桜の宮
清光が山に足を踏み入れると、雨は止んだ。いや、街には変わらず雨が降りそそぎ、風が吹き荒れていた。その山だけが、不気味に静かだったのだ。雨も風もなく、無音で清光を迎え入れる。清光は折りたたみ傘を畳んで、学生鞄にしまった。
鬱蒼と茂る木々で、山の空模様ははっきりしない。雨は降っていないが、あたりは薄暗く、視界も不明瞭であった。そんな中を清光は、足を止めることなくまっすぐ進んでいく。
山中には水たまりもなく、木の葉や枝も落ちていなかった。この山には、昨晩の嵐は訪れていなかったようだ。だがいやにじめじめとしていて、土も水分をふくんでいて柔らかい。ぬかるむ道に、清光の足跡がついていく。
――ねえ、一緒に遊ぼう!
幼き日、ともに仲良く遊んだ少女の、小さな足を思い出す。白い足袋を履いて、小さな足で蔵を駆け回っていた。その少女の気配が、山全体に漂っている。
清光は間もなく、開けた道にたどり着いた。そして迷うことなく、左にあった細い道へと進む。
山の奥へと進むにつれて、あたりはだんだん暗くなっていき、曲がり角が見えてくる頃には真っ暗になった。
しかしその角を曲がると、闇夜の中であの桜並木が、ぼんやりと光っていた。以前少女たちが訪れた時と変わらず、今を盛りと咲き誇っている。
桜は妖しい光を放ちながら、闇夜を照らす。奥に鎮座している社殿へと、清光を誘っているようだ。そしてその社殿の扉の前には、カオルとサクラが肩を寄せ合って眠っていた。社殿の扉を背もたれにして、互いに力を預けている。
清光は桜並木へと足を踏み入れた。桜には目もくれず、ただ社殿を目指して歩いていく。そして清光が半ば程まで歩いた時、社殿の奥から声がした。それは低く重厚な声で、境内によく響いた。
「――久しいな、頼光……」
ひどく愉しそうな声だった。その声を聞き、清光は歩みを止めて返事をした。
「――はじめまして」
清光は社殿の奥を見つめた。社殿の中には灯りがあるようで、扉の窓から光が漏れている。中には青い、瑠璃でできた玉簾がかけられているのが見えた。声の主は、そこにいるようだ。
「はじめまして、ね……。ようやく、ようやくお前に対峙することができたよ。私がどれほど待ち望んでいたか、お前にわかるか? 頼光よ――」
「――これまでにあなたがよこした方々にも言っている通り、僕は僕だ。源頼光じゃない。僕に前の世の記憶はないし、あなたとどうこうする理由もない」
清光は毅然として言い放ったが、それを簾の主は笑い飛ばした。
「ああ頼光よ、我が宿命の相手よ、人とはどうしてこうも悲しく愚かなものなのだろう。私はお前にこの首を落とされた日のことを、昨日のように思い出せるというのに、お前は全てを忘れ去ったとのたまう。だがお前がどれだけ否定しようとも、お前は紛うことなく頼光なのだ。その瞳、その力、私が待ち望んでいた頼光そのもの――私はお前に借りを返さねば、気が済まぬのだよ」
清光は無言だった。声は笑いながら、構わず話を続ける。
「私とどうこうする理由がないとは……我々など相手にする価値もないと? お前は今日という日に至るまで、私の僕が何度牙を向けても、自ら手を下すことはしなかった――先ほども、いばらを見逃したであろう? ずいぶん手ひどく振ってくれたようだがね」
低い声が響くたびに、玉の簾が美しく鳴った。
「だが、私がこうしてお前と会うまでに、私の僕がどれだけ消えたか知っているか? お前の気配にあてられて消え去ったもの、清められてしまったもの……お前を畏れて逃げ出したものもいた。僕たちがお前の相手になるとは思っていはしなかったが、全くお前の清々しさは素晴らしい――」
声は柔らかな口調で、清光に語りかける。その声は、境内に大きく響いていた。しかし、カオルとサクラが目を覚ます気配はない。
