茨木童子
「あ、音羽くん!」
廊下を歩く清光に気がつくと、紅緒は嬉しそうな顔をした。両手に分厚い資料を抱え込んでいる。
「早くお礼を言いたかったんだけど……遅くなっちゃった。昨日はありがとう!」
紅緒は頬を染めながら、上目遣いで清光に言った。
「ああ、別に気にしないで」
清光は普段通り短く答えると、そのまま紅緒とすれ違おうとした。
「――あっ……」
しかしその直後に紅緒が後ろで声を上げて、抱えていた資料がばら撒かれる音がした。
清光が振り返ると、廊下には紙が散らばっている。よく見ると資料は、書道の手本のようだった。半紙の束も落ちている。
「やだ、どうしよう……」
紅緒は転倒したようで、床に膝をついている。散り散りになった資料を見て紅緒が慌てていると、近くにいた生徒たちが駆け寄ってきた。
「高寺さん大丈夫?!」
「怪我してない?」
女生徒が駆け寄って紅緒に手を貸しているうちに、他の生徒たちが散らばった資料を拾い集めた。清光も足元に飛んできた紙を拾う。
「ごめんね、脚がもつれちゃって……。ありがとう」
紅緒は転んだ拍子に乱れた髪を耳にかけながら、生徒たちに笑顔を見せた。その笑顔を見た男子生徒は、今日は運がいいなと思った。
「それ、どこまで運ぶの? 手伝うよ」
一人の男子生徒が声をかける。しかし紅緒はかぶりを振って、ほほえみ返した。
「ありがとう、寺町くん。でも大丈夫、音羽くんと運ぶように、さっき書道の先生に頼まれて……」
お願い、という顔をして、紅緒は清光のほうを見た。首を少し傾けて、清光にだけ目配せをする。
「なんだ、音羽も頼まれてたのかよ。高寺さんにこんな持たせるなよなー」
周りの男子生徒たちは、残念そうな顔をしながら清光に文句を言う。
「――ああ、ごめん。僕が持つよ」
清光は拾い集められた資料や半紙を受け取って、紅緒を待たずに歩き始めた。
「あ、待って!」
紅緒は生徒たちに再度礼を言って、慌てて清光を追った。
「待って音羽くん! 半分持たせて」
「大丈夫だよ、これくらい一人で。書道の教室までだよね?」
「そうだけど……私が最初に頼まれたものだし、悪いよ……」
清光はちらっと、隣を歩く紅緒のほうを見た。指にはまだ、白いガーゼが巻かれている。
「……指、まだ痛むんでしょ?」
紅緒ははっとして清光を見上げた。
「――うん……」
清光からは、またも何の他意も感じられなかった。気遣うことで紅緒からの好意を得ようだとか、紅緒に持たせることによる他者からの反感を避けようだとか、そんなことはまるで考えていない。ただ純粋に、紅緒のことを気遣ってくれている。
紅緒はそれがわかって、どうしようもなく嬉しかった。今朝細々と考えていたことを押しのけて、清光への想いが溢れてきてしまう。
「ありがとう、音羽くん――……じゃあ私、教室のドアを開けるね!」
紅緒は可愛らしく笑って、清光の隣に並んで歩いた。
「ごめんね、音羽くんには迷惑をかけてばっかりで」
「――高寺さん、また謝ってる」
「えっ? あ、ほんとだね……」
紅緒は昨日清光に言われたことを思い出した。
――高寺さんは、よく謝るね。
――それから、よく相手の名前を呼ぶ。
紅緒は、幼い頃から他人に褒められ、好かれることが多かった。しかし成長するにつれて、ただそれを受け容れるだけでは不十分なのだと学んだ。他者からの好意を受け容れるだけでは、同時に多くの嫉妬にさらされることになる。
紅緒は謙虚さを繕いながら、好意を寄せられるに値するだけの努力をした。誰からも好かれ、誰からも嫉妬されない人を目指したのだ。誰からも好かれるために、誰をも好いた。好意は好意で返ってくる。そして嫉妬すらする気が起きないほどに、何事においても完璧であろうと努めた。
