恐怖
目の腫れがひくと、サクラは早速図書室へと足を運んでいた。
シンが来るのを待ちながら、本を読んでやり過ごす。一人きりで土蔵にいると、嫌でも寂しさを感じてしまう。サクラはどうにか気を紛らわせたかった。気を抜くとカオルの顔が浮かび、瞳が潤んでしまう。
「早く来ないかな、シン……」
ぽそりと呟いて、一人きりの図書室でまた新しい本を開いた。図書室には入れ替わり立ち代わり生徒たちがやってきたが、シンはなかなか現れなかった。
そして午後になると、なぜだが生徒たちは誰もいなくなって、室内に人影もなくなってしまった。サクラは目を滑らせながらも、なんとか文字を追っていく。そうして数頁読み進め、ようやく物語に入り込めそうな時のことだった。
図書室の扉の外に人の気配がした。シンだろうか、と思って、サクラは嬉しそうに立ち上がる。
扉は静かに、ゆっくりと開いた。しかしそこに立っていたのは、見知らぬ大人の男だった。乱れた髪に鋭い眼光、よれたシャツとズボン。だらしがないというよりも、すさんだ容貌だった。
扉を開けた男がシンではなかったので、サクラは残念に思った。見たことのある司書ではないから、学院の教師だろう。時たま教師が資料を探しに来るが、大人は誰もサクラに気づかない。サクラは男を気にすることなく、再び本を読もうと座りかけた。
だが、その男は扉の前から動かなかった。不審に思ってサクラが男のほうを見ると、なんと男もまた、目を見開いてサクラのほうを見ている。
「君は――……」
そう、男は間違いなくサクラを見ていて、サクラに声をかけているのだ。
「――――!」
サクラは驚いて後ずさった。後ろにあった椅子に身体があたって、図書室にがたりと音が響く。男はサクラを凝視したまま、ようやく室内に足を踏み入れてきた。そのまま後ろ手で、扉を閉める。
「君は……、君は、違う……――彼女じゃ、ない……」
何かをうわごとのように言いながら、男はサクラに近づいてきた。サクラはわけがわからないまま、近づいてくる男から離れようとさらに後ろへ後ずさりした。
「ああ……でも、君も同じなんだろう? 私にはわかる、君は違う……ああ、でも彼女じゃない。なぜ? 彼女はどこにいるんだ……?」
挙動のおかしい男に、サクラは小さな声で話しかけた。
「……あなた誰? なんで私が見えるの……?」
「あの時図書室にいたのは君なのか? 外へ飛び出したのも、君なのか?」
男はサクラの質問を無視して、サクラに問いかけ続けた。サクラは男が何を言っているのかよくわからないものの、シンと図書室にいたあの日、扉を開けたのがこの男なのではないかと思った。
「……それはたぶん、私」
男は誰かを探している。シンを? いや、彼女と言っていた。では、カオルを――?
「――君……図書室にいたのは、君、だったのか……――」
サクラの返答を聞くと、男は悲痛な顔をした。待ち望んでいた何かを得られず、絶望したような、裏切られたような顔だった。
サクラはその顔が、とても怖く感じた。とにかくこの場から、男から逃げ出そうと、図書室の扉のほうへと駆けだす。向かってくる男を避け、閲覧用の机を回り込もうとした。
しかしサクラは恐怖のせいか、足がもつれてしまった。そのまま前に、ばたりと倒れ込む。うつ伏せになって、スカートの裾が広がった。すぐに立ち上がろうとするも、すでに男は目の前に来ていた。
「……なあ、教えてくれ。彼女は、どこにいる――?」
男のぎらぎらとした双眸は、鋭くサクラを見下ろした。
「……嫌っ――! 来ないで……!」
サクラはなんとか起き上がろうともがくが、身体に力が入らない。大人の男にねめつけられたのは、はじめてだった。男は自分よりもひと回りもふた回りも大きく見えて、反対に自分はひどく小さく弱いもののように感じた。
サクラは震えながら仰向けになって、身体をよじりながら男から距離をとろうとする。そしてなお近づいてくる男の足を、がむしゃらに蹴飛ばした。男はサクラを凝視していたため、あえなくどさりと転倒する。
「ぐっ……――」
男は尻餅をついて、サクラから目を離す。するとその衝撃で、怯んだ男のズボンのポケットから、何かが落ちた。ころころと音を立てて転がり出たのは、小さな丸い玉だった。青く、そして蒼く、深い色をしていた。黒色に染まっていくように、青色は底がない。その玉は床を転がると、壁の本棚にぶつかって再び二人のほうへと戻ってきた。
「……――?」
サクラは一瞬、その玉の青さに目を奪われた。その隙に男は再び態勢を取り直し落ちた玉をすばやく拾うと、油断していたサクラに向かっていき、強い力で組み敷いた。
男の重みと力を感じて、サクラは恐怖で固まった。男はサクラを押し倒しながら、片手でサクラの両腕を押さえつける。サクラは身動きができなくなってしまった。男の肌の感触が不気味でたまらない。今すぐはねのけてしまいたい。だが、男はびくともしなかった。
――誰か、誰か助けて……嫌……! ――カオル……、カオルはどこ? カオル、清光、誰か……お願い早く来て、シン、シンは――?
