見送り
清光と尾々は、並んで早瀬学院の校門を出た。突然降り出した雨は、しばらく止みそうにない。尾々は眼鏡を拭きながら言った。
「昨日の今日で、すごい雨だ。折りたたみ傘じゃ心もとないよ。嫌なんだよな、雨って。眼鏡が曇るし、髪は湿気るし」
「髪の毛、そんなに変わる?」
清光は興味がなさそうに聞く。
「変わるよ! 音羽は髪の悩みがなくていいよなあ。何もしなくても緩い癖がついているし、そのくせ雨の日も大して髪型が変わらない。俺なんて直毛だからさ、ほら……せっかく朝髪型を整えても雨が降ったら、見ての通り直毛に戻っちゃうんだ」
尾々は自身の髪をいじりながら文句を言った。その様子を見て、清光は傘の下で笑った。
「うーん……尾々は尾々だね」
「あ、全然違いをわかってないだろ。これだから無頓着は……」
「失礼だな。それよりも――本当に付き添いはいらなかったのに。まだ授業あったでしょ?」
「バカ。あの音羽が体調不良で早びけなんて、相当だろ。途中で倒れたらどうするんだ、家まで見送るよ」
尾々は真剣な声で言った。清光は普段、至極健康体だ。怪我や病気をしている姿を見たことがなかった。
「びっくりしたよ、突然帰り支度を始めるんだから」
「ごめんごめん、急に帰らなくちゃならなくなったから――」
その時間、日本史専攻の尾々は自分の教室で、世界史専攻の清光は隣の教室で、それぞれ授業を受けているはずだった。しかし突然清光は自分の教室へ戻ってきて、帰り支度を始めた。
「保健室は行ったんだよな……? 熱はなさそうだけど、顔色が悪い気がする。本当に鞄持たなくて大丈夫か?」
「大丈夫だって。念のため帰るだけなんだから」
尾々は清光の顔を覗き込む。
「寝ても体調が回復しなかったら、ちゃんと病院へ行けよ。なんか……上加地のやつも倒れたらしいんだ。いつまで経っても授業が始まらないからおかしいとは思ってたんだけど……詳しくは聞けてないけど、窓ガラスを割ったりとかして、錯乱してたらしいよ」
日本史の時間、いくら待っても上加地は教室へやってこなかった。不審に思った生徒が職員室へ探しに行ったが行方がわからず、ちょっとした騒ぎになった。
上加地は散乱した図書室で倒れていて、命に別状はないものの支離滅裂なことを言っていたという。
「お前もため込み過ぎて倒れないように、ちゃんと気をつけてな」
尾々は眉をひそめて言う。上加地が倒れたという影響で、急遽その授業は自習になった。その後にもう一時間別の授業が残っていたが、尾々は迷わず清光を送ることを申し出た。
「まあ、何か困ってることとかあったらちゃんと言ってくれよな、何事も。ほら、相談したら楽になるって言うだろ?」
そう言いながら、尾々の胸がちくりと痛んだ。清光とは長年一緒にいるが今まで、清光から悩みや秘密を打ち明けられたことはなかった。坂下との会話がよみがえる。
「――……?」
胸の痛みと同時に、尾々は何かを忘れているような気がした。
「大丈夫か? 尾々」
尾々の様子の変化を感じて、今度は清光が尾々の顔を覗き込んだ。
「えっ? いや、何でもないんだ――何か、今違和感があった気がした、ような気がしただけなんだ……なんなんだろう。たぶん、小さいことだよ。今朝ここを通った時にはスズメがたくさんいたのに、今はいなくて寂しい……とか」
雷が混じる空模様の中、スズメどころかカラスの姿も今はない。電線がうら寂しく風で揺れていた。
「スズメ、ね……尾々のことだから、スズメの絵もうまいんだろうな」
「あ、わかるか? そうそう、たしか朝も、スズメを描きたいなと思ってたんだよ。きっと違和感の正体はこれだ。描きたいものを描けないことは辛い」
「――なるほど」
「晴れてくれないかな。今朝のような陽気に戻ってくれたら、このまま写生に行けるのに」
激しく傘を打ちつける雨は、止む気配がない。昨日のように、一晩中降り続きそうだ。
「大丈夫。じきに落ち着くよ」
清光は空を見上げながら、尾々に言った。
「……そうか? なんか不思議だよな。音羽が言うと、本当にそうなりそうな気がする」
尾々は清光を見て笑った。清光の内奥は底知れない。どれだけ長く一緒にいても、つかみきることはできないのではないかと思う。
「――あ、尾々。ここで大丈夫だよ。尾々は帰り道あっちでしょ」
清光はわかれ道で足を止めた。
「え? いや家まで送るって! もうすぐなんだし」
「もうすぐだから、付き添いはもう不要だって。雨も強いし、家まで送ってもらったら尾々の帰り道が心配だ」
「でも……」
尾々は何かを言いかけたが、清光の目を見て口を閉じた。清光がそう言うのなら、従ったほうがよい気がした。
「ありがとう、尾々。尾々は大丈夫だろうけど、帰り道気をつけて――」
清光は尾々に手を振りながら、雨の中を歩いていく。
「お前のほうが気をつけろよ! お前、たまには人を頼れよな――! また明日な――!」
去っていく清光に、尾々は大声で言った。雨音を抑えて響く声を聞き、清光は振り返って笑った。傘もくるりと回転して、雨粒が舞う。
「こうみえて、尾々にはいつも頼ってるんだよ」
清光の声は小さかったが、尾々の耳によく届いた。
「何言ってるんだよ」
茶化しながらも、笑みがこぼれる。尾々はしばらく、雨に消えていく清光を見送った。