相手の名前をたくさん呼ぶことと、自分が悪いと謝ることは、紅緒なりの処世術の一つだった。名前を呼びかけることで、人は紅緒に好感を抱く。自分から謝ることで、人に責められる隙をなくす。そういったこまかい対応や仕草、言葉遣いを、紅緒は日々心掛けていた。
しかし他者から好かれるためにしているそういった言動を、清光は全て見透かしているように思えた。自分がしていることは、全て清光には通用しないのではないかと思った。
もし昨日、本当に指の傷がぶり返していなかったなら、ただ白いガーゼを巻いていただけだったのなら、清光は気遣ってなどくれなかったのではないか。
「――ごめんね……、って言うの、癖になっちゃってるみたい」
「いや、謝ることなんてないけど――高寺さんのそういうところ、すごいと思うよ」
紅緒の下心を全てわかったうえで、嫌味でもなく、本心から言ってくれているのではないか。紅緒はまたそう感じ取って、嬉しさが溢れた。
周囲の誰もが、紅緒の全てが自然のものだと思っている。生まれついた美貌、生まれついての愛される素質。
もちろん人より恵まれてはいたけれど、けして努力をしてこなかったわけではない。それを維持して、生かして、完璧に近づけるためには、たくさんの積み重ねがあった。
誰からも愛されることは難しい。日々気は抜けず、誰に対しても本心を出すことはできなかった。そういったこれまでの努力を、はじめて認められた気がした。
「……音羽くん、私――」
紅緒が何かを言いかけた時、二人はちょうど目的の教室へとたどり着いた。紅緒ははっとして口をつぐむ。
「……――あ、ううん! 開けるね」
紅緒は言葉をごまかすように、教室の扉を開けた。教室までの道のりはあっという間だった。扉を開けると、ニスや墨汁が混ざり合った匂いが漂ってくる。
「……えっとね、資料はこの机の上に置いておいてって。それから雑庫のほうにしまってある筆も出すように頼まれてたの。私、雑庫のほう見てくるね!」
「わかった」
資料を清光に託すと、紅緒は教室の奥にある雑庫へと入っていった。美術や工芸、書道で使う道具のうち、高価なものや使用頻度が低いものは、部屋続きの雑庫に収められている。一応生徒は立ち入り禁止になっているが、紅緒は入学早々教師に気に入られ、入室許可を与えられていた。
清光は抱えていた資料を、教室前の教卓に置いた。手本をぱらぱらとめくって、課題の確認をする。教師の手本はさすがにうまかったが、志づ葉には負けている。
清光は教卓の椅子に座って、ぼんやりしながら紅緒を待った。しかしふと、立ち上がって教室の出入り口のほうへ足を向けた。扉に手をかけ、それを開けようとする。
「――……」
だがそこで、清光は手を止めた。目を閉じて、何かを考え込む。そして目を開けると、扉から手を引いた。再び踵を返して、今度は雑庫のほうへと向かう。
「――ごめんね、お待たせしちゃって……」
そこでちょうど、紅緒が雑庫から姿を現した。紅緒は頬を紅潮させ、吐息を漏らしている。
「――高寺さん……――」
そして清光が何か喋るのを遮って、紅緒は清光へと駆け寄ってきた。
「ねえ、音羽くん……私もう、我慢できない。あのね――」
紅緒は言うなり、清光へ抱きついた。
「私、音羽くんのこと……」
清光は教卓後ろの、黒板に押し当てられる恰好になった。
「音羽くん、私のこと嫌い……――?」
紅緒は清光を潤んだ瞳で見つめる。近くで見ても、紅緒の顔に欠点はない。美しい肌に、長いまつ毛が影を落とす。
