後始末
異常気象と言われるほどに、今年は桜が花開くまでに時間を要した。しかもこの街ばかりである。だがあの大きな嵐が過ぎた後、せきとめられていた何かが溢れ出すように、街には一気に春がやってきた。
眩しいくらいの太陽が射しこみ、春の陽気が川辺を包む。桜の花びらが、川面にいかだを作っていた。さらさらと流れる花びらは、一体どこまで行くのだろうか。
満開になった桜につられるように、川沿いにはたくさんの草花が顔をだしていた。ナズナの白、イヌフグリの青、タンポポの黄――春の息吹は、とどまるところを知らない。
そんな緑の中、蜜を探して蝶が飛んでいた。漆黒の羽は、川辺でよく目立った。
「桜子! 見て、クロアゲハよ」
その蝶を指さして、美しい少女が言った。蝶はその声を無視して、かすかに青色を帯びた羽をはためかせる。
「どこ? あ、本当!」
美少女の後ろから、これまた美しい少女が顔を出した。二人はセーラー服に身を包み、赤いスカーフを着けている。
「珍しいのに……見られてよかった! ずっと桜子に見せたかったから」
「薫子、探しててくれてたの? ありがとう」
二人は、鈴のような声で笑い合った。
「あ、あそこにも枝が飛ばされてる……」
「待って、私が取ってくる」
薫子は土手を少し登って、落ちている枝を拾いに行った。以前の暴風雨で折れてしまった、桜の枝だった。
「ごめんね……――」
薫子は呟くと、持っていた袋に入れる。袋の中には、同じように折れて飛ばされた草木がたくさん入っていた。
そうしている間に桜子も、川を流れる不純物を、枝でひっかけて取ろうとしていた。桜子の持っている袋の中には、折れた傘やビニールなどの、ゴミが入れられている。
「もうちょっと……!」
手を伸ばす桜子の額には、汗が光っている。
「待って、僕が取るよ」
川に落ちてしまいそうなその姿を見て、清光が後ろから声をかけた。
「ダメ! これは私たちでしなくちゃ。清光は来なくていいって言ってるのに……!」
桜子は口をとがらせて清光を拒否する。薫子も土手を駆け下りてきて、桜子に加勢した。
「そうよ清光。今日は汗ばむくらいあったかいんだから、家に帰ってくれていいのに」
少女たちは嵐で飛ばされた木々やゴミを拾い、自らの罪を少しでも償おうとしていた。清光は来なくていいと言い張る二人に、無理やりついてきた形だった。
「二人だと、危なっかしくて見てられないのに……――」
そんな清光の言葉など聞こえないかのように、少女たちは先を急ぐ。清掃活動に勤しむ美少女二人を、近隣の人々は温かい目で見つめていく。
「偉いねえ、二人とも若いのに」
声をかけられると、二人は恥じらいながら笑い返した。胸を張れるようなことではないのに、人と関わっているという実感が、どうしようもなく嬉しかった。
「――ねえ、薫子……あの時、大嫌いなんて言ってごめんね」
桜子は、気まずそうに薫子のほうを見て言った。
「……私のほうこそ、謝らなくちゃ。ごめんね、それにありがとう……手伝ってくれて」
「全然、そもそも半分は私のせいだし! それになんだか私、ここにいられることがすっごく嬉しくて……身体は重いし暑いし、辛いことも、嫌なことも、これから乗り越えていかなくちゃいけないこともたくさんあるんだけど……あ、次は図書室の片付け手伝ってね……?」
桜子は頬を赤く染めて、大きな瞳を薫子に向けた。
「もちろん。それも、半分は私のせい。それに私も今ね、すっごく嬉しい気分。もう一人じゃないんだもん。私には桜子がいて、清光がいて……わからないくらい、たくさんの人がいる」
薫子も、形のよい唇に笑みを浮かべ、桜子を見た。
「これからも、ずっと一緒。大好き」
「私も、薫子が大好き……!」
少女たちが先を行って見えなくなると、二人を見守っていた清光は土手に上がった。ずっと、そこから視線を感じていた。桜の後ろにいる人影に向かって声をかける。
「久しぶりだね」
そこにいたのは、一人の少年だった。清光が気づいているとは思っていなかったので、気まずそうに下を向く。
「あの……――」
少年の声は、とても小さかった。
「あの……この前は、ありがとうございました……」
「参考書、どうだった? それから君に聞きたかったんだけど――君って、引っ越してきたばっかりだよね?」
唐突に清光に問われて、少年は訝しみながらもかすかにうなずいた。
「これもあげる」
清光が鞄から取り出したのは、早瀬学院の封筒だった。中には何か書類が入っている。
「……? これは……――?」
少年は出されたものを受け取ったが、中を開けるのをためらった。
「それ、早瀬の転入関係の書類」
「……えっ?」
少年は驚いて、手の中の封筒を見つめた。
「なんで――……」
「君、早瀬に入りたそうだったから。引っ越してきたばかりなら、転入試験を受けられるよ。試験は簡単じゃないけど、君なら大丈夫だと思う」
「な、なんで……、なんで僕が学院の生徒じゃないってわかったんですか?」
その問いに、清光は不思議そうな顔をした。
「だって君の顔、学院で見たことなかったし……それに、学院の制服着てなかったから」
