい。その場合、真っ先に橋本が疑われる。必要な物をすべて持ってアパートから離れていたことも、疑いに拍車をかけるだろう。だが、そこに帰省という言い訳をぶつけたらどうだろうか。リュックサックのような大荷物を持っていたのも、事件当時その場にいなかったのも、すべて説明がつく。


「よし……。やるぞ……」


 彼は部屋中の窓を閉め切った後、キッチン下の棚にしまっていたカセットコンロ用のガスボンベをいくつも取り出した。万が一ガス料金が払えなくなった時のために用意していたのだ。彼はそれを部屋のいたるところにばらまく。あとは畳の上に火を放てば、炎が広がってガスボンベを爆発させ、さらに大きな炎を生み出すだろう。


「……ろうそくでいいか」


 彼は畳にハサミで切れ込みを入れ、そこにろうそくを突き刺した。そして、点火棒で火を灯した。……ろうそくが溶けきる頃には、畳に炎が燃え移っているだろう。


「……じゃあな」


 橋本は畳の上に建てられたろうそくを少しだけ見つめ、逃げるようにリュックサックを持って部屋から出て、ドアに鍵をかけた。ここからは少し急がねばならない。少しでもここから離れて、アリバイを確固たるものにしなければならないからだ。彼は小走りで最寄りのバス停に向かい、ちょうど来たバスに乗り込んだ。時刻は午後三時半。うまくいけば祖父母の家までは夜中になる前には到着できる。彼はリュックサックを腹の前で抱え、顔を伏せて笑った。




 それから40分後。橋本が電車に揺られている時。スマホのネットニュースは速報を知らせていた。都市郊外でのアパートの火災。それほど人通りの多い場所ではないが、派手な爆発音や強すぎる火の勢いが衆目を集め、中継されるにまで至ったようだ。


『火災発生から30分近くが経過しようとしていますが、依然として火の勢いは衰えません。このアパートに住んでいるという複数の住人とは連絡が取れておらず、少しでも早い救助活動が望まれています』


「おお、思ったより派手に燃えてるな」


 自分で丁寧にガスボンベまで仕掛けたというのに、どこか他人事のようにつぶやく橋本。彼は自身のスマホに残っている通話履歴を確かめたが、両親からの物はなかった。まだニュースを見ていないか、それとも勘当した息子の死などどうでもいいのか。……彼はポケットにスマホを押しこみ、座席に深く座りなおして目をつぶった。


「じいちゃん家に行くのなんて何年振りだろうなぁ」


 電車を何度か乗り換え、日は暮れかけていた。少し早い食事は駅のホームで買ったおにぎりだ。周りに乗客の姿がないおかげで、音も匂いも気にしなくていい。いくつかおにぎりをむさぼり、ごみをまとめてレジ袋にしまった。


「たぶん、もう十年近いか。あんときからもうクソ親父と揉めてばっかだったからなぁ。さすがのクソ親父も、自分の息子に言い負かされてる姿は見せたくなかったんだろうな。あの野郎見栄っ張りだしよ」


 中学の時か高校の時か。橋本は進路のことで父親と揉めた。父は自分をエリートだと自負していた。確かに稼ぎも良かったし、幼いころは何も不自由しなかった。だが、橋本は違った。言葉を選ばずに言えば、出来損ないだった。……父が愚かだったのだ。碌に勉学もできない母の美貌につられ、結婚に至った。父はそれほど優れた容姿ではなかったが、稼ぎがいいおかげで女は寄ってきていた。……その二人の子供だ。碌に勉学もできず、風采の上がらない木偶の坊が出来上がった。


「……馬鹿で不細工。進路なんか考えたところで何にもできねえよ。だってのにあのクソ親父は……。『努力で何とでもなる』だと?……何やっても、顔はまともにならなかったけどな」


 誰もいない電車内で、彼はひときわ大きな声で「クソが」と悪態をついた。




 それからさらに三時間後。橋本はようやく目的地の駅にたどり着いた。駅の改札はかろうじて自動になっているが、駅構内は閑散としている。駅前のビル群も明かりはついておらず、唯一あるファストフード店の明かりだけがやたらまぶしく見えた。彼は店で食事でもしようかと一瞥を送ったが、腹はそれほどすいていなかったためそのまま店を素通りした。


「……バスは、二十分後か」


 駅から出発するバスの最終便は午後七時半。現在の時刻は七時十分。バスはすでにバス停に待機しているが、これが動き出すまでにはあと二十分も待たなければならない。彼はファストフード店で休憩しているであろうバスの運転手に「働け馬鹿」と小声で悪態をつき、バス停を通り過ぎた。


