第三話
前回のあらすじ
橋本はバールを何度も振り下ろし、結果として三人を殺した。その代わり、目的のブツを無事に確保することができた。協力者と共に被害者の家を脱出し、報酬として目がくらむほどの大金を手に入れる。
翌日、愉悦に浸ったまま寝ていた橋本を起こしたのは、縁を切った父からの電話だった。今さら聞くにも堪えない説教に、橋本は声を荒らげる。そうして父との通話を終えた後、「社長」からまた仕事のメッセージが届いた。
誤字脱字等、ご容赦ください。
「……よろしいのですか。想定よりも大事になっているようですが」
「言うことを聞かせるための暴力程度は想像していましたが、まさか殺すとは。それも、仲間割れまでして」
橋本たちが乗っていた車に同乗していた男二人は、とあるマンションの一室に呼び出されていた。彼らの目の前にいるのは、橋本らに「社長」だと名乗った人物である。
「……橋本と言いましたか。随分と荒れているようで」
「お言葉ですが、切り離したほうが良いかと。……車の中から覗いていましたが、奴の行動は突発的すぎます。その場の感情に支配されすぎている。あれでは、いつボロを出すかわかったものではありません」
「いや……。抱き込むとしましょう」
「しかし」
「……では、君は二百万で人を殺せますか。それも三人も。……突発的という割には、どこか達観している。証拠も残していないようですしね。それに、あれはその場の感情というよりは、どちらかというと……。まあ、それはいいでしょう。兎に角、彼は優秀です。それも非常に」
「ですが、いつか我々と繋がっていると気づかれるかもしれません」
「誰に?そもそも、今朝報道された一件さえ、彼にたどり着くことは到底不可能でしょう。彼が自分から『私が犯人だ』とでも言わない限り、彼に目は向けられない。……それに」
「それに?」
社長は机の上に置いていたスマホを手に取り、動画サイトを開く。そして、検索ボックスに事件の概要を打ち込んだ。すると。
「……『事件の真相をお話します』。『犯人は私です』……。こんなものですよ」
「こ、これは……」
表示された検索結果は散々なものであった。ずらりと並ぶ動画のタイトルは、そのほとんどが自らが犯人であるかのような、あるいは犯人を知っていると嘯くようなものばかりだ。
「事件に便乗しているんでしょう。注目を浴びるためなら恥に塗れることすら厭わない。……彼らとて、このような手段はとりたくはないはずです。一体、誰が彼らをそこまで追い込んだのでしょうね。……まあ、彼らのおかげで、仮に橋本君の気が狂って自供しだしたとしても、まともに取り合ってくれる者は誰一人として存在しないのです。……木を隠すなら森の中とはよく言いますが、まさか勝手に森が育つとは」
「……では、これからも彼を?」
「ええ。彼とは、仕事仲間以上の関係になれそうですしね」
同時刻、橋本は。父親だった者に朝早く叩き起こされたため、二度寝をしていた。そもそも昨日はいつもより寝るのが遅かったのだ。睡眠が足りていない。そうして惰眠をむさぼっているうち、正午を知らせるチャイムが鳴り響く。
「……んあ。昼か。……腹減ったな」
彼は布団からのそりと起き上がり、冷蔵庫にしまっていた水入りのペットボトルを手に取る。口の中へよく冷えた水を流し込み、「あー」と声をあげた。
「飯食うか。……そういや、今は金があるんだよな。なら、久しぶりにハンバーガーでも……」
彼はそうつぶやいて、枕元に置いたままだったスマホを拾い上げる。今は便利な時代だ。スマホ一つで大体の物が配達される。彼はハンバーガーセットを二つ注文し、ノートパソコンを開く。今まではただ腹が立つだけだった動画サイトも、今日はなぜか笑ってみていられる。そうしているうち、頼んでいた食事が届いた。
「……たった一日で二百万手に入れると、真面目に働くのが馬鹿らしく見えてくるな」
食事を届けてくれた配達員の背中を見届けながら、橋本はそうつぶやいた。まだ五月だが、今日はそれなりに暑い。配達員もかなり汗をかいているようだった。彼はそうして一生懸命に働いている者を、嗤った。頼んだセット二つを貪り、空腹を満たす。そして甘ったるい炭酸飲料を飲みほし、ためらわずげっぷを放った。
