謎の女生徒
ふとどこからか視線を感じて、尾々はあたりを見回した。
しかし尾々の周囲に人影はなく、電線にとまっているスズメが鳴いているくらいだった。冬毛を落としたスズメはすっきりとしていて、春の訪れを感じさせる出で立ちだ。青い空を背景に、のんびりと電線でくつろいでいる。
このまま学校になど行かずに写生にでも出かけてしまいたいくらいの、なんともよい陽気である。
尾々は詰襟の胸ポケットに入ったペンをいじりながら、一限目くらい遅刻してしまおうか、などと考えた。今日もまた一日授業を受けねばならぬ気だるさに、ため息がでる。
ああ、スズメたちは気楽でよい――しかしそう思った時、突然後ろから声がした。
「あら、今日は学校へ行かないのですか?」
尾々は驚いて、文字通り飛び上がった。それと同時に電線のスズメたちも、慌ててバサバサと飛び立っていく。先ほどの気楽さはどこへやら、スズメたちはあっという間に空の彼方へ消えていった。後に残されたのは、尾々ばかりである。
学校を遅刻してしまおうか、などという自分の考えを見透かされたのかと思い、尾々は自省した。ただスズメが羨ましかっただけで、本気で遅刻する気も休む気もない、これから学校へ向かうのだ、などと、心の中で慌てて言い訳をした。
「ねえ、尾々松葉くん」
一人白黒している尾々に、声は再び呼びかけた。尾々は焦りながら振り向く。
するとそこには、一人の女生徒が立っていた。制服は確かに早瀬学院のものである。しかし、名前どころか顔も記憶になかった。
「ええと……――」
尾々は女生徒を見つめたまま、身体が固まってしまった。なにしろその女生徒は、とても美しかったのである。佳乃子や紅緒のような愛嬌はなかったが、その分とても端麗で、作り物のように欠点がなかった。ガラス玉のような瞳を持ち、口元にはこれもまた作り物のような笑みを浮かべていた。まっすぐ見つめてくる女生徒の瞳から、尾々は目を離せなくなってしまった。
「学校、行くのですよね?」
女生徒は、静かに尾々に話しかけてくる。
「それは、もちろん……行きます……――」
女生徒に問われるまま、尾々はそう答えた。
自然と尾々も敬語になった。女生徒は何年生なのだろうか。スカーフの色は白であるから、高等部であることはわかる。しかし同学年ではないはずだ。これほどの美女であるなら、紅緒以上に噂にならないはずがない。
「私、あなたにお願いがあるんです」
「お願い……?」
尾々はもはや女生徒の瞳から目が離せなくなっていた。吸い込まれそうな瞳である。
「そう、お願い……――これを、もらっていただけませんか?」
そう言って女生徒は、尾々に何かを差し出した。ようやく尾々は女生徒から目線を外すことができ、女生徒が握っているものに目をやった。
それは、小さな玉だった。青と蒼とが混ざり合う中で、金色が星空のように散らされている。その玉を、その青を、尾々はどこかで見たことがある気がした――これはなんだ? ああそうだ、これは瑠璃、ラピスラズリだ……――。
その宝石は絵の具の材料としても用いられていたため、尾々は見たことがあった。有名な絵画にも用いられていて、天然のものは高額だったが、その青の発色はとても美しい。尾々はいつかそれをふんだんに使って絵を描きたいと思っていた。
「これを俺に? なぜ……――?」
女生徒の色香にあてられたのか、尾々の頭はくらくらしてきた。
女生徒が差し出す瑠璃の玉の青が、目に眩しい。その玉は、今までに尾々が見たことのあるどんな瑠璃よりも、どんな色よりも、深い色をしていた。しかしそのせいだろうか、その蒼はどこか禍々しく、散らされた金色は、どこか毒々しく見えた。
「あなたは、音羽清光といつも一緒にいらっしゃいますね」
「音羽? はあ、一緒にはいますけど……」
ここでも音羽の名前か出てくるのか、と、尾々はぼうっとする頭で思った。
「けど……? ふふ、あなたと音羽清光は、本当に真からの仲ではありませんものね。あなたは、音羽清光のことを何も知らない」
「何を急に……そんなことは……――」
いったいこの女生徒はなにが言いたいのだろうか。
「ふふふ、いいえ、そうなのです。ねえ、これが欲しいでしょう?」
女生徒は妖しく笑った。作り物のような顔に、ようやく表情らしい表情が現れる。しかしそれは、女生徒の美しさを奪うような、厭らしい笑みだった。
女生徒は差し出した玉を両の手で包み、祈るような仕草をした。そして再び手を広げると、先ほどまでは一つしかなかった玉が両の手に溢れだした。きらめく玉は十以上にもなり、尾々の目を染めた。
「あなたが欲しいのなら、いくらでも差し上げます。美しいでしょう?」
その瑠璃の玉は、一つでさえ苦しいほどに眩しかった。あたりの色を、全て吸い込んでしまうかのように。
わけのわからない申し出に、尾々は何も答えられなかった。女生徒の色香に加え玉の圧が加わって、靄がかかっていくように尾々の思考はどんどん鈍っていく。
