第二話
前回のあらすじ
社会から見捨てられた若者、橋本。日課のアダルトサイト巡回中に個人情報が漏洩してしまい、「社長」と名乗る怪しい人物から仕事を頼まれる。
とある家に隠された金庫の中身を盗み出せと命令を受けた橋本は、顔も名前も知らない「同僚」と共に、目的の家へと向かうことになった。
誤字脱字等、ご容赦ください。
午後十一時三十七分。事態は急変する。
「誰だお前は!」
突如、橋本とAの背後から声がかけられる。声の方へ懐中電灯を向けると、写真で笑っていた老夫婦の内、夫の方が姿を現した。寝ているときにトイレに立ったか、それともわずかな物音を聞きつけたか。いずれにしろ、面倒なことになってしまった。
「何をしているんだ⁉警察を呼ぶぞ!」
「ああっ!クソッ!」
こうなれば、すべきことは決まっている。橋本は鞄からバールを取り出し、老人の頭を殴りつけた。うめき声をあげて倒れこむ老人と、その様子を見て呆気に取られているA。だが、橋本はおびえることなどなかった。一度大きく深呼吸をして、指示を出す。
「……早く椅子持ってこい。こいつを縛り付ける。……こうなったら、こいつから金庫のありかと暗証番号を聞き出してやろう」
「わ、わかった」
Aはまさかここまでやることになるとは考えていなかったのだろうが、橋本の殺気に押され素直に指示に従った。その時、騒ぎを聞きつけたのか上階から足音が聞こえてくる。
「おい、どうした?何か……。何やってんだ⁉」
「うるせえ、静かにしやがれ」
「いや、さっきの音の方がデカかったって……。何やってんだって聞いてんだよ。そいつは、ここの住民だろ?」
「……気づかれたからな。騒がれても困る」
「困るって……。こんなんマジかよ……」
Cはどうにも理解が及んでいない様子だったが、彼もまた橋本の殺気に負けてしまった。……するといきなり、何かの電子音のようなものが響く。それを聞いた橋本はすぐにその場から動き出した。
「おい、どうした?」
「こっちか」
彼はリビングの向かいにある和室のふすまを開けた。そこには敷布団の上で受話器を握りしめた老婆がいた。彼女はあの老人の妻だろう。彼はすぐに受話器を取り上げ、バールで叩き壊す。そして泣きわめこうとする老婆の口を左手で塞ぎ、「テープ出せ」とCに指示した。
「……おい、年寄りの女にも手を出すのか?さすがにまずいって……」
「黙ってろ。隣の家に気づかれる」
彼はテープで老婆の口をふさぎ、両手両足も固定する。そして、足を持って引きずり、リビングまで連れて行った。
「こいつはこのまま寝かせておくか」
彼は老婆をフローリングに寝かせたまま、Aが椅子に縛り付けた老人の方へと近づいた。意識はあるようで、彼が目の前に立つと「今すぐこれをほどけ」と強気な態度であった。
「この家には金庫があるらしいな。場所と暗証番号を教えろ。そうしたらほどいてやる」
「だっ、誰がいうものか。……助けてくれえ!」
老人は隣人に助けを求めるように、その場で声を張り上げた。……彼は少し、橋本たちを舐めてかかっていたようだ。
「うるせえ!」
橋本は握りしめていたバールで老人の顔を殴りつける。正面から思いきり殴りつけたため、老人の鼻と歯が折れ、みっともなく血を流していた。
「……口をふさげ。違う方法を試してみるとしよう」
橋本は老人の口にガムテープが貼られたことを確かめると、床に寝かせていた老婆へと近づいた。彼は老婆の髪を鷲掴みにして頭を持ち上げ、勢いよく彼女の口をふさいでいたガムテープをはがす。
「あっ!痛い!やめて!」
「うるせえよ。お前が言うべき言葉はそれじゃねえ。……おら、愛しの旦那様を説得しろ。『このままだと私殺されちゃうわ~』、『早く金庫について話して~』ってよ」
老婆は痛みに耐えかね涙を流している。だが、橋本はそれを気に留めることなく、「早くしろ」と彼女の頭を揺さぶった。