「……何を言いたいのですか?」
「いやなに……お前はそこにいるだけで、多くのものを痛めつけているということさ。お前の意志など関係なくね。ごらんよ、こやつの姿を」
声は、さも愉しそうである。夜桜の下、社殿の灯りに照らされて、少女たちは美しく眠っている。
いや、セーラー服から伸びるすらりとした脚、柔らかな腰つき、胸のふくらみ、そして、その完成された顔立ち――。その容貌は、もはや少女と言えはしない。そこにいたのは、二人の成熟した美女であった。
「お前がいたから、こやつはこんなにも穢れるはめになったのだ。三毒にまみれた魂とともに、器もここまで醜く育った――かつての清らかだった童はもういない。皮肉な話だろう? こやつはお前といるために、魂を二つにわけてでも清らかであろうとしたのに……そのお前のために、穢れに染まってしまうとはね。だがこやつのおかげで、私はこうしてお前と相対することができた……――」
静かに眠る二人の美女は、似ているようで似ておらず、似ていないようでどこか似ていた。揃いのセーラー服を着ているせいか、その体躯がそっくりだからか。顔立ちも雰囲気も全く対照的に見えるけれど、前者が紅なのか後者が白なのか、後者が紅で前者が白なのか。入れ替えてしまってもわからない、そんな同一性をも感じられた。
――ねえ、一緒に遊ぼう!
蔵に住んでいた、一人の少女。多くの昔語りにあるように、彼女がいる家は栄え、幸福と富に溢れる。彼女は長らく音羽家を護り、繁栄をもたらした。
その少女は純粋であるがゆえに、純粋な子どもにしか見ることができない。大人になって世間を知っていくにつれ、みなが彼女を忘れていく。しかし少女が寂しさを感じる間もなく、音羽家に産声は絶えなかった。少女は一人きりだったが、常に遊び相手に恵まれていたのだ。
しかしそうして音羽家を護っていた少女であれど、抗いようのない世の流れがあった。人は彼女のような存在を否定する。否定されればされるほど、彼女の力は弱くなる。そうしていつしか音羽の家も子が少なくなり、佳乃子が成長し、とうとう清光一人になった。繁栄させるだけの力も、もはや少女にはなくなっていた。
だが最後の子である清光は、特別に生まれついた。そもそも音羽家の者たちは、人よりも清らかである。その中でも清光は群を抜いていて、強い力を持っていたのだ。年を重ねても、生まれたての赤子のような清らかさをまとい続けた。それどころか、その存在はあたりの穢れを祓い、清めてしまうほどだった。
「――いくら清らかであれど、お前は人だ。人に流され世にもまれ、いつ穢れてしまうやもしれぬ――そうなれば一人になるどころか、この世から消え去ることになる。恐怖、悲しみ、絶望……それらは全て穢れだ。こやつは人ではないのだから、穢れがふくれあがったならば、お前に祓われてしまう――お前はそこにいるだけで、清々しさをまき散らしているからね」
声はとめどなく、清光に語りかける。
「だからこやつはその穢れをなくそうと、魂をわけた。さすれば孤独からは逃れられる。存在が消えるかもしれないという恐怖もわかち合い、薄めることができる。そうして穢れから逃れれば、お前に祓われずにすむ――愚かしいだろう? ひとたび穢れを知ったのならば、もはや穢れからは逃れられない。孤独でなくなったのならば、再び孤独に戻る恐怖が生まれるだけだ。そして魂が二つにわかたれたのだから、その力もわかたれる。神性は失われ、我々に近づいた。人と関わり世を知れば知るほど、こやつらはたやすく穢れたよ。こやつらはお前のせいで、穢れに染まったのだ――」
