怒れる少女
カオルは鈍色の塊の背に乗って、不思議な屋敷から遠ざかった。たてがみを握りしめて、ひたすら祈る。
「お願い、お願い―――。どうか間に合って……――!」
どこをどう駆けたのかわからぬほど、テンは風のように疾走した。周囲の景色がどんどん通り過ぎていき、強い向かい風に目を開けていられなくなる。
早くサクラの元へ行かなければならないと、はやるカオルの気持ちがテンに伝わっているようだ。
塊は勢いよく駆け抜け続けて、気づいた時にカオルは灰色の雲の中にいた。いつのまにか眼下に、慣れ親しんだ街の景色が広がっている。いつあちらの世を抜けたのか、全くわからなかった。
「――サクラ……?」
カオルはすぐに、サクラの気配を感じ取った。何があったというのだろう、いつものサクラではない。普段であれば、互いの存在はなんとなく感じ取れる程度だった。
しかし今、サクラの気が町全体を覆っている。全てを拒否し、酷く悲し気なサクラの心が伝わってきた。痛々しく強いサクラの気で、カオルの身体はひりひりとした。
「一体何があったの……――? サクラはどこ?」
カオルはサクラの気配を追おうとしたが、あちらこちらにサクラの気配を感じて、どこにサクラがいるのだかわからない。先ほどの屋敷の主の話を思い出し、カオルは震えた。
「どうしよう、どうしたらいいの……――私が、ずっとサクラのそばにいたら、こんなことには――」
昨日、涙を流していたサクラを思い出す。嵐の中、どうやって過ごしていたのだろうか。一人きりで、震えてはいなかっただろうか。
「ごめん……――ごめんね、サクラ……――私はなんてことを……――」
カオルは自分のしたことの大きさが、ようやくわかってきた。鈍色の塊が街へ降下していくにつれ、昨晩の嵐の傷跡があちこちに見える。
木々の葉や枝が道に散乱し、たくさんの水たまりには桜の花びらが漂っていた。そして折れ曲がった傘や、どこからか飛ばされてきたゴミやなにやらが、至るところに飛び散っている。
カオルは恐くなって、たてがみを握る手ががたがた震えた。罪悪感で、呼吸の仕方がわからなくなる。
「私、私のせいだわ……私が街をこんなにして、サクラを追いつめて……――どうしたら……――」
カオルは泣きそうになりながら、たてがみを握る手が緩んだ。色々なことを一気に考えすぎて、意識が遠のきそうになる。
そうしてふらりとテンの背から浮き上がった時、今度はそれにテンが素早く気がついて、空中でカオルの制服を甘嚙みしてつかんだ。口にくわえたまま、そのまま優しく地面へと下ろしてやる。
「――ねえ君、私、サクラにとても酷いことをしたの。ううんサクラだけじゃない……私は、私はなんてことを……――こんな、こんなことをしてしまったら、もう、サクラも、清光も、私のことなんて……――」
カオルは鈍色の塊に抱きついて泣きじゃくった。テンはお座りの姿勢になって、どうすればよいのかわからないという顔をしている。
カオルはひたすら懺悔をしながら、しゃくりあげた。そんなカオルの様子が少し落ち着くのを待つと、テンは身体をひいて、カオルの頬に流れる涙をなめとった。長い鼻先でカオルの頬をなでながら、ざらざらした舌で涙を拭いてカオルを慰める。
「……うっ、ありがと、う。ありがとう――」
カオルは礼を言いながらも、涙を止めることができない。するとテンは何かを訴えるように、鼻先でカオルの足をつついた。
「……――?」
カオルが不思議に思って見ると、テンは自らの背にのるように促した。
「乗れ、ということ?」
テンは嬉しそうにうなずいて、カオルが乗りやすいようにしゃがみこんだ。カオルは促されるままに、泣きはらした目でその背に乗った。カオルが乗るとテンは立ち上がって、どこかへ向かって飛び出した。
「……? どこへ行くの――?」
カオルの問いかけに答えず、鈍色の塊は街を駆けた。カオルの様子が心配だが、その場所へ行ったらきっと元気になるだろうと思った。そして何より早くカオルを連れて行かなければ、また主に叱責されてしまう。