「……まだ一時にもなってねえのか。久しぶりに出かけるか」
橋本のような人間にも、趣味の一つや二つはある。……一つ目は小説を書くことだった。ネットで公開してあわよくば小説家にでもなれないかという浅い考えのもと、日々胸の奥にたまっていた鬱憤を文字に変えていた。だが、それは長く続くことはなかった。原因はとあるニュースだった。……ただ、それほど大層なものではない。男性アイドルが執筆した小説が世に出ることが決まっただけのことだ。だが、それは橋本の逆鱗に触れた。彼に言わせれば「顔だけで成りあがった奴は、どれだけつまらない小説を書いても出版してもらえるからズル」なのだ。……彼はその小説を購入してから二日で「つまらない」として古本屋に売り出している。今その小説は、中古で百円ほどの値もつかない。
「気になってたゲームがあるんだよな。もうさすがに安く買えるだろ」
そんな彼にかろうじて残された趣味がゲームだった。それも、他者と協力することもなければ対戦することもない、ただ一人でやりこむだけのゲームを好む。……現実世界が思うようにいかないのに、ゲームでさえ自分の好きにできないのは腹が立つからだ。
「……電車に乗るのなんかいつぶりだろうな。大学通ってた頃以来か?」
無職の彼が住んでいられるアパートというのは、都市郊外の中でも特に郊外部に限られる。生活に必須であろうスーパーはいくつかあるが、それ以外の店は隣駅まで行かねばならない。今日は平日だが、時間がちょうどよかったのかそれほど客はいなかった。彼はガラガラの電車内で、座席の中央に腰を下ろす。それから十分もしないうち、電車は隣駅へと到着した。
「……昼時だってのに、人多くねえか?」
都市の端から一駅分しか進んでいないが、それでも中心部に向かって進んだということを人の行きかう量が感じさせる。というのも、ここはいわゆるターミナル駅となっているのだ。ここからさらに都市部に向かう者、ここを経由して別地方に出向く者。それぞれの目的を持った者がごった返しているだけだ。橋本は人の流れに従って改札まで向かう。彼の目的地である店は東口を出てすぐだ。だが。
「あーうん、そう。今でたとこ。……うん、もうすぐでそっち着く」
改札を出てすぐ、一人の女が立ち止まって電話をしだした。かなり高いヒールを履き、手に持っているポーチはスマホがかろうじて入るほどの大きさしかない。彼女は周りに目もくれず、声もはばかることなくしゃべり続けている。改札を抜けていく者はいらだった視線を向けながら避けていくのみ。……だが、橋本は違った。
「どけよ」
わざとらしく右肩をぶつける。バランスを崩した女は、その不安定な足元も相まってすぐにその場に倒れこんでしまう。勢い余った結果スマホは投げ出され、タイルの上に落ちる。案の定、画面はひび割れていた。
「は⁉何なの⁉」
橋本によって転ばされた女はその場で声を張り上げ、背を向ける橋本を怒鳴りつける。だが、橋本は足を止めない。周りを歩く者達も、関わり合いになりたくないのか、地面に座り込む女に手を貸すことすらなく、隣を通り過ぎていく。
「ちょっと、待ちなさいよ⁉あんたのせいでスマホの画面割れたんだけど⁉弁償して!」
どこにそんな能力を隠していたのか、女は素早く立ち上がってスマホを拾い上げ、走って橋本の肩を鷲掴んだ。橋本は躊躇うことなく腕を振るって振り払う。
「知らねえよ。改札の出口で突っ立って電話なんかしてるのが悪いんだろ。少しは頭を使え」
「他の人は避けてんの見てたんでしょ?なんであんたは避けないの?」
「何故俺が避けなければいけないんだ。……それもお前なんかのために」
「……このっ!」
女は、橋本よりも橋本の目に怒りを覚えたのだろう。彼から向けられた、まるで糞に群がる蠅を見るような見下された目。女にはそれが耐えられず、ついにその右手を握りしめて振るった。その拳は橋本の左頬を殴りつける。彼は何も言わないが、女はさらに火が付いたように言葉をまくしたてる。「あんたが悪い」、「お前が悪い」、「責任を取れ」……。ついに橋本が動いた。
「死ね!」
