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春のまにまに童のまにまに  作者:


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現実


 数えきれないほどの人が往来し、店に入ったり、立ち止まったり、走ったりしている。世の中にはこんなにもたくさんの人がいたのかと、上加地は大通りの十字路を眺めながら思った。老若男女、色とりどりだった。


 上加地はその十字路の一角で、ただその往来を見ていた。周りには上加地と同じように、誰かを待っている人がちらほら立っている。別の一角では路上音楽家が、知らない曲を奏でていた。音楽を聴くのなど、久しぶりな気がした。


 しばらくすると、ようやく待ち人が十字路を渡ってくる姿を認めた。十何年ぶりだというのに、一目見ただけで彼女とわかる。

 幼い頃から変わっていない、きれいな顔立ちに上品な雰囲気。しかし髪をまとめ上げ、スーツを着こなしている立ち姿は、経る年月を思い出させた。

 きょろきょろと見回す彼女に向かって、上加地は手を上げる。


「久しぶり、乃木さん――」


 乃木佳乃子は上加地に気がつくと、太陽のような笑顔を見せた。女性に笑顔など向けられた記憶のない上加地は、それだけで心臓が早鐘を打った。


「久しぶりだね、上加地くん! ごめんね、お待たせ」

「いや……急に呼び出して、申し訳なった」


 上加地は額の汗を拭きながら、佳乃子の顔を見ないように下を向いた。


「――時間を作ってくれてありがとう。どうしても、言わなくてはいけないことがあって……ええと……とりあえず、歩こうか」


 上加地は佳乃子にうまく会えるかどうかばかり考えていて、会った後のことまで思い至っていなかった。もちろん女性と二人でどこかへ行った経験もなく、何をどうすればよいのかわからない。

 その上加地の様子を見て、佳乃子は少し考えてから言った。


「ね、この近くに私の好きな喫茶店があるの。紅茶もコーヒーも美味しいし、ソファも気持ちよくて。レコードが流れているから、話し声も隣まで聞こえないと思うな」

「えっと……ああ、うん。ありがとう――」

 

 内心の焦りをごまかしながら、上加地はなんとか礼を言った。喫茶店へ行くということくらい、なぜ浮かばなかったのかと思う。


「じゃ、行こ!」


 佳乃子は明るくそう言って、上加地を促す。道すがら、佳乃子はとりとめのないことを話した。近々の天気の話や桜の開花状況など、みな上加地が応えやすいものばかりだった。


 佳乃子の言う喫茶店は、十字路からほど近くだった。佳乃子の勤め先である百貨店のある大通りからは一本外れた道にあり、落ち着いた雰囲気である。


 ステンドグラスのはめられた扉や暖炉を模した内装が、ノスタルジックでありながら目新しく感じさせる。カウンターにはサイフォンがあり、後ろの戸棚にはたくさんの洋酒も並べられていた。昼は喫茶店だが、夜にはバーに変わる店だった。


 レジ横のレコードはジャズを流していて、コーヒーの香りとともに心地よい空気を作り出している。上加地はコーヒーを、佳乃子は紅茶を注文した。


「ここ、いいでしょ? 仕事で嫌なことがあった日とか、よくここに来るの」


 佳乃子は紅茶を飲みながら言った。上加地はコーヒーの味などよく知らなかったが、佳乃子が言うのならよい店なのだろうと思った。


「――乃木さんでも、嫌なことなんてあるんだ」

「え?」


 上加地がふと口に出した言葉を、佳乃子は思わず聞き返した。


「あ、いや……乃木さんは、悩みなんて何もないのかと――」


 上加地はまた顔を落として、マグカップの中のコーヒーを見つめた。

 早く本題に入らなければならないのに、幼い頃と変わらず純真な佳乃子を見ていると、どんどん言いだしづらくなっていた。佳乃子は何も変わっていない気がする。


「やだな! 私にだって、人並みに悩みがあるよ。もういい年だしね」


 そう言う佳乃子は、少し寂しげだった。マグカップを口元に運び、きれいな所作で紅茶を飲む。その姿には、あの頃にはない憂いがある。

 佳乃子も自分も、もうあの頃とは違うのだと、ようやく上加地は気がついた。もう、二人は立派な大人なのだ。


 上加地は図書室での出来事も、カオルと会ったことも、記憶がすっぽり抜けていた。そもそも早瀬学院に勤めてからのことが、靄がかかったように曖昧だ。

 しかしカオルとの一件の後目が覚めると、憑き物が落ちたように晴れ晴れとした気分だった。そして改めて小箱を見た時、上加地の中にとどめようのない罪悪感と贖罪の気持ちが溢れだした。


「――すまない……」

「えっ? やだ、そんな深刻に謝らないで――ごめんね、暗い雰囲気にしちゃったかな?」


 突然頭を下げた上加地を見て、佳乃子は焦りながら言った。自分の発言で、嫌な気持ちにさせてしまったのかと思った。


「いや、違うんだ。今日……今日は、乃木さんに謝りたくて、ここに来たんだ」


 今なら、きちんと話せると思った。全ての始まりのあの日のことを。


「謝る……?」


 佳乃子はマグカップを置いて、上加地の言葉を待った。


「ああ……そうだ。君に謝りたくて、音羽に連絡を頼んだんだ。今日は来てくれて、本当にありがとう」


 上加地は改めて礼を言うと、鞄の中から何かを取り出した。それは、古めかしい木箱だった。それを佳乃子に差し出しながら、上加地は再度深々頭を下げた。


「……申し訳ない――! 私は、小学校の時、君からこの木箱を盗んだんだ。君の図工の作品があまりにもきれいだったから――その作品の一部を、君が持ってきていた材料の何かを、欲しくてたまらなくなってしまって……」