優しく語りかけているようでいて、その実温かみは全く感じられない。清光から罪の意識や、怒りや憎しみを引き出そうとしている。しかし清光のこころは波立つことなく、変わらず凪いで穏やかなままだった。
「よく、知っていますね」
「お前はこやつらに生まれた穢れに気づいていたのだろう? だから、自ら近づかぬようにしていた。お前の清らかさが、こやつらを消してしまわぬように。可哀想に……お前が構ってやらぬから、こやつらはますます穢れをふくらませた。さあ頼光よ、どうする?」
声は優しく問いかけた。清光は、カオルとサクラを見つめる。
「もちろん――彼女たちを、返してもらいます」
それを聞くと、声は高笑いをした。玉簾が震え、社殿の灯りを受けてきらきらと輝く。
「お前に、それができると言うのか? これほどまでに穢れきったこやつらにとって、お前の清らかさは毒でしかない。少しでも力を出せば、こやつらは消える。それでもよいというのか?」
清光は目線を、また社殿のほうへと戻した。まっすぐに玉簾の奥を見つめ、言い放つ。
「そんなことには、なりません」
その瞳は深く美しく澄んでいて、全てを真にしてしまうような力強さがあった。玉簾が震えて、主の動揺が伝わってきた。
「相も変わらず、腹立たしいすまし顔だ……――」
声はそう言って、柏手を二度打つ。すると、カオルとサクラは静かに目を開けた。起きたての、ぼんやりとした顔をしている。
「……――」
二人は意識が朦朧としていて、互いの姿も、清光の姿も目に入っていない。
二人の中には、さまざまな感情が渦巻いていた。怒り、憎しみ、悲しみ、嫉妬、罪悪感――それらはとどまることを知らず、二人の中で増幅していく。
「私の力も、少しわけてやったよ。美しく堕ちているだろう? さあ私の僕たち、頼光をこちらへ……」
その声を聞くと、二人の中にあったさまざまな感情は混ざり合い、真っ暗闇になった。その命を聞かねばならないのだと、身体が勝手に理解する。
二人はふらりと立ち上がって、清光のほうを見た。瞳に光はなく、人形のように手脚に力が入っていない。スカートは短く吊り上がり、胸元は窮屈そうだ。あれほどセーラー服が似合う美少女であったのに、今は身体と不釣り合いである。
「頼光よ、さてどうする――? こやつらはもう穢れきっている。お前はこやつらを、祓うことができるか? それとも、そのまま黙ってやられるか?」
カオルとサクラがふらりと清光へ向かっていくと、境内に笑い声が響く。
「こやつらを祓わざるを得なければ、さしものお前も、この私への憎しみが生まれるであろう――それもよい、お前が穢れれば、私の爪が届くのだから」
カオルとサクラは、無抵抗の清光へ飛びかかった。清光は学生鞄を落として、仰向けに組み敷かれる。サクラが両手を抑えつけ、カオルがまたがって身体の自由を奪った。
しかし清光が放つ清らかさが、二人を痛めつける。
「んっ……――」
穢れに染められたうえに簾の主の力を入れられた二人にとって、清光の放つ光は眩しすぎる。身体が清光を拒否している。
それでも二人は、与えられた命から逃れられることができない。人でない彼女たちは、あちらの世の理に従うしか術がない。強いものには、従わねばならない。圧倒的な穢れの力には、逆らえないのだ。二人は完全に、簾の主に服従していた。自我を失い、主の命だけが頭にこだまする。
わずかであれど穢れの全てを消し飛ばしてしまいそうな、清光の力が流れ込んでくる。しかし二人は苦痛に顔を歪めながらも、清光を離さない。次なる主の命を待っている。
「どうだ頼光? お前の大事なものが苦しんでいる。そのまま穢れごと消し飛ばしてやるのか? それともお前が清らかさを捨てて、こやつらの苦しみを和らげてやるか?」