橋本もまた右手を握りしめ、女の顔面目掛けて拳を振り抜く。女は自分が殴られると考えていなかったのか、碌に防御もできずにもろに喰らった。そのまま背中から倒れこんでいく。わずかな間、彼女は自分が何をされたのか全く理解できなかった。だが、顔面に与えられた痛みが彼女の意識を引き戻した。怒りに油が注がれ、さらに燃え上ろうとする。だが。
「調子乗んなよ女ごときが!殴られねえとでも思ったか⁉」
橋本は床に倒れこむ女に対し、蹴りの追撃をかます。女は身を守ろうと丸まるが、橋本は靴のかかとを使って全力で踏み込んだ。女は痛みを受け、声をあげる。だが、それがさらに橋本の怒りに触れた。
「てめえが先に調子乗ったんだろうが。自分の行動の責任ぐらい自分で取りやがれ。生きてて恥ずかしくねえのかよ」
橋本はとどめの一発として床に寝転がる女の顔面に蹴りを入れ、その場を去った。女はただ怒りと痛み、そして辱めを受けたという事実で涙を流していた。……その一部始終を見ていた者達は、誰一人として警察に通報しなかった。
馬鹿な女を痛めつけた後、橋本は浮足立った様子で、駅前の中古販売店へと向かっていた。……彼は女が嫌いだった。就学においても就職においても、専用の枠を用意してもらわなければならないほど知能が劣っているのに、偉そうに声をあげるのが気に食わなかった。奴らは女であるという事実だけで得をしている。彼に言わせればそれはズルだ。……本来社会とは、もっと理不尽で冷たいものなのだ。彼自身が経験したように。それを、性別などというどうしようもない理由一つで避けられるとあっては、ただの苦しみ損ではないか。であればこそ、彼は躊躇うことなく、女に暴力を振るう。社会の厳しさを知る者が「教育」を施すだけに他ならない。
「……へっ、ざまあみやがれ馬鹿女が。身の程を知れよ」
彼は大きく股を開き、振り回すように腕を振って駅前の道を歩く。胸の内にたまっていた鬱憤は昨日の殺しで粗方吐き出していたが、今朝父親だった者からの電話を受け、またもや鬱憤がたまっていたのだ。女がサンドバッグになってくれたおかげで、彼の気分は晴れ渡っていた。我慢できずに口笛も出てしまう。たまにすれ違う者は、橋本に怪訝な表情を向けるが、今の彼は気分がいい。向けられた視線には応えることなく、目的地まで歩く。
「さあてと。面白そうなゲームはねえかなっと……」
中古販売店に付いた橋本は、足早にゲームコーナーまで向かう。ずらりと並ぶ商品を前に、彼は人差し指を差し向けながらどれがいいか視線を滑らせる。じっくり三十分悩み、気に入った物を何個か購入した。
もうこれ以上ここに用はない。橋本は一時間足らずで来た道を戻り始めた。駅の前は先ほどまでの騒ぎが嘘だったかのように静かになっており、彼が少し危惧していた、「警察に声をかけられたりするのではないか」という事態は起こらなかった。ただ、一部始終を見ていた駅員は橋本の顔を覚えていたようで、彼が改札を通り抜ける時にジロジロと見つめられたが、彼はそんなことを気にするほどいらだってはいなかった。
「帰ったらやるぞ。新しいゲーム買うのなんてひさびさだぜ、全く」
無事にボロアパートまで帰ってきた橋本は、すぐさま買ってきたゲームのパッケージを開く。真新しいプラスチックの匂いが少しだけ鼻に届いた。早速ソフトをゲーム機に差し込み、起動を待つ。すると。
「……ん?」
ゲームの起動よりも早く、例のスマホが通知を知らせる。RPGのタイトル画面を放置したまま、橋本はスマホを手に取った。
『こんにちは』
『早速で申し訳ありませんが、次の仕事の話です』
『明後日、午後十時。またあの場所にお願いします』
『お渡しした鞄と中身はお忘れないよう。返信は不要です』
「……勝手だな。まあいいか。次はいくらもらえるんだろうな」
橋本はテーブルにスマホを置き、代わりにゲームのコントローラーを握る。そして、待ちに待ったゲームをプレイし始めた。
「大友先生は、もう田畑を見限ったようです。すでに次の協力者である宮本と連絡を取っているようで」
「……そのようで。こちらでも、動きは把握しています」
橋本が連絡を受ける一時間ほど前、とあるマンションの一室に、またもや謎の男たちが集まっていた。