清光はどこを見ているのか、何も答えなかった。その様子を見て、紅緒も無言で清光の手を握りしめた。そのまま空いている手で、自らの胸元の白いスカーフをほどく。そしてそれを床に落とすと、セーラー服の胸のボタンを外し始めた。前のファスナーを下ろすと、紅緒の豊かな胸が露わになる。濃紺のレース地の下着に、きれいに谷間ができている。それを清光に押し当てるようにして、紅緒はさらにきつく抱きついた。
「ねえ音羽くん、私……」
紅緒は顔を上げて、そのまま清光に唇を近づけた。透明なグロスを塗っているように、艶やかな色っぽい唇だった。
しかし、紅緒の唇が清光に触れそうになった時、清光が小さく呟いた。
「墨は餓鬼にすらせ、筆は鬼に持たせよ――」
「……――え?」
遮られた紅緒は動きを止めて、訝しんだ。
「前に高寺さんに、墨のすり方を聞かれたよね」
清光は思い出したように言うと、紅緒の手を解いて押し返した。
「墨をする時は餓鬼のように力を入れず柔らかく、筆を使う時には鬼のように力強く書くのがよい、って意味」
清光は紅緒を無視して、雑庫のほうを見た。しかし、その目はひどく冷たい。
「あなたも、やっぱり書は得意なんですか――?」
「音羽くん……?」
紅緒は相変わらず頬を染めつつ、首をかしげた。そして清光の目線を追って雑庫のほうを見ると、そこから音もなく一人の女生徒が現れた。とても美しく、作り物のように整った顔立ちをしている。女生徒は、清光ににこりと笑いかけた。
「また、あなたですか」
清光は女生徒を見つめ、静かに言った。
「ふふ。なかなかどうして、手ごわいのですね」
無表情の清光と対照的に、女生徒は笑いかけた。清光はその笑みをかわすと、素早く紅緒の胸元に手を入れた。
「……っ!」
急なことに、紅緒はぎゅっと目を閉じたが、清光はそのまま何かをつかむと、すぐ手を引き抜いた。
「こんなものをばら撒いて、いったい何がしたいんですか」
清光の手には、あの玉が握られていた。薄暗い教室内で、その青は妖しく輝いている。
「音羽くん、だめ……返してっ……!」
玉を奪われた紅緒は慌てながら、清光の手からそれを奪い返そうとした。清光はそれを見計らい、青い玉を放り投げる。紅緒は焦って、胸元をはだけさせたまま輝く蒼に手を伸ばした。
「ごめんね、高寺さん」
清光は紅緒のその手を逆手でつかむと、紅緒の頭にそっと手を置いた。
「あっ……」
すると紅緒は小さく声を上げたきり気を失い、そのまま清光のほうへ倒れ込んだ。清光はその身体を抱きとめると、ゆっくりと床に寝かせた。紅緒はすやすや寝息を立てている。
清光は紅緒の様子を確認した後、そばに落ちていた青い玉を再び手に取って、ぎゅっと握った。再度手のひらを開いた時、玉はきらきらと輝きを放ちながら、そのまま星屑が散るように粉々に砕け散った。
一部始終を眺めていた女生徒は、にこにこと笑いながら口を開く。
「やはり人間ごときでは駄目でしたね。その女に任せず、私が化けたほうがよかったでしょうか」
「……何度来ても同じことです。あなたが誰に化けようと、何に化けようと、本来の姿くらい見たらわかる」
清光が言うなり女生徒の顔は歪み、清光を憎々しそうに見た。清光はその視線を、真っ向から受け取る。
「見てくれを変えても、あなた方の本当の姿を変えることはできない」
立ち上がって言いながら、清光の瞳が女生徒をとらえる。
「……――ほら」
清光が言うと、女生徒の顔がぐにゃりと溶けだした。同時に整った爪がみるみる鋭く伸びて、鉤状になっていく。その手脚も、形を変えようとうねりだした。
「……――っ!」
女生徒は慌てて後ろへ跳ねて、清光から距離を取った。原型をとどめることのできない顔を手のひらで隠しながら、教室の中程の机の上へ飛び乗る。その鋭い爪をたたえた手は、みるみるうちに節くれだって倍以上も大きくなっていた。