サクラはぎゅっと目をつぶって、必死で懇願した。しかしそんな様子に構うことなく、男は握っていた青い玉をサクラに見せつけた。男はそれを見つめながら、恍惚とした笑みを浮かべていた。
「見てくれ、きれいだろう? この玉のおかげで、私は思い出したんだ。覚えてるんだよ、今も! 会いたいんだよ、彼女に……――。教えてくれ、彼女はどこにいるんだ……?」
サクラの目は恐怖に染まり、玉など目に入らない。
「美しい、きれい、きれいだ……――私は、私、私は……ううっ……――」
男はもはや常軌を逸していた
「君も彼女と同じなんだろう? お願いだ、教えてくれ……」
「やだ……――」
男の視線が、とても嫌だった。サクラは声を振り絞る。しかし男はサクラの声など耳に入らないようだった。
「いや……何を言っているの……――!」
どうしようもない不快感がサクラの身体中を駆け巡る。だが……不思議なことに、不快感と同時に、今までにない力が湧いてくるのがわかった。
――嫌、気持ち悪い……!
サクラが男を強く拒絶した時、その時、びくともしなかった男が突然、サクラから弾け飛んだ。男の身体は跳ねて机を飛び越え、勢いよく本棚にぶつかった。
「ぐあっ……――」
衝撃でばらばらと本が落ち、男はなにが起こったのか理解できていないまま、痛みでうずくまった。
「やめて……もう、来ないで――」
この男にこれ以上触られたくない。気持ちが悪くてたまらない。サクラの中は、嫌な感情でいっぱいになった。
しかし、なぜだかその感情はサクラの身体を強く動かした。男を拒絶するだけの力が、サクラに溢れ出す。窓は閉まっているのに、図書室内に静かな風が吹き始めた。その風はサクラを守るように取り囲む。
サクラは起き上がって、男のほうを見た。男もまた、ようやく身体を起こす。頭を打ったのか手で押さえながら、まだ状況に理解が追いついていないようだ。
「来ないで……!」
威嚇するようにサクラが言う。身体から力が溢れ出て、どこかにぶつけたくてたまらなかった。これ以上男が向かってきたら、力の加減ができない――そう思った時、図書室の扉が開き、誰かが入ってきた。はっとしてサクラがそちらを見やると、そこにいたのは、待ち望んでいたシンだった。
「シン……――!」
サクラはシンの顔を見て、緊張の糸が緩んだ。吹いていた風が止む。シンが来てくれたのなら、もう大丈夫だと自然に思った。あの時みたいに、きっと安心させてくれる。
だがシンはサクラのほうへ歩み寄ろうとした時、室内にいる男に気がついた。するとシンはなぜだが、しまった、という焦った顔になった。
男はまだ頭を押さえながらも、シンを睨みつける。
「なんだ君は……中等部か? 何年何組だ……?」
シンはサクラと男を交互に見て、逡巡しているようだった。状況を図ろうとしていたのかもしれない。だが男が起き上がりかけたのを見ると、笑いかけるサクラを無視し、無言のまますばやく図書室を出て行ってしまった。
サクラは、またもわけがわからなかった。
「――シン? なんで、なんで行っちゃうの……?」
図書室には、再びサクラと男だけになる。サクラは目の前が真っ暗になった。
――誰も、誰も助けてくれない。カオルはいなくなっちゃった。シンも私を置いていった。清光だって、もう私のことなんて忘れちゃった。
――嫌だ。もう、全てが嫌。苦しい……――ううん、違う……。
――憎い。この感情は、憎いっていうんだわ。
サクラの頬に、涙が流れた。しかし口元には笑みが浮かぶ。今まで知らなかった感情が溢れ、そして更なる力が湧き上がった。感情に任せるということが、これほどまでに簡単で、気持ちのよいものだとは知らなかった。辛くて苦しくてたまらないのに、心の奥底から熱い何かが湧き上がってくる。
サクラの周りに、先ほどよりも強く大きな風が生まれた。台風の目のようにサクラを囲んで、びゅうびゅうと鳴る。
「――私、あなたのことが憎いみたい」
サクラがそう言うと、あたりの本棚から本が浮かび上がって、男へ向かって一斉に飛んでいった。
「うわっ……!」
早瀬学院の蔵書数は、とても多い。絶え間なく降り注ぐ本の弾丸に、男は再びしゃがみこんだ。分厚い辞書も、小さな絵本も、ハードカバーの小説も、全てが男を目掛けて飛んでいく。その中には、シンと感想を言い合った本も混ざっていた。
風と、そして本がぶつかる音で、図書室内はいっぱいになった。男は本に押しつぶされて埋もれ、もうどこにいるのかもわからない。それでも本の雨は止むことがなく、図書室内のすべての本がばらばらと落ちたり、風に乗って飛びまわったりした。室内はめちゃくちゃだった。
サクラはその喧騒の中を一人、窓へ向かって歩いた。サクラを避けて、本は飛びまわる。サクラは窓の前に立つと、右手をかざした。すると、その一枚の大きな窓は、鋭い音を立てて粉々に砕け散った。ガラス片が、きらきらと舞う。
窓ガラスが割れたのと同時に、図書室の本たちは動きを止めた。飛んでいた本は一瞬空で止まると、力をなくしてばさばさと床に落ちた。サクラはその音だけ聞きながら、後ろを振り返ることもなく、窓から外へと飛び出した。