「では、次のターゲットは」
「そうですね。宮本になるでしょう。これで大友も諦めてくれると良いのですが。……それは無理でしょうね。今までにない稼ぎを見逃すほど彼は愚かではないのですから」
「……しかし、どうなさるのです。前のように人手は集めていないのですよ。連絡を取れるのは、あの時のBとCぐらいしか……」
部下の男からの問いかけに、「社長」は顔色一つ変えることなく答える。
「B……。橋本君でしたか。彼に連絡を」
「えっ⁉彼にですか?しかし彼は……」
「大友を諦めさせるためには、徹底的にやらなくては。……彼に、自分がやっていることの愚かさを理解させなくてはいけませんから。……彼が悪いのです、私たちは仕方なくこのような手段を取るしかないのです」
彼は自分に言い聞かせるようにつぶやく。部下たちは「社長」の必死の物言いに、何か執念のようなものを感じていた。
二日後、午前九時。橋本は新たに手に入れたゲームのプレイに熱中し、寝食も忘れて画面にかじりついていた。だが、ついに体力が底をつき、泥のように眠っていた。のどの渇きを覚えて目を覚ました彼は、枕元に置いていたスマホに手を伸ばす。
「九時か。……そういや、今日は仕事の日だったな。どうせ夜遅いし、もう少し寝るか」
ペットボトルの中に入っている水を口へと注ぎ込み、彼は今一度敷布団へと寝転がる。おおよそ一般人とはかけ離れた生活。今までは冷遇ゆえに。そして二日前からは手に入れた大金ゆえに。……彼はすぐに眠りについた。今までは将来の不安から逃れるために。これからは将来の安泰に心が休まっているがゆえに。今まで社会から与えられてきたストレスから解放されたためなのか、橋本は今までにないほど深い眠りについていた。夢を見ることすらない、深い眠り。そこから彼が目を覚ましたのは、二度寝をすると決めてから七時間後のことであった。
午後四時。空腹と喉の渇きで目を覚ました橋本は、眠け眼をこすりながらデリバリーの注文をする。適当に注文を済ませると、彼は真っ先に卓上のノートパソコンに手を伸ばした。検索サイトのボックスに打ち込んだのは、「今日のニュース」。ふと気になったのだ。昨日、自分が手を染めた殺しが、バレてしまったら。警察はどこまで調べているのか。
「……あった。……『犯人は闇バイトによって集められた者ではないか』ね……。こりゃ、警察は何もわかってねえな。まあ、そりゃそうか。証拠になりそうなもんは念入りに処分したからな。……あ。『犯人は犯行後、被害者宅のトイレを使用した可能性がある』か……。やばいか?もしかしてそこからDNAを……。いや、警察に俺のDNAデータはねえ。もしトイレからDNAが拾われても、俺にたどり着くことはねえはずだ」
思いがけない事件の新情報に、焦って口数が多くなる橋本。そのせいか、注文したデリバリーが届いたことにも、すぐには気づけなかったようである。トイレに行っていたと言い訳をして、届いた食事を受け取る。頼んだのは、ネット広告で嫌というほど見た牛丼。このご時世に値下げという判断で業界を戦おうとしており、誰でも手に取れることを売りにしていたが、橋本は例外だった。見る度に自分が除外されているようで嫌な気分だったが、今日ついに、ようやく仲間外れをやめてもらえた。
「安さの割に結構うまいな」
あまりの空腹さから、瞬く間に牛丼の大盛りを平らげた橋本は、容器をゴミ箱に押し込み、ネットサーフィンを続ける。……存外というべきか、彼は政治に強い興味があった。……いや、敵意があったというべきだろう。自分の今までの境遇は政府の悪政によるものだと信じて疑わず、隙あらば政府の批判を独り言ちる。そのため、現政府を批判するために、情報収集は欠かしていなかったのだ。「仕事」も大金も手に入れた今なら、もうそんなことをする必要もないだろうが、一度体に染みついた癖というのは、一朝一夕ではどうにもならないというものだ。
「……『大友議員により推し進められていた政策、協力者の死により頓挫か』……。どうせ死んだのはジジイだろ。寿命近い奴を協力者にするなって、馬鹿じゃねえのか?」