「ほら、早くしないと旦那が死んじまうぞ。顔面から血がダラダラ垂れてやがる。早く病院に行かないと、手遅れになるかもなあ」
「……た、助けて……。こんなことやめて……」
絞り出されるように紡がれた老婆の言葉。だが、橋本にとってそれは、自らの逆鱗に触れる言葉だった。
「助けて……。助けてだと⁉てめえ何様のつもりでほざきやがる!」
彼は老婆の髪から手を放し、勢いよく立ち上がる。そして、チェストの上に並べられた写真立てを一つ、手に取った。それは老夫婦が写る山での写真だ。
「てめえらは俺がなんでこんなことしてるか知らねえだろ。……てめえらみてえな後先短いジジババ共がいつまでもこの世にこびりつきやがってな、介護に金がかかるんだよ。で、その金はどっから出てると思う?俺たち若者から搾り上げられてんだ。……俺は、俺たちは、てめえらのせいで貧乏暮らしなんだよ。何が助けてだ。……その日食う飯に困ったことが一度でもあったか?減り続ける預金のストレスで胃に穴をあけたことは?世間から見放されて、ただ部屋の中で蹲ることしかできなかったことが何度あった⁉」
橋本は、手に持った写真立てを大きく振りかぶった。
「それはお前の言葉じゃねえ!助けてほしいのは俺なんだよ!てめえらが呑気に山登りしてる間、俺は死にかけてたんだ!」
ガラスが砕け、写真立ての木枠も砕ける。写真立てを顔面に叩きつけられた老婆は、ガラスの破片がわずかに刺さった顔であうあうと泣きながら、「助けて」と繰り返していた。
「お前らだって、俺が死にそうなとき一度も助けてくれなかっただろ?で?なんでそんな奴を俺が助けなきゃならねえ。……馬鹿言ってんじゃねえよ殺すぞ」
彼は床に落ちた写真を拾い上げ、何度も破る。そして、それを紙吹雪のように老婆に投げつけた。橋本は老人の方へと振り返る。
「言っておくが、殺すって言葉は冗談じゃねえ。俺は冗談が嫌いなんでな。……人一人殺すには、これだけでも十分だしな」
橋本はバールを右手で弄ぶ。脅された老人だけでなく、仲間であるはずのAとCすらも、彼が放つ殺気に気圧されて、ただ立ち尽くすだけであった。
「わかったらさっさと金庫の場所、暗証番号も吐け。俺は気が短いんだよ。……あと二分やる。その間に決めろ。金庫のありかを吐くか、愛しい愛しい妻を目の前で見殺しにするか」
橋本の言葉に誰よりも早く食いついたのは、まさかのCだった。彼は橋本が握っていたバールを奪い取ろうとする。
「何のつもりだ?」
「いい加減にしろ!人の命を奪うことがどれだけ罪深いことなのか、お前にはわからないのか?」
「知らねえよ。どうでもいい。……俺が死にそうになってた時、誰一人として俺に救いの手を差し伸べようともしなかった。そんな奴らを殺して、罪悪感が芽生えるとでも思ったか?……元はと言えば悪いのはこいつらだろ?金庫のありかは吐かねえし、『助けて』なんて舐めた口をききやがる。俺が望んでやってるわけじゃねえ。全部こいつらが蒔いた種じゃねえか」
「だからって、こんなこと許されるわけが……」
「しつけえな!じゃあ!俺はなんで誰にも助けてもらえなかったんだ?若い男が一人死んでもどうでもいいのか?……そうだよな、そうなんだよな。社会で生きてる奴らはそう思ってる。全員俺の顔を見れば絶対にこう思う。『なんでこんな奴を助けなきゃいけないんだ』ってな。顔は良くねえスポーツもできねえ、金もねえ仕事もねえ。……あるのは、恨みだけだ。俺を見捨てる選択をした社会に対する恨み。……ずっと夢想していた。いつかこうして、イラつく奴をぶちのめせる日が来ることを!」
橋本はCの手からバールを取り返し、彼の頭を殴りつけた。まさかCは自分が殴られるとは思っておらず、一撃を受けて床に倒れこむ。殴られた部分は肌が裂け、血が流れ出ていた。
「……血、血が……」
「お前がうるせえからだ。そこで黙ってろ。……見てたよな、俺が人を殴ることに躊躇いがねえってこと。別にいいんだぜ、ここでお前を殴り殺してやっても。どうせ家中探し回ればいつか見つかるだろうしよ。……よく考えろ」