「あの時から全然変わってねえな。いつまでたっても街灯が増えねえ」


 駅前はオフィスビルがいくつか並んでいるおかげでそれなりに都市部らしく見えるが、少し駅から離れるとその景色は一変する。街灯はまばら、道の片側はたいていが田畑になっている。道幅は車が通るということもあり狭くはないが、足を踏み外せば土などですぐに汚れてしまうだろう。彼はそんな道を十五分ほど歩き、とある家の前で立ち止まった。


「……懐かしいな。もう十年近く来てないのか」


 彼が立ち止まった家が、目的地である彼の祖父母の家だった。大きな平屋で庭もそれなり。幼い頃は毎年の夏に遊びに来て、そこらを駆け回ったものだが、父との仲が険悪になるにつれ、祖父母の家に来ることもなくなっていった。その上、橋本自身は電話などでも連絡を取っていない。……もしかすると、祖父母は橋本のことを覚えていないかもしれない。橋本はわずかな不安を抱きながらも、古くなったインターホンを押した。少し音割れしたチャイムの音が鳴る。


「はーい」


 それから少しして、しわがれた女性の声が聞こえて来た。足腰が悪いのだろう、急いでいるのに足音はゆっくりとしている。玄関の明かりがつき、引き戸が開く。出てきたのは老婆だ。腰が少し曲がった、優しそうな顔をした老婆。彼女は橋本の顔を見上げ、小首をかしげる。


「こんな夜遅くにどなたかしら?……あら、その顔は……。一誠?」


「ばあちゃん。覚えててくれたんだ」


「……いきなりどうしたの?……とりあえず、上がりなさい」


「うん、お邪魔します」


 祖父母の家は、彼の記憶通りだった。少し広い玄関からまっすぐ伸びた廊下。玄関から入ってすぐの部屋には収穫した野菜が置かれている。その少し先には今があり、繋がって台所がある。さらにその奥は便所と風呂場だ。彼はまっすぐ居間に通された。そこには畳の上に座り、テレビを眺める老人がいる。背中は祖母よりも曲がっているが、若いころからの肉体仕事のおかげが随分とがっしりしている。彼は足音を聞いて振り返りながら言った。


「ばあさん、さっきのは誰が……。一誠?お前、なんでここに?」


「……じいちゃん、久しぶり。ここに来たわけは……」


「まあまあ、とりあえず座って。……一誠、お腹すいてない?」


 橋本は訳を説明しようとするが、それよりも先に祖母によってちゃぶ台の前に座らされる。そして、目の前に彼らの夕食の残りであろうものがずらりと並べられた。


「ここまで疲れたでしょう。とりあえず、ご飯食べなさい」


 祖母はそう言って少し小高く白米を盛った茶碗を差し出す。橋本は断る間もなくそれを受け取り、流されるままに箸を握った。


「やっぱり、お腹減ってたんじゃない。あんまり無理しちゃダメですよ」


 彼が懐かしい味の煮物などに舌鼓を打っている間、祖父が見ていたテレビでは火事の中継が行われていた。場所は橋本が住んでいたアパート。……彼は念入りすぎた。部屋中にばらまいていたガスボンベが引火するところまでは予想内だったが、威力までは考えていなかったのだ。炎はすさまじい勢いで広がり、彼が住んでいたアパートどころか周辺の全く関係ない民家すら燃やし始めていた。道幅が狭いこともあり消防車が思うように動けず、消火活動も難航しているという。


「……ご馳走様」


 結局、橋本は出された食事を綺麗に平らげた。祖母が皿を下げる最中、祖父がテレビの電源を切って座布団に座りなおす。そして、真剣な目つきで橋本を見つめた。


「それで、話してくれるか。どうしていきなり来たんだ。お前の父さんと母さんはこのことを知っているのか?」


「……その、仕事のことで喧嘩してさ。家から追い出されちゃったんだ。……で、友達とかにも頼れなくて、ここに……」


 橋本の歯切れは悪い。嘘をついているわけではないが、やはり後ろめたい部分があった。祖父は少しの間小さく唸り声をあげたが、「そうか」と膝を叩いた。


「何時までここにいるつもりだ?」


「……どうだろう。考えてなかった」


「まあいい。古い家だが広さだけはある。後で部屋は用意してやる。……栄治には話さなくていいか?」


「うん。俺がじいちゃんたちを頼ったなんて知れたら、余計に怒るだろうし……」


「わかった。……お前はここで少し休んでいろ。部屋を用意してくる」


 祖父はそう言うと、橋本のいきなりの訪問に対応するために部屋を掃除しに行った。思っていたよりもたくましい背中を見送った彼は手伝おうと立ち上がるが、祖母に止められる。


