朝
佳乃子は、雨が上がった次の日が好きだった。太陽が反射して水たまりがきらめくところや、道端の草木が水を得て生き生きとしているさまを見ると、爽やかな気分になる。
しかし、今日はいつもと違って身体が重かった。起きなければいけない時間は過ぎているのに、ベッドから動くことができない。
「ああ、行きたくないなあ……」
このままずっと寝ていたい、などと、子供じみたことを思う。間に合わなくなってしまうぎりぎりの時間まで、一人ベッドの中で駄々をこねた。
四月になって下ろした春物のパジャマが、今日はとても薄く感じる。生地が肌に擦れると、さらにひんやりとした。
重い身体を無理やり持ちあげて嫌々起き上がると、だらだらと身支度をしていく。少し思案して、クリーム色のワンピースに袖を通した。襟元や袖がゆったりとしていて、身体のラインを隠すデザインだ。しかし腰元にベルトを巻くとだらしなさがなくなって、上品な出で立ちになった。
化粧を施すと髪をまとめ上げる時間はなかったので、少し櫛を入れブローしただけでセットを終える。そして紅茶だけ飲んで家を出た。
外は、思っていた通りの陽気である。乾いた空気が気持ちよい。昨晩の雨の雫が街路樹に乗っていて、きらきらと反射した。
しかし佳乃子の住んでいる地域では通り雨ですんだけれど、音羽家のほうは昨晩の嵐が直撃したらしい。大丈夫だっただろうか、と佳乃子は清光の面影を思い出しながら心配した。
「休みの日に、乃木さんに会えるなんて嬉しいなあ」
待ち合わせの場所に行くと上司は既に来ていて、佳乃子は待たせてしまった詫びをした。しかし上司は構うことなく、佳乃子の顔をみてにこにこ笑った。
「今日は髪の毛下ろしてるんだね、珍しい。似合ってるよ!」
苦笑いをしながら礼を言ったものの、まさか時間がなくて面倒だったからだとは言えない。髪の毛を下ろした佳乃子は、いつもより幼く見えた。薄い化粧と相まって、学生のようなあどけなさが出ている。
「それじゃあ行こうか!」
相変わらず上司はにこにこと、ハンカチで額の汗を拭いながら言った。
「あ、はい……行きましょうか……――」
やっぱりか、と思いながら、佳乃子は今すぐにでも帰りたくなった。
仕事の参考にするためにみんなで行きたい店がある、と上司から言われたのは、佳乃子が給湯室で一人お茶を入れている時だった。最近新しくできた店で、ウインドディスプレイの参考にぜひ行きたいとのことだった。同僚たちの休みが重なっている日を選んで、みんなでどうかな、と。
店の名前は佳乃子も耳にしていて、一度くらい行ってみたいと思っていた場所だった。佳乃子が二つ返事で参加を伝えると、上司は嬉しそうに待ち合わせの日時を伝えてきた。
佳乃子は何の疑いもなく返事をして、ちょうどよかったので上司の分までお茶を入れた。上司はおいしいおいしいと言いながらお茶を飲んで、佳乃子と雑談をしていった。
しかしおかしなことに、後ほど同僚たちにその話をすると、誰も上司からの誘いを受けていなかったのだ。
佳乃子は戸惑った。上司がまだ声をかけていないのに、差し出がましいことをしてしまったのではないかと。しかし、同僚たちの反応は違った。
「あの人、ずっと乃木さん狙ってたもんね」
気づいていないのは佳乃子ばかりで、上司の好意は周囲から丸わかりだったらしい。あれだけ鼻の下を伸ばしていたのに気がつかなかったのかと、驚かれたくらいだった。
慌てて上司に他の参加者について確認しようにもうまくはぐらかされてしまったうえ、部下である立場上今更不参加も伝え辛かった。
そしてとうとう当日が来てしまい嫌々ながら待ち合わせ場所に行ってみると、案の定参加者は佳乃子だけだったというわけだ。上司は当然のように他の参加者について触れず、最初から二人きりの予定であったかのように振舞っている。
「あのさ、今日のこと、お局さんに何か言われなかった?」
上司は歩きながら、佳乃子のことを心配そうに見つめる。
「ああ……あの、先輩方は、お休みが合わなかったんでしょうか?」