橋本は脅し文句を口にしながら、チェストの上に置かれているもう一枚の写真立てを手に取った。家族全員で映っている写真である。
「金庫の中に何が入ってるかなんて知らねえけどよ。それは命を張ってまで守るべきものか?……遺される家族を思え。自分の息子、娘、そして孫を。無暗に悲しませたくはないだろう?……俺は別に、お前の命なんてどうでもいいが」
椅子に縛られた老人は、穴が開くほどの力んだ視線で橋本が持つ写真を凝視していた。彼の頭の中では、金庫の中身と自分の命を天秤にかけていた。満面の笑みを浮かべる自分の孫が、もし自分の死体を見たとしたら。……その悲しみはどれほどだろうか。息子夫婦と娘夫婦にも迷惑をかけてしまう。きっと五十年来の友人も悲しみに暮れるに違いない。
「……金庫は、寝室の畳の下にある。……暗証番号は0918だ」
「それでいい。……A、中身を確かめてこい。俺はこいつを見張る。大声を出されても困るからな」
「……わかった。だが、やりすぎるなよ」
Aは橋本に忠告を残し、リビングの向かいにある寝室へと消えて行った。橋本はその背中を見送ると、椅子に縛られた老人の方へと振り返る。
「俺たちが金庫の中身を頂いた後、お前はどうする?……どうせ、警察に通報するんだろうな。顔も見られちまったしなあ……」
橋本はそう言いながら右手に持っていたバールを強く握りなおす。老人はその仕草だけで、これから何が行われるかを理解した。「や、やめろ!」と声をあげ、縛られた体を揺さぶる。椅子の足が床とぶつかり合い、ガタガタと騒がしい音を立てた。
「騒ぐんじゃねえ!」
橋本はバールを床と水平に振りぬき、老人の右頬を殴りつけた。もともとガタガタと椅子をゆすっていたため、バランスが崩れるのは容易だった。そのまま床に倒れこみ、さらに騒々しい音を立てる。そしてそれがまた、橋本の怒りを加速させた。
「音立てんなって言っただろ!」
老人の腹部に躊躇うことなく蹴りを入れる橋本。老人は激しくせき込んだかと思えば、消化しきれていない夕食が口からあふれ出てしまっていた。その光景を見ていることしかできない老婆は、ただ涙を流していただけだった。Cも当たり所が悪かったのか、床にうずくまったまま起き上がることもない。Aは金庫の中身を取り出すのに手間取っているのか、まだ戻ってこない。……この場に、橋本を止められる人間は存在しないのだ。
「……殺すか。顔を見られたし、声も聞かれちまった。このまま俺たちが帰っても、警察に通報するだろうしな。……もとはと言えば、お前らが悪いんだぞ。黙って俺の言うとおりにしておけば、縛られることもないし殴られることもなかったんだ。恨むなら自分の愚かさを恨むんだな」
橋本はバールを大きく振りかぶる。狙いは老人の頭に定められた。当の本人は頬を殴られ腹を蹴られたダメージからか、もはや抵抗の意思すら見せなくなっていた。ぐったりと床に倒れこみ、視線だけが橋本を見上げている。
「じっと見つめられてもやることは変わんねえよ。お前を殴り殺す。隣で寝転がってる女もだ。……天国なんかに行けると思うなよ、てめえらは悪人だ」
「……ま、待て……。やめろ……」
誰かが橋本の右足首を掴む。背後に振り向くと、頭から血を流した状態のCが、橋本の足首を掴んでいた。彼は身体を引きずりながらも橋本の身体を使ってよりめきながら立ち上がる。腰にしがみつかれた橋本は、左肘でCの顔面を打った。
「離れろ!」
「……やめろ。これ以上は……。金庫の場所は、もうわかったんだろ?なら、これ以上暴力を振るう理由なんて……」
「しつけえな!」
橋本はもう一度肘打ちを放ち、Cを振り払う。そして、壁にもたれかかるCに対し、橋本は蹴りを放った。Cの胸部に入った蹴りは彼の肋骨を砕き、Cを動けなくさせてしまう。橋本は大きくため息をつくと、右手に握りしめていたバールを振りかぶりなおした。定められた狙いは、Cの頭だった。