「久しぶりに孫の顔を見て、ちょっと張り切ってるみたい。ここは華を持たせてあげましょう」


「……でも、まかせっきりは何か……」


「私は、久しぶりに一誠の顔が見れただけで十分。きっとあの人もそう思ってる。……それより、仕事のことは大丈夫なの?ここから会社は大変じゃない?」


「それは大丈夫。テレワークって聞き覚えない?俺はそれで仕事してるから。……まあ、たまに外に出るけど」


「大丈夫ならそれでいいわ。……梨でも食べる?」


「……うん、もらおうかな」


 橋本はこうして、十年振りほどに平穏なひと時を過ごした。父からの叱責もなく、母からの罵倒もなく、周りからの軽蔑の視線もない。彼はその日久しぶりに、寝る前の習慣になっていた「クソが。なんで俺がこんな目に合わなきゃいけねえんだ」という言葉を忘れた。




 翌日、彼の枕元に置かれていたスマホがメッセージの受信を知らせた。相手はいつも通り、「社長」。その内容は、アパートの火事を心配するものであった。


『昨晩、君の家が燃えたそうですね。怪我などはしていませんか?』


「いつの間にか住所まで知られてたのか。……『帰省中なので火事には巻き込まれませんでした。無事です』っと」


『それならよかったです。家財が燃えて大変でしょうし、すぐにでも仕事を手配しましょうか?あなたにやってもらいたい仕事はまだまだあるので』


「人使いが荒いなんて次元じゃないな。……まあ、金は入用だし仕方ないか」


 メッセージが届かなくなったスマホを敷布団の上に放り投げ、自分が普段使っている方のスマホを手に取る。家族だった者達からのメッセージはなく、カジノニュースだけがSNSで大きく取沙汰されていた。昨日の深夜にようやく鎮火した火事の被害状況が記事になっている。


「……四人死んだのか」


 橋本が殺害したあの刑事も含めて、火事の現場から四つの遺体が発見された。さらに、煙を吸った者や火傷した者もおり、近年まれにみる被害であったと報道されている。


「……これ、しばらくの間、俺が死んだことになるんじゃないか?あの遺体が鑑定されるまでは勘違いされそうだな」


 彼は楽観視していた。これはただの火事。事件性など一目した程度では見つかるはずもない。もしあるとすれば、彼が殺した刑事の同僚が声をあげることだろうが、それでもしばらくの間は平穏に過ごせるだろう。祖父母の家にいる言い訳もすでに用意しており、彼に手抜かりはなかった。


「一誠。起きてる?朝ご飯にしますよ」


 祖母が彼を呼ぶ声が聞こえる。彼は祖父母に「おはよう」と告げ、ちゃぶ台の前に座った。彼にとっては久しぶりのまともな朝食。そのあまりの食べっぷりは、祖父から「そんなに仕事が忙しいのか?」とまともな食事がとれないほどの激務をこなしていると心配されたほどだった。


「それじゃ、じいちゃんは畑の方に行ってるからな。お前は好きに過ごしなさい」


 朝食を終えると、祖父はそう言って立ち上がって家を出て行った。祖母は家事に精を出している。橋本はそんな祖母の背を通り過ぎてあてがわれた自室に戻り、ノートパソコンを開いた。彼は居間にいる際に覚えておいた祖父母宅のWi-Fiのパスワードを打ち込み、ネットへとつなぐ。そして彼は真っ先にSNSアプリを立ち上げた。


「さすがに昨日の今日であの死体が俺じゃねえとはわからねえはず……」


 彼がしていたのは、火事の情報収集だった。いくら策を弄しているとはいえ、突然警察に訪問されるのは心臓に悪い。特に祖父母には刺激が強すぎる。だからこそ、せめてもの対策として、いつ彼らが姿を見せるかそれとなく予想を立てておきたかったのだ。日中持て余した暇をつぶすためとも言える。


「出火現場から遺体は回収されてるのか。……鑑定ってどんぐらい時間かかるんだ?『遺体 鑑定 日数』と……。事件性や解剖がない場合は半日?じゃあ、もしかしたら今日中に警察が動くかもしれないってことか?」


 とある検索サイトのAI概要は、まさに機械的に情報を突きつける。ここに書いてあることが本当ならば、鑑定は半日で終えられている。昨日の深夜に遺体が回収されたとして、半日後は今日の昼頃ということだろう。今からはおよそ三時間ほど。そこから警察が動き出すかもしれない。それほど暑くないというのに、彼の額には汗が浮いていた。


「どうする。じいちゃんたちに話したほうがいいか?いや、どう話せばいいんだ?いっそのこと白を切る……。いや、死体が出てるのは事実だし、余計に怪しまれるかもしれないな……」


 彼がノートパソコンを前に小声でぶつぶつつぶやく姿は、様子を見に来た祖母に見られていた。ただ、橋本の声がよく聞こえなかったのか、彼女は「仕事が忙しいのね」と心の中で彼をねぎらうにとどめ、声をかけることはなかった。

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