声は笑いながらもう一度柏手を打った。するとどこからか、美しい青年が現れた。美青年は清光たちのほうへと向かっていき、清光の姿を見て美しくほほえむ。
「早くそのすまし顔を崩して、主にお見せしなければね――さあ、行きなさい」
美青年の合図とともに、境内には恐ろしい形相の物の怪たちが溢れ出した。
空に浮かぶもの、地を這うもの、桜の幹に立っているもの――人と似た恰好のものや、動物に近いものもいる。赤黒い肌のものもいれば、青銅色のものもいる。しかしみなが醜い容貌をしていて、目ばかりが不気味に光っていた。
その光は闇夜を照らしだし、物の怪と桜と、そして社殿とが一様にあらわになった。それはまるで、物の怪どもの花見のような光景だ。
だが物の怪たちは花には目もくれず、鋭い牙や爪を携えて、清光たちへと向かっていく。
「あなたがそうして手を出せぬうちに、あなたの魂を頂戴しましょう。器は後で、いくらでも差し上げます――……あなたの魂を堕とすのは、後ほどゆっくりと」
清光を押さえつけるカオルとサクラもろとも、物の怪たちは清光へと襲いかかる。そこでようやく、清光は口を開いた。
「――カオル、サクラ」
清光が二人の名を呼ぶと、二人の中にあった漆黒の闇に、一点の光が生まれた。穏やかな、包み込むような、清光の声。二人の暗く濁った瞳に、灯りが差し込む。
「きよ、みつ……?」
一瞬生気の戻った二人は、清光を押さえつける力が緩む。その刹那、清光の瞳が妖しく煌く。
すると煌めきとともにあたりに清々しい気が満ち溢れ――物の怪どもの穢れに満ちていた境内は、またたくまに清められてしまった。清光に襲いかかっていたものたちは、見る影もなく消し飛んでいる。百はいたであろう物の怪は一掃され、あの美青年ばかりになっていた。
「なっ……あれだけのものを、一瞬で……――」
美青年は、言葉が出なかった。しかしそれどころではなく、清光の力は自身にも及んでいた。清光の光にあてられて、躰が焦げつきそうだった。
「あ、主っ……――!」
膝をついて胸を押さえながら、簾の主の無事を確かめる。衝撃でか、灯りが消えてしまっていて、中が見えない。
「――案ずるな、大事ない……」
主の前にあった瑠璃の簾は、ばらばらと砕け散っていた。青と蒼の美しい玉には、主の力が込められている。その一粒であれど、並みの人が持てば玉の力に支配され、またたくまに穢れに染まってしまう代物だった。それほどの濃い穢れすらも、清光は一瞬で祓ってしまった。
「だがこれほどまでの力であれば……あやつらもただでは済まぬ」
主の言う通り、清光の力にあてられたカオルとサクラは、身もだえしていた。
「うっ……ううっ――」
頭を抱えて、二人してうずくまっている。直前に清光が名を呼んで光を灯していなければ、あっという間に消え去ってしまっていただろう。しかしあの一言が、二人を穢れに抗わせた。
「ううっ……嫌……――私は……」
清光は立ち上がって、制服についた土を払った。そして、再度二人の名を呼ぶ、
「カオル、サクラ」
懐かしい清光の声に、二人は顔を上げた。
「……清光――」
「私たちのこと、覚えててくれたの……?」
胸の内で穢れと清らかさがせめぎ合う中、二人の顔に喜びが浮かんだ。けれど、頬には涙が流れる。
「でもだめ……私はもう、穢れちゃった」
「清光の隣にはもう、いられない――」
どうにかして穢れを捨て去ろうと、二人は抗った。けれど、溢れ出るものたちを抑えることができない。穢されてしまった憎しみ。穢れてしまった自分自身への怒り。清光を裏切ることになってしまった罪悪感。このまま消えてしまうという恐怖。
「――二人に、名前をあげる」
涙を流す二人に、清光は言った。
「名前……?」
「名前ならもう、清光がつけてくれた――」