「まずはお前からだ。……俺を恨むなよ、邪魔したお前が悪いんだ」
バールが振り下ろされる。何かが砕ける固い音と、何か柔らかいものがつぶれる不快な音がリビングに響く。頭のてっぺんから与えられた衝撃により、Cの眼球はわずかにこぼれ出て、鼻や目から大量の血を流し始めた。
「……次はお前らだ。見てたよな、俺は躊躇しない。……自分を恨め。『運が悪かった』とな!」
橋本は間髪を容れず、床に寝転がる老人の頭にもバールを振り下ろす。Cよりも年を取っているからか、その頭蓋骨は脆くなっていた。Cよりもいともたやすく砕け、その先にあるものも叩き潰してしまう。目の前で夫を殺された老婆は、より一層声をあげて泣いたが、それは橋本の怒りを呼び起こす行為でしかなかった。
「静かにしろって、何度言ったらわかるんだ!」
老婆の頭蓋骨も砕かれた。さんざん流していた涙が赤く染まり始め、フローリングを濡らしていく。三つの躯が出来上がったリビングの中で橋本は一人、血が付いたバールを見つめて立ち尽くしていた。
「……これは、持って帰るしかないか」
彼はバールをキッチンのシンクで洗い、水気をふき取って鞄の中へとしまう。そのほか何か忘れ物がないか確かめた橋本は、便所へと急いだ。
「……おい、B。どこ行った?」
橋本が便所に入ってすぐ、Aが橋本を呼ぶ声が聞こえてくる。橋本は便座に腰掛けたまま返事をした。
「ここだ」
「……何やってんだ?あいつらはどうした」
「あいつらなら黙らせた。……何やってるって聞かれてもな、便所でやることなんか限られてるだろ、小便だよ」
それからわずかに経ち、橋本は便所から出て来た。Aからの「何のつもりだ」という質問に答える前に、洗面所で手を洗う。タオルで丹念に水気をふき取り、そのタオルを鞄の中へとしまった橋本はようやく答えた。
「……人を殺したからかな。どうしても小便が蚊満出来なかった」
橋本の言葉に対し、Aは何も返さなかった。ただ話をそらすように、「金庫の中身は手に入れた」とだけ呟くように言った。
午後十一時四十七分。橋本とAは家から出て、外に停まったままの黒いワゴン車へと乗り込んだ。
「……金庫の中身は手に入れたな?」
助手席に座る男が言う。Aは「ああ」と短く返事をして、鞄の中にしまっていたものを取り出した。橋本は金庫の中身を紙幣の束か金塊なのではないかと考えていたが、そうではなかった。それは、ただの封筒だった。紙幣を入れられる程度の大きさだが、その厚さは心揺さぶられるものではない。助手席の男は奪い取るようにそれを受け取り、乱雑に封を開く。……やはり、中に入っていたのは何かの書類のようだった。
「……金庫の中にあったのはこれだけか?」
「ああ。これ以外には何も入ってなかった」
「……そうか、よし。……一人足りないようだが」
助手席の男はCが戻ってこないことに気づいたようだ。Aと橋本に尋ねるが、Aは「知らない」と返す。Cを殺した橋本は「あいつはビビッて逃げた」と話した。……家の前にはずっと車が停まっていた。もし本当に逃げ出したのなら、彼らがすでに見つけているはずである。……だが、彼らは橋本の嘘を咎めなかった。ただ一言「ハズレだったか」とつぶやき、運転席の男に「出してくれ」と頼む。その後、黒いワゴン車はゆっくりと動き出した。……それから数十分後、彼らは新宿駅の東口で降ろされる。
「今日のことは誰にも話すなよ。もし話したりすれば、お前らの家族がどうなるか……」
「……誰にも話すわけないだろ。せっかく仕事にありつけたんだ。自分から手放すなんて馬鹿な事しねえよ」
「お前。……イカレてんな」
助手席に座っていた男は橋本にそう言い残し、そのまま車で去っていった。Aも「じゃあ、二度と会わないことを祈る」と言って駐輪場の方へと向かっていった。その場に一人残された橋本は、改札に向かいながら周りを見渡す。ここを発ってからそれほど時間が経っていないせいか、まだ駅前は居酒屋から漏れ出た喧噪が残っていた。橋本は足を速める。ちんたらしていると、電車に乗り遅れてしまうからだ。