「彼女とは一緒に行きたくないよね。休みの日に偶然出会うのも嫌だし、わざわざ彼女が絶対に休みをとれない日を選んだんだ」
笑いながら言う上司に、佳乃子は返答できなかった。上司のいうお局さんとは、佳乃子の先輩にあたる女性だった。同僚たちによると、ずいぶん前から上司に好意を寄せているらしい。あまりにも熱烈であるために、これも気がつかなかった佳乃子は鈍いと言われた。
今日、佳乃子は自分が声をかけたことにして、無理やりにでも同期に同行してもらうつもりでいた。しかしながらその前に、今日のことがその先輩の耳に入ってしまったのだ。
「乃木さんて大人しい顔をして、相当よね。本当に気が知れない。他の人は誰もそんなことしないわよ!」
強い口調で、上司と出かけることを咎められた。前々から、佳乃子に対するあたりがきついということは実感していた。しかしまさか、自分が上司に気に入られていたためだったとは、情けないことに佳乃子は全く気がつかなかった。
「あなたはそんなことしないわよね?」
先輩は、隣にいた佳乃子の同期にそう声をかけて出ていった。そう言われてしまったら、同期に頼むことは難しかった。自分のせいで同期まで目をつけられてしまってはたまらない。男の同僚に声をかけてみようかと思ったが、万が一上司からの評価につながってしまったらと思うと、気が咎めた。
「本当にさ、まいっちゃうよね。困ってるんだよ、彼女からのアプローチ。話しかければすぐ赤くなるから、ついつい話しかけちゃうんだけど」
先ほどもはぐらかされてしまったが、やはり上司は他の同僚たちには声をかけていなそうだ。佳乃子の先輩においては、全く誘うつもりがなかったということがわかった。
好意を寄せられているならそんな言い方をしなくてもよいのに、と佳乃子は思った。上司が気を持たせるようなことを言って、からかっているという噂は本当のようだ。あまりの言い草に耐えられなくなって、佳乃子は思わず上司に言った。
「そんなことを言っては、先輩に対して失礼だと思います。きっと先輩は純粋に……――」
「本当に君は優しいね……。あれだけいつもいじめられているのに、お局さんのことかばうなんて。何か、彼女のこと褒めるように脅されてない? 常々言っているけど、何か困ったことがあったらいつでも僕に相談してね」
佳乃子の言葉を遮って、上司はあれこれ佳乃子に対して言った。
上司は口ではいつもそう言うものの、実際に佳乃子が理不尽なしっ責を受けている場面に出くわしたとしても、けして止めには入らない。何か理由をつけて、その場を見なかったことにする。佳乃子の先輩がいないところで、お局さんは酷い、何かあったら助ける、といった言葉を繰り返すのだ。
上司の話を聞き流しながら、佳乃子はどんどん暗い気持ちになっていった。
社会に出てからというもの、今まで自分がいかに恵まれた環境にいたのかということを思い知った。佳乃子は今まで、悪意というものを実際に知らずに過ごしてきていたのだ。
他人の陰口や嫌な噂話、理不尽なしっ責、嫉妬。社会に出ると、それらが否応なく溢れていた。今まで知らず知らずのうちに向けられていたのかもしれないが、それらが直接的に向けられた時、ここまで暗い気持ちになるとは知らなかった。それを押し返そうとすればするほど、周りからの圧力も強くなり、気持ちを消耗してしまう。
そして今回のような、上司によるだましうち。自分に向けられている、男からの下心。心の奥に重しがついたように、鬱々とした気分になる。
相変わらず喋り続けている上司に、佳乃子は無理やり適当な相槌を打つ。今度は、自分が抱えていた案件をいかに的確にこなし、成果を上げているかという自慢話だった。
そんな中で、冷たいながらも柔らかな春風が吹き、草木に乗った雫を少し落としていく。それが少しだけ、佳乃子の気分に安らぎを与えた。こんなによい気候なのだから、少しでも気持ちを入れ替えよう。早く帰りたいという気持ちや、上司に対する嫌な気持ちを押し込める。
その春風の心地よさは、音羽家のあの雰囲気を思い出させた。悪意のない、ひだまりのような温かさを。清光のあの、さりげない優しさを。