テンは電線の上にふわりと飛び乗って、そのアパートを見下ろした。曇天の下、その場所はひどく陰気に見える。
カオルはアパートから、サクラの気配を一層強く感じた。サクラはここにはいない。けれどサクラが悲しんでいる原因はここにあるのだと、カオルはすぐに悟った。
「――ありがとう、テン。ここに連れてきてくれて」
カオルはたてがみをぎゅっと握って、テンの名を呼び礼を言った。カオルに礼を言われ、テンは嬉しそうに鳴く。やはり言いつけ通りにこの場所に連れてきたから、カオルは元気になったのだと思った。
カオルは鈍色の背から飛び降りて、近くの電信柱の上に飛び移った。サクラの力を強く感じる。悲しみ、憎しみ、怒り、さまざまなサクラの感情が、カオルに伝わってきた。
「――許さない」
空から、ぽつぽつと雨粒が落ちてきた。その雨を受けると、テンはますます喜んだ。また身体に力が湧いてくる。
「私は、責任をとらなくちゃ」
カオルはテンに言った。カオルの心は、強い怒りに満ちていた。もはや先ほどまでの罪悪感は全て消え去り、街がどうなろうとどうでもよくなった。屋敷の主が言っていたことも強い怒りにかき消され、カオルの頭の中には、サクラのことしかなくなった。
自分のせいで、サクラはひどく傷つくことになってしまったのだ。サクラのために、できることをしなくてはならない。
カオルの昂った感情は、全て鈍色の塊の力になった。尾が二股にわかれ、じわじわと身体がふくらんでいく。
一粒二粒だった雨粒は激しい豪雨に変わり、雷鳴が轟き始めた。昨晩の傷跡が癒えぬ中、街は再び嵐に包まれる。テンは溢れる衝動を抑えきれず、獰猛な声を上げて空へと跳んだ。テンを中心に、暗雲がとぐろを巻いている。
カオルはその姿を見送ると、アパートの一室のベランダへと飛び降りた。ベランダには何もなく、室外機がかたかた音を立てている。
しかし稲光が輝き鋭い音があたりにこだました時、室外機は力なく止まった。近隣一帯が停電したのだ。薄暗かったあたりはますます暗澹とした気配に包まれる。
稲光に照らされて、カオルの影が窓に美しく映る。その窓にカオルが手をやると、窓ガラスには大きなひびが入った。そのひびに手のひらを当ててガラスを押しのけると、強い風が室内に吹き込んだ。カーテンが大きく揺れる。
その窓ガラスが割れる音で、上加地は目を覚ました。しばらく寝ていたような気がするが、体中がひどく傷み、前後の記憶が曖昧だった。
「――……私は……? ――……? だ、誰だ?!そ、そこにいるのは……」
ぼんやりとしながらも、ベランダに誰かがいることに気がつく。頭を抱えながらも、布団から起き上がった。揺らめくカーテンの奥に、早瀬学院のセーラー服が見える。
「……誰だ……?」
問いかけに応えるように、カオルは割れた窓から室内へ足を踏み入れた。吹き荒れる風はカオルの髪を散らす。そして雨を吸って色が変わっているセーラー服から、ぽたぽたと雨粒が滴った。稲光による逆光に照らされたカオルは、とてもこの世のものには見えない。
「……っひ!」
上加地はひっくり返ってしりもちをついた。腰が抜けてしまって、立ち上がれない。
カオルは無言で上加地を冷たく見下ろした。いつになく白いカオルの肌は、温もりの一切を感じさせない。長いまつ毛や通った鼻筋、雨に濡れている黒髪――その全てが、怖いくらいに美しい。しかしその瞳には、怒りと侮蔑が溢れている。
「――許さない」
カオルはそう言うと、上加地のほうへと歩を進めた。カオルの靴はどこかで脱げてしまっていて、はいていた黒いタイツが畳に足跡を作る。
するとその畳から、なんといぐさが芽吹き始めた。とっくに枯れているはずであるのに、カオルが通るそばから目を出して、ぐんぐん成長していく。青々としたいぐさが真っすぐに伸びて、部屋中がこんもりと茂った。あっという間にカオルの腰元ほどまで伸びて、いぐさの香りが室内に満ちた。
「な、なんだこれは!」