「……帰ったら久しぶりに風呂に入るか」
ここ最近、彼は湯船に入らずシャワーを浴びるだけだった。今日はなんだかとても気分がいい。普段なら面倒くさがった入浴もその気になっていた。
「あー わかってくれとは言わないが そんなに俺が悪いのか」
すっかり気分を良くした橋本は、つい最近ハマった歌を口ずさむ。電車内だが、乗客はそれほど多くない。その上、酔っぱらったサラリーマンか気の弱そうなオフィスレディしかいない。彼は人目をはばからずにそのまま歌い続けた。
無事、家に帰った坂本は宣言通りに久しぶりの湯舟に浸かった。その最中、彼は久しぶりに鏡を見た。両親から勘当を言い渡されて以降、鏡に映るのは疲れ切った不細工な顔。それを見る度に、彼は親を恨んだ。「何故こんな顔で産んだのか」と。顔さえよければテレビでよく見るような、男性アイドルとして生きていけたのかも知れないというのに。……そんなことを考える度、彼の心は荒んでいった。そうしているうち、きっかけとなる鏡を見ないようになった。外出の時には窓ガラスもできるだけ見ないようにした。雨が降った次の日は外に出ないようにした。水たまりに映る自分の顔は、思っていたよりも滑稽だったからだ。
「……なんだか、マシに見えるかもな」
ただ、今日この瞬間だけは違った。まるで憑き物が落ちたかのように、橋本の顔はさわやかさにあふれていた。眉間に酔っていた皺も消え去り、目つきも落ち着いている。
「はあ……。もしかして、ニュースになったりすんのかな」
彼は熱い湯を顔面に浴びせ、手のひらで水滴を拭いとる。そのままタオルで全身の水気をふき取り、風呂から上がった彼は床に就こうとした。だが、頭が妙に冴えて寝られない。心臓は落ち着いている、動悸は激しくない。しかし、全く持って眠くないのだ。
「やべえ、寝れねえな。……まあ、今日ぐらいはいいか。どうせ俺に予定なんてねえし、睡眠時間を気にしなきゃいけないほど高尚な生活をしてるわけでもねえ。……それにしても、あいつらは協力者まで集めて、なんであんな紙を欲しがったんだろうな」
眠れない橋本の思考は、つい一時間ほど前に自分が関わった「仕事」へと向いていた。結局手に入れられたのは封筒に入れられた紙一枚のみ。その程度の物を手に入れるだけで、奴らは二百万という大金を提示してきたのだ。
「あれには、何が書いてあったんだろうな……。はあ、なんか眠くなってきた」
答えが出るはずのない問題を思考するのは、思っていたよりも疲れる行為だったらしい。彼は身体にかけていた掛け布団をかけなおし、目を瞑った。……寝る前の日課にしていた世の中への恨み言は、すっかり忘れていた。
翌日、橋本は部屋の中に鳴り響く着信音で目を覚ました。枕元に置いていたスマホの振動は彼にもわずかながら伝わっている。彼は目をこすりながら手を伸ばし、スマホを手に取った。画面に表示されている文字は「非通知」。だが、彼は気にせずそのまま電話に出た。
「もしもし?」
『まだ起きてなかったのか。堕落しているな。だから就職もできないんだ』
「……何の用ですか、橋本栄治さん」
電話の相手は彼の父、橋本栄治だった。開口一番息子を罵倒するが、返ってきた反応に少しばかり戸惑っていた。
『なんだ、その口調は。まるで他人のように……』
「あんたが勘当を言い渡したんだろ。なら、あんたは他人だよ」
『お前、実の父親に向かってその口の利き方は……』
「うるせえな。言っただろ、他人だよ。……敬語を使ってこない奴に敬語を使う義理はねえ。それよりも、何の用で電話してきた?」
『……まだ間に合うだろう。テレビをつけてくれ』
「そんなもんとっくのとうに捨てたよ。誰かさんのせいで金がねえからな」