橋本は老人に対しても恨みを募らせていた。高い税金、社会保障費は後先短い老人たちに使われていく。それは、金をドブに捨てることと変わらない。老人が調子に乗って世の中に蔓延る分、ドブに捨てる方がマシだ。……彼はそう考えていた。
「大友って奴いくつだよ……。七十八⁉もう十分だろ、早く死ねよ。いつまで生きてんだこのジジイマジで。で、まだ何かやろうってのかこいつは。はあ、元気なもんだねえ。やっぱり金持ちってのは違うんだなあ。国民から金を盗み取って生きてる奴は面構えが違うわ。『憎まれっ子世に憚る』とは本当によく言ったもんだ」
ノートパソコンのそれほど大きくない画面を前に、つばを吐きかける勢いで口汚い言葉を続ける橋本。誰にも聞かれる心配がないため、それはさらに加速する。……だが。
「……やめた。考え直せ。俺は今、二百万持ってんだ。それに、今日も『仕事』がある。いちいちこんな奴に構ってる理由なんかねえじゃねえか。どうせ俺はほとんど納税しねえし、関係ねえよ。……よし、やめた」
画面の前で握りこぶしを作り、自分に言い聞かせる。そして乱暴にノートパソコンを閉じ、代わりにゲーム機の電源を入れた。
四時間後。橋本は着替えを終え、ボロアパートを出ていた。肩からは鞄を下げ、身なりは黒ずくめ。外はすでに真っ暗で、人通りも少ない。誰かに見られる心配はないだろう。彼は弱く輝く星を眺めながら、人目に付かないよう裏路地を歩く。彼の住んでいる地域から新宿まではかなりの時間がかかる。彼は帰宅ラッシュが過ぎた電車に乗り込み、適当な席に腰を下ろした。電車内は静かで、わずかに伝わってくる揺れがかえって心地よい。ぼうっとしているうちに船をこぎ始めた橋本だったが、スマホの着信音で意識を取り戻した。彼は一瞬迷ったが、どうせ周りにはほぼ乗客もいない。すぐに電話に出た。
『今どこですか?』
「電車の中だ。今新宿に向かっている途中」
『そうですか。……そう言えば、前の連絡で伝え忘れていたことがありましてね』
「ああ、そうか。……それで、忘れた事ってなんだ?」
『今回の仕事は君一人でやってもらいます。協力者を探す時間がなかったので。構いませんか?』
「やることは変わらないんだろ。なら構わねえ。ただ、報酬は弾んでもらうぞ」
『……三百万出しましょう。具体的な仕事の内容は、向こうについてからということで。それでは、頑張ってくださいね』
「社長」からの激励を最後に電話は切れた。橋本は暗くなった画面を見つめながら、口角が釣りあがるのを抑えていた。
「……三百万……。駄目だ、抑えろ……」
前と合わせて、合計五百万。この金額は、大卒の人間がそれなりの企業に就職し、さらにそれなりの年数勤続しなければ年収として得られない額だ。それが、今の彼はたった二日でそれを手に入れられる。……もはやまともに働くなど馬鹿のやることだ。橋本は結局抑えきれなかった興奮を、真っ暗な電車の窓に映していた。
午後九時三十分。二度ほど電車を乗り換えた橋本はようやく新宿駅までたどり着いた。あとは、前と同じように改札に一番近いベンチまで向かえばいいだけだ。改札を出て、記憶を頼りにベンチの方へと顔を向ける。すると、すでにそこには誰かが腰かけていた。その人物は橋本からの視線に気づいたのか、じろりと橋本を睨みつけ、すぐに先ほどまでの身をかがめたような姿勢に戻った。
「……Bだな」
橋本が近づくと、ベンチに座っていた男がいきなりそう言った。よく見ると、その男は前に橋本達に「仕事」の指示を出していた助手席の男だった。彼は姿勢を変えず、ぼそぼそと周りに聞かれないように話す。
「下の広場の入り口に車を停めてある。あの時と同じ、黒いワゴンだ」
橋本が下をのぞき込むと、彼の言葉通り黒いワゴン車が停まっていた。まるで橋本をじっと待っているように見える。
「俺がこれから下に行く。二分経ったらお前も降りてこい」
彼は橋本の返事を待たずにベンチから立ち上がり、足早にエスカレーターの方へと向かっていった。橋本はベンチに腰を下ろし、スマホの画面で時刻を確かめる。今は九時三十三分。三十五分になれば、橋本を腰をあげなければならない。
「……誰も見てないか」