上加地は怯えながら、室内を見回した。力強く育ついぐさは、畳の上にあるものをひっくり返していった。窓際にあった本棚は倒れ、小ぶりの机も持ちあげられた。部屋中に本や書類がばらばらと散らばる。
上加地はその光景を見て、本が飛び散っていた図書室の様子を思い出した。
「そ、そうだ――私は……彼女の手がかりを得ようとして……――なぜ、なぜ私は図書室で倒れたんだ……――?」
何があったのか記憶をたぐるが、しかし頭がぼんやりとして思い出すことができない。そうしているうちにも、カオルは上加地に近づいてくる。
上加地は震えながら後ずさった。何が起きているのかわからない。わからないが、今目の前にいるものが人ではないということだけは理解できた。
「き、君は――君は一体なんなんだ?! あの時蔵にいた彼女と、何か関わりがあるのか……? お、教えてくれ。お願いだ、私は彼女に……――」
上加地は震える声で問いかけた。しかし瞬間、大きな衝撃に襲われた。風なのか気圧なのかわからないが、上加地は部屋の奥まで飛ばされた。
「蔵――? お前はあの子に……あの子に何をしたの!」
カオルは目を吊り上げて、上加地に迫った。とても美しい顔立ちであるぶんその迫力はすさまじく、上加地は思わず失禁した。カオルは上加地への憎しみと怒りが溢れ出し、それによってのみ突き動かされている。
「許さない。許さないわ――」
カオルはどんどん上加地に近づいた。すらりとした長い脚は、迷いなく歩を進める。
そしてカオルが歩みながら手をかざすと、あたりのいぐさが上加地を目指して一斉に伸びた。細い茎が弓矢のように飛んだかと思うと、今度は蔦のようにぐねぐねと曲がって、上加地を縛りつけた。ただでさえ腰を抜かしていた上加地は、全く身動きが取れなくなった。絡みつくいぐさは、上加地の首元を狙ってまとわりつく。
「やめっ……やめてくれ……――!」
上加地は必死の形相で抵抗した。いぐさを引きちぎろうと、がむしゃらに暴れる。しかしいぐさはびくともせずに、さらに強く上加地を縛った。苦しみもがく上加地を見ながら、カオルはその首に手を伸ばした。
カオルの細く美しい指が眼前に迫った時、上加地はとうとう意識を失った。だらりと手足をのばし、いぐさに身を任す。
するとその拍子だろうか、上加地のポケットから、再びあの青い石が転がり出た。いぐさの中を転がって、それはカオルの目に留まる。一面の緑の中で、その青はひどく目立った。
なんて毒々しく深い蒼――カオルがそう思った時、その石は突然眩く輝いた。
「きゃっ!」
あまりの眩しさに、カオルは目を手で覆った。すると一瞬のうちに、石は後も残らぬほど細かく砕け、消え散った。カオルが再び目を開けた時、そこには何も見当たらない。
「――……? 何? 何が起きたの……?」
カオルは戸惑いながら、石の眩さを落ち着かせようとまばたきをした。切れ長の大きな目を閉じて、頬にまつ毛の影を落とす。
瞳の奥で、サクラと清光の顔が思い出された。砕け散った石とともに、カオルに巣くっていたものにもひびが入ったようだ。
「――……うっ……」
カオルの心の内で、何かがせめぎあった。
「……憎い。この男が、憎い……憎い、のにっ……! 私は、私は何を……サクラが悲しんでる。でも、サクラはきっとこんなこと……望んでない……――私は今何を……――」
カオルは頭を抱えてうずくまった。畳の中に膝を落とし、小さく丸まる。上加地に対する憎しみと、憎しみを抑えきれなかった罪悪感、サクラへの懺悔――身体の中に一気に感情が溢れ出してきた。
そしてカオルが苦しんでいるその時、ひび割れた窓ガラスの向こうに新たな人影が映った。
「あと少しだったのに、本当に余計なことばかり……」
影は憎々しげに呟くと、窓から室内へと入ってきた。うずくまるカオルを見下ろして、にやりと笑う。
「……さあ、主がお待ちです。あなたが会いたがっている者にも、会わせて差し上げますよ」
影の声を聞いて、カオルは顔を上げた。しかし影のその瞳を見つめた時、カオルの意識は遠のいていった。