『……なら、ネットニュースを見ろ。大体どこのサイトでも大見出しで報じているはずだ』
彼は「めんどくせえな」とつぶやきつつも、父だった者の言葉に従う。面倒だと言って電話を切ったところで、どうせ何度でもかけなおしてくるに違いない。もしくは、住んでいる家まで押しかけてくる可能性もある。そんなことになるぐらいなら、今のうちに従っておいた方がいい。
「何々……。『有名中華チェーンの社長が自宅で死亡が確認された。警察は事件と断定し、捜査を開始した』……。これか?」
『ああ、それだ。……その事件、現場には社長とその妻だけではなく、その二人とも全く関係のない若い男も殺されていたようだ。警察はそれを、闇バイトで揉めた結果ではないかとみているらしい』
橋本は父の言葉を聞きながら、記事の内容に目を通していた。確かに父が言った通りのようなことが書いている。……だが、それが何だというのだ。
「それで?それを俺に伝えてどうしたいんだよ」
『闇バイトに手を出す原因は、大抵が貧困だろう。……まだ職に就いていないお前が、闇バイトに手を出しているんじゃないかと思ってな』
「……くだらねえ。仕事に就けなかったからってさっさと俺のこと見限ったくせに、今さら父親面かよ。……どうだ、息子を利用する自慰行為は。気持ちいいよな、もう二度とできないと思ってた父親らしい行為、『説教』だ!待ちきれなかったんだろ、どうしても説教したかったんだろ。だから朝早くから電話かけて俺を叩き起こした!」
『違う!俺はお前が……』
「俺がなんだ?『犯罪に手を染めないように』とでも言いたいのか?……何様のつもりで口きいてんだ。お前は俺を勘当したんだよ、俺とお前は他人なんだよ。誰がてめえから指図なんか受けるか!二度と電話かけてくるんじゃねえ!」
橋本の父はまだ何か言っていたが、橋本はそれを耳に入れるよりも早く電話を切った。そしてすぐにその番号を着信拒否状態にした。
「クソッ!」
彼は怒りが収まらず、手に握っていたスマホを敷布団の上に投げつける。すると、その拍子で画面が操作され、彼が先ほど父に命じられて見ていたニュースサイトが表示された。
「……これ、昨日の話だよな。……こいつ、社長だったのか。どっかで見た事あると思ったけどよ……」
彼はつい気になり、ニュース記事に改めて目を通した。老夫婦と謎の若い男。計三人が無残に殺されている。……そのわけは、彼がこの世で一番詳しく知っていた。彼は記事の後半に掲載されていた、殺された者の顔写真を見て膝を打つ。そのまま記事を読み進めたが、自分のことはどこにも記されていなかった。彼は一度大きく深呼吸をして布団に倒れこむ。
「……ま、殺された奴らと俺はほぼ面識もないしな、俺が捕まるわけもねえか」
彼の心の引き出しに、罪悪感はもう残っていなかった。親から、社会から、そして福祉から。そのすべてから見放された時点で、彼は人として生きることを諦めた。誰も自分を人として扱ってくれないのだから、これは仕方のないことだ。俺は悪くないんだ。だから、罪悪感は俺に必要ない。……そんな考えが彼の心と頭を支配していた。
「どうするかな……。まだ早いし二度寝でも……」
布団の上に寝転がりながらもう一度眠りにつこうか悩む橋本。すると、彼がベンチの裏から手に入れたスマホが鳴り始める。彼は「今度はこっちか」とつぶやきながら二つ目のスマホを手に取った。
『おはようございます』
『昨日はお疲れさまでした。あなたの懸命な働きぶりのおかげで、大変助かっています』
『報酬はすでに振り込んでおきました。ご確認ください』
『それでは、今後ともよろしくお願いいたしますね。返信不要です』
「……好き勝手言い残していきやがって」
橋本はメッセージアプリの画面を見ながらそうつぶやく。だが、すぐにネットで自分の口座を確かめ、悦に浸るのだった。
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