つい周りが気になり、橋本は周囲を見渡した。そもそも駅前を歩いている人自体が少ない。その上、彼らは酔っているかそれとも連絡でも取っているのか。僅かであっても橋本に視線を向けることなどなかった。……彼ははっきり言えば不細工だ。そんな人物を好きで視界に入れたい者など、よほどの物好きでしかない。
「時間だ」
午後九時三十五分。約束の時間である。橋本はベンチから立ち上がり、先ほどの男と同じようにエスカレーターで下まで降りていく。誰ともすれ違うことなどない。二十四時間営業のコンビニだけが、真っ暗な周りを照らしていた。だが、そこから漏れる光は橋本には届かない。明るく照らされたおかげで、暗闇はさらに暗さを増す。店の中にいる者達には、橋本の姿など全く見えていないだろう。……仮に見えていたとしても、覚えていたくなるような好ましい見た目ではないが。
「あれだよな」
橋本はそのまま広場を抜け、入り口に止められている黒いワゴンを視界に収めた。彼がさらに近づくと、後部座席へのドアが勝手に開く。助手席の男はこちらを見ているのか、夜の闇ではそれすらわからない。彼は黙ってワゴン車に乗り込んだ。ドアは勝手に閉まり、静かに走り出す。
「仕事の話をしよう」
助手席の男が口を開いた。橋本は後部座席に大股を開いて座り込んでいる。
「今度の仕事は、前と少し違う。……これを見ろ」
差し出されたのはスマホの画面。そこに映っていたのは一枚の紙だった。字は細かく、読むことはできない。
「なんて書いてあるんだこれは」
「お前が詳しい内容を知る必要はない。……『誓約書』。ここにそう書いてある。お前はこれを探し出して、持って帰ってこい」
「どこに置いてあるとか、詳しい情報はないのか?」
「ない。探せ」
橋本はその言葉に舌打ちで答えた。助手席の男はその代わりとでも言うようにスマホの画面をスクロールする。次に表示されたのは家の間取りだった。
「代わりにこれをやる。参考にでもしろ」
玄関からまっすぐ三十メートル廊下が伸び、いくつもの部屋が廊下に繋がっている。廊下は途中で左右に分かれ、右側の奥は便所、左側の奥は脱衣所と浴室になっていた。七人か八人の大家族でも狭さを感じないほどの広さと部屋数を誇っている。橋本はじっくりとそれを見た後、ため息をついた。
「……一人でこの家の中から一枚の紙を探し出せって?」
「できないっていうならそれでいい。今ここで降ろしてやる」
「……わかったよ、やればいいんだろ」
「着いたぞ」
運転手の男が短くそう言った。後部座席のドアが自動で開く。
「今日は時間の制限はなしだ。必ずあの紙を持ってこい。……手段は問わない」
助手席に座る男からの言葉を背に受け、橋本は鞄を肩にかけて車を降りた。目の前にあるのは、間取りを見せられたあの家。明かりはどこにもついていなかった。
「さて、どこから入るか」
鍵がついていない門を通り抜け、橋本は玄関までの道をうろうろと歩く。気を付ければ石畳の上でも足音は出ない。彼は玄関の引き戸をじっと見ながら考えていたが、正面から入ることは諦めた。
「やっぱり庭に面した部屋の窓から入るのが定石だよな。……雨戸か。雨なんか降ってねえのに」
橋本が目にしたのは縁側だった。きっちり閉められた雨戸が、住んでいる者の防犯意識の高さを教えてくれている。手をかけてゆっくり引くと、雨戸はわずかな抵抗を見せながらも開いた。経年劣化で滑りが悪くなっているのだろう。
「……ここから入れるな。さて、お邪魔しますよ、と」
人がぎりぎり通れそうな隙間を作り、身体を横にしながらねじ込むように隙間を通る。家に入った彼を出迎えたのは、廊下の隅に置かれた行灯だった。それを見た橋本は舌打ちをした。
「行灯、ねえ。……こんな面倒そうなものを使いやがって。やっぱり金持ちは気に食わねえな」
彼は足元でぼんやりと周りを照らす行灯を睨みつけ、廊下を進んだ。扉に耳を当て、中に人がいないことを確かめて扉を開ける。
「……書斎。紙があるならここだよな」
橋本が立ち入ったのは書斎だった。四方を本棚が囲み、部屋の真ん中には大きな机と革の椅子が置かれている。彼はゆっくり部屋の扉を閉め、机へと近づいた。
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