蔵に住む少女は、名前を持たなかった。名など必要なかったからだ。しかしその少女が二つにわかたれた時、清光は二人に名をつけた。カオルとサクラ、と。
「今度は二人に、人としての名をあげる。でも人と同じになったなら、自分の穢れも受け容れなくちゃいけないんだ。きれいなものも、醜いものも、両方持っているのが人だから。人になったら今みたいに苦しむことも、きっとたくさんあると思う。それでももし二人が、人としてこの世で生きていきたいと望むなら――」
清光は、二人に問いかけた。
カオルとサクラは、互いの顔を見合せる。涙でぐちゃぐちゃになった顔に、乱れた髪。美しい二人は、酷い恰好だった。苦しみの中、互いの姿を見て笑みがこぼれる。二人は泣き笑いをしながら、手をつないで清光に言った。
「そんなの、決まってる――私、このまま消えたくない」
「清光も、人も、この世も、大好きだから」
二人の返答を聞いて、清光は笑った。
「帰ろう――薫子、桜子」
清光が二人の名を呼ぶと、胸の内の穢れと清らかさが混ざり合っていくのがわかった。互いの手から、温もりを感じる。触れ合う肌から、血脈を感じる。
「……さくらこ」
「かおる、こ」
二人は新たな名を、互いに呼び合った。そして満面の笑みで、きつく抱き合う。互いの鼓動が、とても心地よい。
そうしているうちにも、二人の姿は変化していった。身体が元の、セーラー服に似合う体形に戻っていく。その顔立ちも、あどけなさの残る少女のものになっていった。
「清光っ! 清光……!」
苦しみから放たれた少女たちは、清光の名を呼んだ。長らく触れることのできなかった、清光を抱きしめる。
「もう、もう清光に触れても苦しくない……!」
「これからは、ずっと一緒にいられる?」
直に清光の温もりを感じても、二人は少し不安気だった。
「家に帰るよ、二人とも」
清光は笑いながら、二人を促した。
「ねえ、ねえ清光! もう一度名前を呼んで」
「私も! 私のことも!」
少女たちは幼い声で、清光にじゃれついた。清光は二人をいなしながら言う。
「わかったから……――薫子、桜子、二人は先に山を下りて。僕もすぐに追いかける」
「……っでも――」
二人はようやく、置かれている状況を思い出した。物の怪たちが消えたとはいえ、油断している場合ではなかったのだ。
「大丈夫だから」
清光が鷹揚と言うと、二人は従わざるを得ない。
「清光、きっとすぐ来てね」
「行こう、桜子」
少女たちは手を取り合って、桜並木を駆け抜けていく。地に足をつけて、まっすぐに。その姿が見えなくなると、清光は社殿のほうへ向き直った。
「まさか、やつらを人として生かすとはね……――」
社殿の中から、声がする。清光の行動は予想外のものだった。
「こうするのが、一番よいと思ったので――だからあなたに、お礼を言いたくて」
「礼だと……?」
「ええ――僕には、彼女たちを人にする力はなかった。人というものは、清濁とともにあるものです。全く穢れのない彼女たちは、人にはなれない。だけど僕は穢れを二人に与えてやることができなかった。でも――あなたが、彼女たちを人に近づけてくれた。だから僕は二人に名をつけて、この世にとどめおくことができました。それくらいなら、僕の力でもできるから――だから、ありがとうございました。二人に生を与えてくれて」
清光は、腹蔵なく言っている。嫌味でもなく、皮肉でもない。
「貴様、何をっ……――」
美青年が清光を睨みつけるが、いまだに身体に力が入らない。社殿にもたれ、いうことを聞かぬ身体に苛立った。社殿の奥からも、怒りに満ちた声が聞こえてくる。
「――頼光っ……! お前が穢れこの私にひれ伏すまで、お前の周りに平穏は訪れぬ。お前の生きゆく道にこそ、穢れは生まれるのだ――!」