「くっ……! おのれ……おのれ頼光……――!」
もはや、美少女の要素はどこにもなくなった。額からみるみる太い角が一本生えだし、手のひらで覆いきれなくなっている。髪の毛は逆立ち、うねうねと生き物のように動いていた。
「ふ、ふざけるなよ……――お前……――くそっ!」
女生徒の姿をしていた時の仰々しい言葉遣いは消え、その声は野太く変わりつつあった。
「それはこちらの台詞です……あの子たちに、何をしたのですか」
清光は、醜く変わりゆくそれに問い詰める。
「あの子たち……――?」
それは震えながら、今度は高笑いをした。
「ははははは――! そうか、お前はあちらを気にするのか。この私を目の前にして、私の爪が届く距離にありながら、あいつらの心配を!」
ひとしきり笑うと、それは少し落ち着きを取り戻していったようだった。
「ふふ、ふふふふ――……まあいい……――お前をここに、うまく縛りつけることはできたのだから。時間は十分稼いだ。お前をあいつらから引きはがすことが、私の役目……それを果たせたの……ですから……この醜い姿を晒した甲斐もあるというもの……――」
再び言葉遣いが丁寧になるにつれ、それの容姿もまた変化し始めた。鉤爪がなくなったかと思うと、手のひらや手脚も縮んでいく。
そして逆立った髪の毛が美しく整うと、顔を隠していた手を下ろした。額の角は姿を消し、そこにはまた先ほどの美しい女生徒が立っている。女生徒は、再び清光ににこりと笑いかけた。
「私を虚仮にした報いは、いつか必ずお返しします――今は、主があなたを待っているのです。ふふ、時は満ちたようですから、あなたを主の元へご案内しなければ」
透き通った、美しい声であった。
「――その必要はありません」
しかしそんな女生徒に、清光は冷たく言い放った。
「……必要ない、とは?」
「案内は不要です。僕は僕の意思でここにいたまで――あの二人は、僕がいなくても十分力を持っている。あなた方が二人をどうするつもりか知りませんが、思い通りにはなりません。これまでもこれからも、あなた方の思い通りにはなりません」
清光は、一向に焦っている様子はなかった。女生徒はそれを見て、清光を睨みつけながら歯ぎしりをする。
「いつまでも、すましていられると思うなよ……――」
女生徒は、醜く低い声で呟いた。
「すましているつもりはありません――それから高寺さんの服、ちゃんと戻してあげてくださいね」
それを聞いて女生徒は薄ら笑いを浮かべる。今度はまた、透き通った声を出した。
「……もしやこの女を気にして、ここに残ったのですか? 美しい身体に、歪んだ心……素晴らしい。食べるのを我慢して、あなたにとっておいて差し上げたのに」
「――あなたも、消えたいんですか」
清光の声は落ち着いていたが、その一言で女生徒の身体は固まった。蛇に睨まれた蛙のように身じろぎできず、額に汗が流れる。清光の目は、笑っていない。
「……ふふ、冗談ですよ。あんなにあなたの力がまとわりついたもの……喰べたらこちらの身が危ない。下衆では宝玉を渡すこともできぬから、わざわざ私が出向いたのです。近づこうとした鬼が、今までに何匹消えたかご存知……?」
軽口を叩きながらも、女生徒の身は自然と震えていた。清光の底知れぬ力を目の当たりにして、そのまま祓い清められ消し飛ばされるのではないかと、本能からの恐怖に身体を支配される。清光はその様子を見て、ふっと力を緩めて言った。
「ちゃんと戻して、教室へ帰してあげてくださいね」
清光からの圧が消えた途端、女生徒は自由になった。そして素早く紅緒を抱きかかえると、二人は一瞬でその場から姿を消した。