「遠慮なさらないで。これを持って、音羽清光に憎しみをぶつければよいのです」
「憎しみ? 俺は音羽に憎しみなんて……――俺と音羽はずっと仲良くて――」
「あら、本当に? 音羽清光は、そうは思っていないのでしょう?」
――音羽は、俺のことをどう思っているんだろうか? 音羽清光のことを何も知らない? ああ、たしかにその通りなのかもしれない。音羽は、俺とはどこかが違っている。他の誰とも違う。彼の輪郭をつかむことは、俺にはできない。
女生徒に言われると、尾々はその通りである気がしてきた。
「そうでしょう? あなたは、音羽清光のことを何も知らないのです。だから、音羽清光がどうなろうと、どうでもよいことでしょう?」
――そうなんだろうか? 音羽清光がどうなろうと……? いや、一体どうなるというんだろう。ただこれを受け取ってくれと言っているだけじゃはないか。
「そう、ただこの玉をもらってくださればよいのです。あなたを煩わせることは何もない。美しいでしょう? これをあなたに、いくらでも差し上げるのですよ」
――そうだ、ただ受け取ればいいだけのことだ。
尾々は、女生徒が差し出す玉に手を伸ばした。しかしなぜであろうか、その玉に触れることを、身体が拒んでしまう。
とても美しい玉である。たくさんの瑠璃が手に入ればそれを顔料に変えて、深い夜空も、澄んだ青空も、思うままに描くことができるかもしれないのに。どうしてだか、その玉に触れることができない。
尾々は手を伸ばしたまま、見えない力に阻まれるように、身体に自由がきかなくなってしまった。
瑠璃の深い色が、こころの奥を黒く染めていく気がした。その玉に触れたいのに、触れてはいけないのだと何かが囁く。その青の冷たさに射すくめられ、体温が全て奪われていく。しかしそんな中で、自らの内奥の何かが熱を放ち抗っているような気がした。
その様子を見て、女生徒は苛立つように言った。
「何をそれほど迷うのですか? 素直になればよいのです。あなたがどれほど思っていても、音羽清光はあなたのことなど何とも思っていはしない。憎くはないのですか? あなたがどれほど精進しても、あなたは音羽清光になれはしない……!」
音羽が憎い――いや、尾々はそんなことを、思ったことはなかった。
「……音羽を憎んだことなんか、ない」
清光の感情がないような落ち着き払った顔と、周囲に漂わせる平和な空気感を思い出すと、尾々の頭にかかった靄が少しずつ晴れていくような気がした。玉に差し出していた手を引き、女生徒に言った。
「俺が音羽になれないことなんてわかりきってる。でも、あいつは俺の友人で、親友なんだ。それに、これはいらない。よくわからないけどこれは、もらっちゃいけないものな気がする」
なぜだかわからないが、この玉はよくないものだ、と尾々の奥底で何かが叫んでいた。いつもであれば、尾々は異性にこのような物言いはしなかった。自分を抑えてでも異性の意見を汲み、異性を立てた。しかしこの不思議な女生徒の言うことには、従えなかった。
先ほどまでは言うなりだった尾々の言に女生徒は一瞬顔を歪めたが、すぐに全ての表情を失った。無表情になった女生徒はどこか作り物めいていて、感情の一切が読み取れない。
「なんて使えない男……」
小さな声で呟くと、女生徒は両手をだらりと下ろした。女生徒が持っていた瑠璃は玲瓏と、あちこちに散らばっていく。
玉が転がる音を聞くと、尾々の身体から緊張がぬけ、頭にかかった靄も霧散していった。自分は今まで、一体何をしていたのだろう? 今、女生徒と何を話していたのだったか?
「――あ……、あれ? えっと……、ごめんなさい、今、俺は何て? そんな強く言うつもりはなくて……あれ……? 音羽がどうかしたんだっけ……? 何か用があるのなら、伝えますけど……――」
女生徒は慌てる尾々を見て、すぐに作り笑いを浮かべた。
「いいえ――もう、あなたに用はございません」
女生徒が静かにそう言うと、尾々の耳にスズメの鳴き声が入ってきた。先ほどのスズメがいつの間にか戻ってきたのだろうか、と、尾々は電線に目をやった。そこにはたしかに、少し前に見たような景色があった。のどかな朝、電線でスズメがのんびりくつろいでいる。
しかし再び女生徒の方に目を向けると、そこに女生徒の姿はなかった。きょろきょろとあたりを見るけれど、女生徒が持っていた玉も見当たらない。狐につままれたように、尾々はまた目を白黒させた。
一体、何があったのだったか? 女生徒が何やら話しかけてきたことは覚えている。
尾々は、女生徒の顔を思い出そうとした。しかし早瀬学院の制服を着ていたが、どうも顔が思い出せない。とても端麗な顔をしていたはずだ。女生徒のガラス玉のような瞳だけが、尾々の脳裏にどうにか残っていた。