社殿からひどい邪気がふくらんで、あたりが揺れる。
「それとも――お前の力が及んでいないものたちを片端から喰らうてやれば、さしものお前もそのすまし顔を崩さざるをえまい……いくらお前といえども、この世の全てを清めることなどできはせぬ」
清光は動じず、一向に社殿に力を向けない、そんな清光を抑えこむように、境内に穢れが満ちていく。声の主の力は強大だ。溢れる穢れが爆ぜたなら、どれほどの人が堕ちるかわからない。
「――あなたに、そんなことはできないでしょう」
清光は穢れをものともせず、声の主に言った。声は笑う。
「荒魂が解き放たれた今、現世で私にできぬことなどありはせぬ――……」
今にも溢れそうな穢れは、山全体へと広がっていく。だが、それでも清光は顔色すら変えなかった。
「いいえ。鬼神に横道なし――あなたに、そんなことはできません」
清光は、頼光と同じ瞳で、社殿をまっすぐに見つめる。
「なっ……――!」
清光の光が煌いて、あたりが眩く輝いた。清光から、美しい光が放たれる。その輝きはあたりにふくらんだ穢れを一掃し、清々しい気で包みこむ。
またたくまに境内は、神社然とした静謐な空間になった。穢れは霧散し、清らかな清光の気だけが街に降りそそぐ。
そうして漂う穢れは祓われたが、社殿の中と、そして美青年は無事であった。ただ、美青年は額に角が現れ、顔の半分は恐ろしい形相に変わっていた。節くれだち始めた大きな手で、崩れかけている顔を隠している。
「二人に生を与えてくれた、お礼をします。僕の力を、少しお渡ししました」
穢れに染まっていた社殿の奥に、一点の光が生まれている。
「何を――、何をしたっ……! 主は……ご無事ですか……――」
美青年は、顔を抑えながら清光を怒鳴りつけた。
「ただ、お礼をしただけです」
清光は、社殿の奥へと話しかけた。
「あなたが彼女たちにしたことと、逆のことをしました。つまり――あなたに清らかさをお渡ししたんです。それはあなたの穢れに染まることなく、光を持ち続けるでしょう。もちろん、全ての穢れを祓うほどの力ではありません。あなたの底知れない穢れの中に、ただ一粒の光を投げた程度です。でもその光が宿っていれば、あなたは僕の意思なく誰からも祓われることはなくなるでしょう。僕がまき散らしているという清らかさも、僕の力を消しはしなでしょうし。次に会う時は、まわりくどいことなどしないでください――……それから、僕は源頼光じゃない。僕の名は、音羽清光です」
清光は最後に名乗ると、社殿に背を向けて歩きだした。桜並木の下で、風に乗る花びらを受けながら、薫子と桜子の後を追う。
「音羽――清光っ……! お前は……っ!」
社殿の主は、はじめて清光の名を呼んだ。頼光ではなく、清光に対しての感情が湧き上がる。社殿から再び、穢れが溢れ出そうになった。だが、その穢れが溢れることを、清光の残した一点の光が阻む。
「いいえ、鬼神に横道なし――あなたに、そんなことはできません」
清光のあの声が、社殿の主にこだまする。鬼神に横道なし――かつて自身が、源頼光に言った言葉だった。
嘘を並べ立てて懐に入りこみ、信じたところで寝首を搔く。鬼神は、そんな道に逸れたことなどしない。そんな横道は鬼神にはないと、今わの際にそう言った。だが今は……――。
「おのれ……おのれ、音羽清光……――!」
清光の後ろ姿は、徐々に見えなくなっていく。社殿の主の歯ぎしりが聞こえてくるようだった。清光が憎くてたまらない。
しかしそれ以上に、清光を穢すためさまざまに奸計を弄し騙しすかし、横道に逸れてしまった己が憎くてたまらなかった。まるで人のように、醜くくなってしまった己が――。