「この箱……小学校の時の――?」


 上加地の懺悔を聞いて、佳乃子は記憶を手繰り寄せた。


「そう、君の鞄から、私が盗ったんだ……」


 上加地は、絞りだすように言葉を続ける。


「謝ってすむことじゃないとわかっている。この謝罪が、私の自己満足だと言うことも……だがどうしても、どうしても乃木さんには謝らなくてはと……でも、ずっと言えなくて――」


 上加地は言いながら、みっともなく目頭が熱くなるのがわかった。なぜ、これほどまでに時間がかかってしまったのだろう。十数年も経って、自分は全く成長していない。あの日から、一歩も進めていなかった。何かに囚われ、何かをずっと追い求めていた気がする。


「……頭を上げて、上加地くん」


 佳乃子の声は、とても柔らかかった。後ろで流れているレコードよりも、人を心地よくさせる音色だ。


「それから、謝らなくちゃならないのはそれだけじゃなくて……その後この箱を返そうとして、君の家に忍び込んだこともあるんだ。結局返すこともできなかったんだが……本当にすまない……申し訳ない……」


 ものを盗んだ挙句に勝手に家に侵入したなど――いくら佳乃子でも怒るだろう。上加地はそう思って覚悟した。しかし謝る上加地に、佳乃子は笑いかけた。


「言ってくれたら、私の筆立てと上加地くんの、交換したのに」

「……え?」


 予想外の佳乃子の発言に、上加地は間の抜けた声を出した。


「えっと、図工で筆立てを作った時だよね? 懐かしい。上加地くんは、すごくきれいな、まっすぐな作品を作ってたよね」


 上加地は、まさか佳乃子があの筆立てを覚えているとは思わず、驚いて目を見開いた。


「――たしかあの後すぐに引っ越してちゃって、上加地くんとはそれっきりだったね」


 佳乃子は、上加地が差し出した小箱を手に取ってみる。たしかに幼い頃に遊んでいた、自分の木箱だ。貝や花の実などを見つけては、集めて中に入れていた。


「ほんと、懐かしい。この小箱はどうしたんだっけなあ……いつの間にか持っていたような気がする。今思い返すと、小さい頃ってたまにそういう不思議なことがあったよね」


 佳乃子はほほえみながらそう言うと、紅茶を一口飲んだ。上加地は口を開けない。


「私の作った筆立て、褒めてくれてありがとう。だけどあの時――小学生の時、言って欲しかったな。私ね、上加地くんの作品は覚えてるんだけど、私がどんな作品を作ったかは全然覚えてないの。それくらい上加地の作品好きだったんだよ? だから言ってくれたら、上加地くんのと交換したりあげたりできたし、上加地くんがそんなことせずにすんだのに……だからね、これからはちゃんと言って? 今日みたいに、思ってることをちゃんと」


 佳乃子の瞳に、怒りはなかった。むしろ、悲しみがたたえられている。それは、盗まれたことに対するものではない。上加地が罪を背負ってしまったことに対する慈悲だった。


 上加地はこらえきれず、涙が流れた。佳乃子はそっと、ハンカチを差し出す。真っ白な、手を触れることすらためらわれるような、きれいなハンカチだった。


「――って言っても、私が気に入ってるものはあげないよ? このハンカチも、お気に入りなの。だから、今度ちゃんと返してね」


 いい年の大人が罪を告白し、ひどく情けない顔をしているというのに、佳乃子は軽蔑するそぶりもない。上加地がこれ以上罪を意識しないように、茶目っ気たっぷりに言った。


「そうそう! 清光くん、学校ではどんな感じなのか聞きたいな。元気にしてる?」


 上加地は、鼻をすすりながら泣き笑いになった。


「ああ……元気にしてるよ。成績もいいし、素行もいいし……」

「本当? 今度授業参観とかあったら、こっそり参加しちゃおうかな。上加地くんにも、また会いたいし」


 佳乃子が言うと、上加地は焦った。


「いや、私は……――」


 まさか、おそらく首になるであろうとは言えない。上加地に記憶はなかったが、学校で錯乱して図書室をめちゃくちゃにした挙句、窓ガラスを割って倒れていたと聞いた。強いストレスでも抱えていたのかと、学校側から休暇を申し渡されたのだ。次の講師の更新は絶望的だ。


「の、乃木さんは? 仕事の調子はどう?」

「私? うーん、そうだなあ……色々大変なこともあるけど――」


 佳乃子は、テーブルの上に置かれた木箱に目をやった。幼い頃の出来事や思いを、どうして人は忘れてしまうのだろう。


「――大変なこともあるけど……私にできることを、日々やってるかな」


 そう言う佳乃子の笑みは、あの頃よりも一層美しいと思った。


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