さも当然、という顔で言う清光を見て、少年はまた驚いた。何度も学院へ入り込んだが、見咎められたことはなかった。
「そう……ですか。一度もばれたことなんてなかったのに――」
少年は観念したように、封筒を握りしめながら言った。
「――ずっと、憧れてたんです。早瀬学院に。俺、家の事情で最近この街に越してきたんですけど、母の地元だから、小さい時によく遊びに来てて。ちっちゃい時、この学院の平和そうな雰囲気とか、校舎とか、制服とか、全部好きで。だから、一度でいいから入ってみたかった。俺みたいなのが、入っちゃいけないってわかってたけど――」
清光は罪を咎めたわけではないのに、少年の口は勝手に開いた。どうせ、もう早瀬学院に入ることはできない。清光に会うこともこれが最後になるだろう。ならば恵まれている自覚のない早瀬学院の生徒に、洗いざらい気持ちをぶちまけたかった。
「でも、やっぱりどうしても、気持ちを抑えきれなくて……――一度うまくいったら、何度でもできた。特に、図書室の雰囲気がすごく好きで。読みたい本がたくさんあって、みんな自習とかもしてて、羨ましかった。俺は、そんなふうに勉強できる環境がなかったから……――」
初めて学院に忍び込んだのは、越してきたばかりの頃だった。久しぶりのこの街を散策して、校門前まで見学しに行った。そうして早瀬学院の生徒らしい気分を味わえれば、それだけで十分だったのに、少年は欲を抑えきれなくなってしまったのだ。
「えっと……だからその、これ、受け取れません。俺、学校まともに行ってないから、受からないです。それに万が一試験に受かったとしても、通えないです。うち、きっと学費なんて払えないし」
少年は、清光に封筒を返そうと差し出した。
「――君、勉強好き?」
清光はそれを受け取らずに、少年に言う。
「あの参考書も、もう解き終わったでしょ。僕が持ってる他の問題集もやるといいよ、中等部のも取ってあるから。今度うちへ遊びにおいでよ。中等部の試験問題もたしか残してあるはずだし……わからないところがあったら、僕でよければ教えるよ。大丈夫、まだ時間はあるから」
「えっ――」
予想外の申し出に、少年は驚いた。
「それから早瀬は、成績優秀者には奨学金がでるんだ。中等部であっても、もちろんね。うちの理事長は、優秀で真面目な生徒は大歓迎だし。話は通してあるから、あとは君次第だよ」
少年は、封筒を持つ手が震えた。封筒に刻まれた、早瀬学院の文字が光る。
「本当に……俺が、行けるかもしれないんですか……? でもどうして、どうしてそんなことを俺に……――」
あまりにうまい話しすぎて、少年は清光の言うことを素直に受け入れられなかった。
「だって俺、無断で学校に入り込んで……こんな得体の知れないやつに、どうして……」
清光は少年を見て笑った。
「お礼だよ」
「……お礼?」
「そう。君、桜子と一緒にいてくれたから。ありがとう、あの子を見つけてくれて」
少年はそれを聞いて、泣きそうな顔になった。
「……それなら、なおさら受け取れません。俺は、あの子にすごく酷いことをした。俺、忍び込んだことがばれたくなくて、あの子を見捨てたんです。すごく怯えて悲しんでて、困ってたのがわかったのに……――なのに、俺は自分のことばっかりで――」
差し出していた封筒を無理やり清光に押しつけ、下を向く。しかし清光はやはりその封筒を受け取らず、少年に言った。
「うちにおいで。桜子から、場所は聞いてる? 君が来てくれたら、きっと喜ぶ。最初は怒ったり悲しんだりするかもしれないけど、あの子は君といる時間が、すごく好きだったみたいだから。よく考えたうえで、それでもこれを受け取れないなら、その時に返してくれたらいいよ」
封筒を押し付ける少年の力が緩み、封筒を握る力が強くなった。
「俺、あの子に謝らなくちゃいけない……」
「うん。待ってるよ――……あ、そうだ……君が持ってるその青い石、僕にくれたら嬉しいんだけど」
清光は、少年のスラックスのポケットを指差した。
「あっ……これ、ですか?」
少年からポケットから取り出したのは、あの瑠璃の玉だった。春の陽の下で、星屑がきらきらと輝く。
「これ、道に落ちてたんです。きれいだったから、なんとなく拾っちゃって……もしかして、これ落としたのって――……すみませんでした、勝手に……」
少年は悪びれながら、その玉を清光に差し出した。
「いや、拾ったのが君でよかった。でももう、これは君には必要ないよ。それじゃ、また」
清光は玉を受け取ると、軽く手を挙げて土手下に降りて行ってしまう。少年は慌てて、清光に声を投げかける。
「あっ、あの……! ありがとうございました――! 俺…あの子に会いに、絶対行きますから……!」
少年は封筒を握りしめて、清光の後ろ姿に礼を言った。
清光は少年を後にして川沿いを歩きながら、手にしていた青い玉を弄びつつ、それをぽんと上に放った。かと思うと、その玉は一瞬で砕け散り、きらめく破片は川面に落ちて、せせらぎの中に消えていく。
後に残るのは、のどかで美しい、春の景色だけだった。




